朝
南日本、日本共和国の北千住。早朝の空はまだ薄暗く、冷たい風が古びたアパートの隙間を抜けてくる。14歳の佐藤美優は、畳の上で丸まった布団から這い出し、裸足で廊下を歩いた。足元の冷たさが背筋を震わせる。彼女は小さな和式トイレにたどり着き、錆びた取っ手を引いて戸を開けた。中は狭く、薄汚れたタイルが湿気を帯びている。美優はズボンをたくし上げ、膝を軽く曲げてしゃがみ込んだ。目を閉じると、静寂の中で自分の小便が便器に落ちる音が響く。チョロチョロという水音が一瞬途切れ、立ち上がってレバーを押すと再び流れ出す。冷たい便器の縁が太ももに触れ、彼女は小さく息を吐いた。手を洗う水さえ冷たく、指先が赤く染まる。
部屋に戻り、美優は恒常服に着替えた。灰色の粗末なズボンと、上に着る薄手のジャンパー。襟元には「学徒奉仕」の文字が刺繍されている。南日本の軍事独裁政府は、学生たちに労働を強いる。彼女の両親はすでに工場へ向かい、家には誰もいない。美優は小さなリュックを背負い、アパートを出た。外では監視塔のサーチライトがゆっくりと街をなぞり、朝靄の中に軍用トラックの排気音が響く。
工場への道は灰色の舗装路だ。美優は他の学徒たちと一緒に歩き、誰も口を開かない。工場に着くと、彼女は半日を鉄板の切断作業に費やした。機械の轟音と油の臭いの中で、指先が擦り切れそうになる。昼過ぎに解放され、疲れ果てた体を引きずってアパートに戻った。
部屋に入ると、美優はリュックを投げ出し、布団の上に倒れ込んだ。仰向けになり、天井の染みを眺めながら、独り言を呟いた。「こんな毎日、いつまで続くんだろう…。自由って、どこにあるの?」声は小さく、すぐに静寂に飲み込まれた。
その時だった。部屋の隅に放置されていた古い短波ラジオが、突然ガリガリと雑音を出し始めた。美優は驚いて体を起こし、目を凝らした。埃をかぶったラジオのダイヤルが微かに光り、途切れがちな音が漏れ出す。「ザザッ…こちら…宇都宮…誰か…聞こえますか?」
男の子の声だ。美優の心臓が跳ねた。彼女は恐る恐るラジオに近づき、震える指でマイクを握った。「こちら…北千住。聞こえるよ。あなた、誰?」
雑音の向こうで、声が少しだけ明るくなった。「僕、悠斗。北日本にいるよ。君は…南にいるの?」
美優の喉が詰まった。北日本。日本民主連邦共和国。自由の国。彼女の夢が、突然ラジオの電波に乗って近づいてきたのだ。