秘密
美優は、古い短波ラジオの前に座り、震える手でマイクを握った。雑音の中から聞こえてきた少年の声——悠斗と名乗る北日本の少年——が、彼女の心をざわつかせていた。「こちら北千住。聞こえるよ。あなた、誰?」と応じた瞬間、ラジオから返事が飛び込んできた。「僕、悠斗。北日本にいるよ。君は…南にいるの?」
美優の胸が締め付けられた。北日本。日本民主連邦共和国。自由が息づく国だ。彼女は一瞬迷ったが、思い切って口を開いた。「私、美優。南にいるよ。北千住に。でも…ここを出たい。脱南したいの。」
ラジオの向こうで、悠斗の声が少し途切れた。「脱南?本気で言ってるの?南って…そんなにひどいの?」
美優は目を閉じ、工場での半日や監視塔の光を思い出した。「ひどいよ。自由なんてない。教育方針も政治も政策も、軍が全部決めて、学徒奉仕で働かされて…。北に行けば、自由に生きられるよね?」
悠斗は少し考え込むように黙った後、静かに言った。「こっちは確かに自由だよ。でも、脱南は危ないんじゃない?国境には兵士が…。」
「それでもいい!」美優は声を荒げた。「このまま死ぬみたいに生きるより、試してみたい。」
悠斗は息を呑み、やがて決意したように答えた。「わかった。僕にできることがあれば、力になるよ。」
二人はその夜、短い交信を続け、翌日の同じ時間にまた連絡を取る約束をした。美優はラジオの電源を切り、布団に潜り込んだが、興奮と不安で眠れなかった。
翌朝、美優が工場から戻ると、アパートの外に不穏な気配が漂っていた。黒い制服を着た男たちが、隣の棟で誰かを尋問している。国家秩序省——南日本の秘密警察だ。彼らは反政府的な動きを嗅ぎつけると、容赦なく家に踏み込んでくる。美優の背筋が凍った。昨夜の交信が傍受されたのかもしれない。
彼女は急いで部屋に戻り、ラジオを見つめた。もし見つかれば、即座に拘束され、尋問の果てに消されるかもしれない。美優は慌ててラジオを布団の下に押し込み、脱南を夢見ながら読んでいた北日本の民主主義を称賛する密輸本も、畳の下に隠した。心臓が激しく鳴る中、部屋を片付けているふりをしていると、ドアが乱暴に叩かれた。「国家秩序省だ!開けろ!」
美優は深呼吸し、平静を装ってドアを開けた。黒い帽子の男が二人、鋭い目で室内を見回した。「昨夜、怪しい電波を傍受した。この近辺からだ。お前、何か知らないか?」
「知りません。」美優は目を伏せ、声を震わせないよう努めた。「昨日は疲れて寝てました。工場で働いてただけです。」
男の一人が部屋に踏み込み、机や棚を漁った。もう一人は美優を睨みつけた。「妙なものを持ってたら、後悔するぞ。」
布団の下に隠したラジオが頭をよぎり、美優は冷や汗をかいた。だが、男たちは証拠を見つけられず、不満げに退出した。「何かあったら通報しろ。忠誠を忘れるな。」ドアが閉まり、足音が遠ざかると、美優は膝から崩れ落ちた。
その夜、美優は布団の中で考えた。国家秩序省に交信が察知された以上、家でのラジオ使用は危険だ。彼女は決意し、ラジオを小さな袋に詰め込んだ。翌日、学徒奉仕の後に近くの廃墟——かつての商店街の裏手にある崩れた建物——で交信することを決めた。そこなら監視の目も届きにくい。
夕暮れ時、美優は廃墟に忍び込み、ラジオをセットした。雑音の中、悠斗の声が聞こえた。「美優、大丈夫?昨日ぶりだね。」
「悠斗、聞いて。」美優は声を潜めた。「昨日、秘密警察が来た。交信がバレそうになったから、これからは外で話すよ。脱南、絶対に諦めないから。」
悠斗は驚いたように息を呑み、やがて力強く言った。「わかった。僕も本気で手伝う。どうすれば君を北に連れてこられるか、一緒に考えよう。」
廃墟の暗闇で、ラジオの小さな光が美優を照らした。彼女の脱南への決意は、秘密の電波と共に、さらに強く燃え上がった。