空白
南日本、北千住。佐藤家の古びたアパートは、夜の静寂に沈んでいた。11月の冷たい風が窓の隙間から忍び込み、畳の上に散らばった美優の私物を震わせる。彼女が脱南を決行した夜から一夜が明け、両親である佐藤健一と美智子が工場から疲れ果てて帰宅した。時刻は午後7時を少し過ぎた頃——普段なら美優が布団に横たわり、独り言を呟いている時間帯だ。
健一が玄関の戸を開け、靴を脱ぎながら呼びかけた。「美優、帰ったぞ。飯はどうした?」
返事がない。美智子が眉を寄せ、部屋の中を見回した。「美優?どこだい?」
畳の上に彼女の姿はなく、リュックも見当たらない。机の上に置かれていたはずの水筒も消えていた。美智子が不安げに呟いた。「おかしいね…学徒奉仕ならとっくに終わってる時間だよ。」
健一はトイレや押入れを覗き込み、声を荒げた。「美優!隠れてるのか?出てこい!」
だが、家の中は静まり返り、二人の不安が膨らむ。美智子が震える声で言った。「まさか…何かあったんじゃないか?工場で事故でも…?」
健一は首を振った。「そんなら連絡が来るはずだ。どこかに行ったのか?」
二人が慌てふためく中、玄関の戸が乱暴に叩かれた。「国家秩序省だ!開けなさい!」
美智子の顔が青ざめ、健一が急いでドアを開けた。黒い制服に身を包み、共和国軍の制帽を被った国家秩序省の職員が二人、鋭い目で室内を見据えた。背の高い男が口を開いた。「佐藤美優の両親か?我々は彼女の行方を捜している。昨夜、国境付近で不審な動きが確認された。」
美智子が声を震わせた。「美優が…行方不明?どういうことですか?」
職員の一人が冷たく答えた。「昨夜、北千住駅の貨物ホームで脱南予備軍の人物が目撃された。協力者の記録と照合した結果、この家の住人、佐藤美優が関与している可能性がある。」
健一が目を丸くした。「脱南?うちの娘が?冗談じゃない!ただの子供だぞ!まだ14だぞ!」
もう一人の職員がファイルを手に淡々と続けた。
「まだ確実とは言えない。脱南以外の可能性としては、近頃多い人攫い、誘拐、さらには年頃の子供に多い家出。いずれにせよ、彼女がここにいない事実は変わらん。昨夜の電波傍受でも、この近辺から北日本発の不審な電波が確認されている。何か知らないか?」
美智子が泣き出した。「知らないよ…昨日は工場で遅くまで働いてて、帰ったら寝てただけだ。美優がそんなことするなんて…。」
健一が職員を睨んだ。「証拠はあるのか?勝手に決めつけるな!」
職員は冷笑を浮かべ、ファイルを閉じた。「証拠ならこれから集める。だが、娘が"北"の支援を受けた可能性は否定できない。北日本のスパイが関与してるかもしれんぞ。」
美智子が膝をつき、懇願した。
「お願い…美優を捜して。どこに行ったのか、生きてるのか、それだけでも知りたいの!」
健一も頭を下げた。
「頼む。娘を連れ戻してくれ。脱南だなんて信じられないが、もしそうなら…引き戻してでも正気に戻させる。」
職員の一人が無線を取り出し、上司に報告した。
「佐藤家確認。両親は協力的。捜索を要請してきた。どうします?」
無線から低い声が返ってきた。
「よし、国境沿いの捜索を強化しろ。北に渡った可能性が高いが、まだ南に潜伏してるかもしれん。家族は監視下に置け。あと、住民が何らかの形で関与している可能性もある。行方不明者の所属する学校、奉仕する工場、その他周辺住民への聞き込みも強化しろ」
職員は頷き、両親に向き直った。
「協力するなら、我々の指示に従え。娘が見つかれば連絡する。だが、脱南が事実なら、家族にも責任が及ぶと思え。」
美智子が嗚咽を漏らし、健一が拳を握り潰した。職員たちは家を出て、夜の闇に消えた。
その夜、佐藤家は眠れぬ時間を過ごした。美智子は美優の布団を抱きしめ、涙を流した。「どこに行ったんだい…美優…。」
健一は壁を睨み、呟いた。「脱南だなんて…あいつ、そんな勇気も、体力もあったのか?」
国家秩序省の捜索が始まり、北千住の空白は、彼女の脱南という真実を追う影に包まれた。だが、美優はすでに境界を越え、両親の知らない空の下にいた。