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思い出したくない、過去がある。
「――――ごめん、真白…ッ、たすけ、たすけて……」
大学3年生の頃。
早めに受けられる教員試験や教育実習、就活に忙しく、病院を受診しない日が続いたことがある。まだ抑制剤は手元にあるからしばらく受診しなくても大丈夫、と思っていた。それこそ、陽が通院している病院が地元に近い場所にあるからというのが一番の原因だったかもしれない。こんなに忙しい中、病院まで行っている暇はない、と。
抑制剤は何ヶ月分も一気に処方してもらえるわけではないが、陽は進学して地元を離れたこともあり、帰省のついでに病院に行くと特別にまとめて処方してもらっていた。でもそんな抑制剤も永遠ではない。湧き水のように溢れてくるものでもない。飲めば飲むほど減っていくのが当たり前なのに、忙しさに追い込まれていた陽は、あと6粒程度になってやっと、まずい状態だということに気が付いたのだ。
ただ、それでもあまり焦っていなかった。
今まで一度も『Subの欲求』が出たことはないし、もし薬を飲まなくても自分は大丈夫な体質だろうと思っていたのが、そもそも甘い考えだったのだけれど。
「陽、お前……なにか悩みでもある?」
「……え?なんで?」
「いや……めちゃくちゃ顔色悪いよ、最近。今にも倒れそうだなっていつも心配してんだけど」
「この前も言ったように夏バテだって、多分」
抑制剤が切れてから2週間。
自分の体の変化は自分が一番分かっていたが、心配する真白には夏バテだと言って誤魔化していた。抑制剤が切れて初めて分かったことだが、やはり自分のSubとしての欲求はただただ薬で『抑えられていた』だけだと思い知った。
初めて感じる体の不調、倦怠感、焦燥感――
体の中からダイレクトに感じる不調に気付かないフリをしていたけれど、真白から指摘されるくらい見るからに落ちていた。日中は大学に行っているからやることも多くて気が紛れるが、夜、一人になるとじわじわと不安に駆られる日が多くなった。夜、ベッドに入って目を瞑ってみても眠れない。もしかしたらこのまま夜が明けないような不安を抱き、イヤホンをつけてひたすら音楽を聴きながらベッドの中で縮こまっているような生活をしている。
ちゃんと食事はしているけれど痩せた(というか、やつれたのほうが正しい)のが分かるし、目の下のクマも酷いものだ。夏バテだと言って真白には言い訳をしていたけれど、彼は薄々それが原因ではないと分かっているだろう。
陽自身とうとうベッドから動けなくなり真白が慌てて家に来てくれたのだが、これがただの夏バテではないと真白に確信を与えることになった。
「陽、一回病院に行かないか?フラついて一人で行けないなら俺もついて行くから、お願いだから一緒に病院に行こう。お前、このままだと死ぬぞ!」
死ぬ?死ぬ、かぁ……。
特定のDomがいなくてPlayをしなかったら、Subは呆気なく死んでしまうのだろうか。そんなニュースは聞いたことないけれど、隠されているだけなのかもしれない。Play不足で、欲求に抗った結果死んだ滑稽なSubだとニュースになったら笑いものになるだろうな。
「ただの夏バテでこんなにやつれないって……!おい陽!聞いてるか!?」
「……ごめん、ごめんましろ、ごめん…」
「なに謝ってんだよ、大事な幼馴染を心配するのは当然だろ?」
俺にできることは何でもするから。
そう言ってくれる優しい幼馴染の腕を掴んで、陽は声を絞り出した。どくんどくん、心臓が脈打っているのを感じる。緊張か恐れか、それとも期待か。
「――――ごめん、真白…ッ、たすけ、たすけて……」
「助けてやる、俺がお前を助けてやるから……!どうしたんだよ、ヒナ。俺はどうしたらいい?」
「おれ、おれに……おれにコマンド出して………」
たった一言、されど一言。これからの二人の関係を変えてしまうかもしれないほど重い言葉を絞り出すには、約5年の月日が必要だった。




