新故郷
### 『境界の向こうへ』
#### 第八話:新しい名前
北日本、仙台。美優を乗せた電車が駅に着いた夜、悠斗は彼女を連れて街の中心部にある小さなホテルに向かった。外交省の佐藤鉄也からは「手続きの前日は休め」と指示されており、追手から身を隠すためにも人目につかない場所が必要だった。ホテルは古びた建物だが、清潔で静かだ。悠斗が受付で手続きを済ませ、二人分の鍵を受け取った。
「ここで一晩泊まるよ。明日、外交省で正式に手続きするから。」悠斗が部屋のドアを開け、美優を中へ促した。
美優は疲れ切った体を引きずり、ベッドに腰を下ろした。「ありがとう、悠斗…。ここ、安心できるね。」
部屋は狭いが、暖房が効いていて、川の冷たさが残る体を癒してくれた。美優はベッドに横になり、すぐに眠りに落ちた。悠斗は隣のベッドで彼女を見守りながら、自分も目を閉じた。彼女が北にたどり着いた安堵と、これからの不安が交錯していた。
翌朝、陽が昇ると同時に二人はホテルを出て、再び外交省のビルへ向かった。仙台の街は活気に満ち、市場の呼び声や電車の音が響く。美優はまだ体が重かったが、悠斗の隣を歩きながら新しい空気を吸った。ビルに着くと、昨日出会ったいかつい男・佐藤鉄也が待っていた。
「おはよう。調子はどうだ?」鉄也がファイルを手に、美優に視線を向けた。
「少し良くなりました…。」美優が小さく答えると、鉄也は頷き、席に座るよう促した。
「よし、早速始めるぞ。お前は南から脱南してきた。北で生きるには、新しい戸籍が必要だ。過去を捨てて、ここで生まれ変わるってわけだ。」鉄也が書類を広げ、ペンを手に持った。「名前はどうする?」
美優は一瞬戸惑った。「名前…変えるの?」
「南の追手から身を守るためだ。佐藤美優じゃ、すぐバレる。」鉄也が淡々と説明した。
悠斗が横から口を挟んだ。「何か希望はある?僕が考えるのも手伝うよ。」
美優は目を閉じ、少し考えてから呟いた。「由奈って…いいかな。優しい響きで、好きだった名前なんだ。」
鉄也が頷き、書類に書き込んだ。「姓はどうする?適当に決めるか?」
「横田ってどうかな。母方の旧姓で…懐かしい感じがする。」美優が静かに提案した。
「いいだろう。じゃあ、横田由奈だ。」鉄也が書類を完成させ、スタンプを押した。「今日からお前は横田由奈、日本民主連邦共和国の市民だ。14歳、中学生。南での記録は抹消する。家族にも連絡は取れない。覚悟はいいな?」
美優——いや、由奈は小さく頷いた。「はい…新しい人生、頑張ります。」
鉄也が立ち上がり、別の書類を渡した。「生活の支援もする。学校と住む場所も用意した。お前が通うのは、悠斗と同じ仙台第一中学校だ。寮暮らしになる。そこなら安全だし、馴染みやすい。」
その日の午後、悠斗と由奈は仙台第一中学校の寮に到着した。木造の建物で、庭には桜の木が植えられている。寮長が二人を迎え、由奈に部屋を案内した。「ここが君の部屋だ。制服と教科書は明日渡すよ。悠斗君と同じ学年だね。」
由奈は小さな部屋を見回し、ベッドと机に触れた。「ありがとう…。ここで暮らすんだね。」
悠斗が笑顔で言った。「学校でも一緒だよ。でも、僕らがどうやって会ったかは、まだ誰にも言わないでおこう。危ないかもしれないから。」
由奈も頷いた。「うん、秘密にする。悠斗がいてくれるなら、頑張れるよ。」
寮長が退出すると、二人は窓辺に立ち、仙台の街を見下ろした。由奈は新しい名前と新しい生活に戸惑いながらも、初めての自由を感じていた。悠斗は彼女の横で静かに呟いた。「これからだね、由奈。」
「うん、悠斗。ありがとう。」由奈が微笑み、二人の新たな日常が始まった。