銃声
南日本、北千住。佐藤美優は、決行の夜を迎えていた。黒い服に身を包み、小さなリュックに水と食料を詰め込んだ。身分証は捨て、監視の目を逃れるため暗闇に紛れてアパートを出た。心臓が激しく鳴り、足が震えたが、悠斗の声が頭をよぎる。「僕がそこにいるよ。」その言葉だけが、彼女を前に進ませた。
美優は駅の裏手へ忍び込み、夜の貨物列車に目を付けた。工場からの物資を運ぶその列車は、取手まで走る予定だ。監視カメラが少ない貨物ヤードに身を潜め、列車が動き出すのを待った。エンジンの低い唸り声が響き、鉄の塊がゆっくりと動き出す。美優は走り出し、貨車の隙間に飛び乗った。冷たい鉄にしがみつき、闇に揺られながら、取手へと向かった。
取手に着いたのは深夜1時過ぎ。列車が停車し、入換作業が始まった。作業員の声が遠くで響く中、美優は貨車の影に隠れ、隙を窺った。作業員が背を向けた瞬間、彼女は飛び降り、線路脇の茂みに身を投じた。息を殺し、這うようにしてヤードを抜け、利根川沿いの森へと向かった。月明かりが薄く地面を照らし、木々の間を縫って進む。国境まではあと少し。時計は1時40分を指していた。
森を抜けると、鉄条網が目の前に現れた。悠斗が言っていた隙間——地面に掘られた小さな穴——を見つけた瞬間、美優の心が跳ねた。だがその時、後ろから鋭い声が響いた。「止まれ!何者だ!」
振り返ると、南の兵士が懐中電灯を手に近づいてくる。美優は反射的に走り出し、鉄条網の隙間に体を押し込んだ。土と鉄が体を擦り、服が裂けた。兵士の叫び声が近づき、「撃つぞ!」という警告と共に銃声が鳴った。弾丸が近くの木に当たり、木片が飛び散る。
美優は必死で隙間をくぐり抜け、目の前に広がる利根川に飛び込んだ。
冷たい水が全身を包み、息が止まりそうになった。11月の川は凍えるほど冷たく、流れが彼女を押し流そうとする。美優は泳ごうとしたが、疲れと寒さで手足が思うように動かない。リュックが重く、水面に顔を出すのもやっとだ。「死ぬの…?」頭をよぎった恐怖に涙が混じるが、彼女は歯を食いしばった。「悠斗が…待ってる…!」
力を振り絞り、腕をかき、足をバタつかせた。水が口に入り、咳き込みながらも北岸を目指す。数分が永遠に感じられた。兵士のライトが南岸で揺れ、銃声が遠く響く。だが、監視の届かない北側が近づいてくる。
ついに、指先にぬかるんだ土が触れた。美優は這うように岸に上がり、濡れた体で地面に倒れ込んだ。息が荒く、体が震え、冷たい泥が顔に付く。だが、彼女は鉄条網の向こうを見た。南のライトが遠ざかり、北の暗闇が彼女を包む。「ここ…北日本…?」
その時、遠くから懐かしい声が聞こえた。「美優!こっちだ!」
見上げると、丘の上から懐中電灯の光が揺れ、悠斗の姿が現れた。彼の後ろにはトラックと、数人の大人——「境界の絆」の同志たち——が駆け寄ってくる。美優の目から涙が溢れた。「悠斗…会えた…。」
悠斗が川辺に飛び込み、彼女の手を取った。「よくやったよ、美優!もう大丈夫だ!」
同志たちが毛布をかけ、トラックに運び込む。美優は震えながらも、初めての自由の空気を吸った。冷たい川を越え、彼女はついに北日本にたどり着いたのだ。