46.それは氷が溶けるように
フィンリーの訃報を聞いてから、クラウディアはずっと仕事に入っていない。
芸妓の仕事はこのまま辞めると決まった。マーシャが、クラウディアが芸妓を続けるのは無理だと判断したためだ。もちろんマーシャは商売のことも考えてはいるが、クラウディアの体調を気遣っての判断だった。
クラウディアに、平穏に暮らして欲しいというのがマーシャの一番の願いだ。
クラウディアは家事はなんとかこなしているが、会話もままならず、家事や食事の時間以外はずっと自分の部屋に引き篭っている。
マーシャとしては、本当は家事もしてもらわなくても良いのだが、このまま何もせずにずっと引き篭っていると、クラウディアの心が壊れてしまう気がするため、敢えて家事は任せている。
他の芸妓三人と顔を合わせればなんとか言葉を交わしているが、クラウディアに笑顔は無い。
「頼みの綱のアレンくんも来ないし……」
あの青年なら状況を変えてくれるかもしれないが、バートンに聞いたら、アレンはまだ実家の手伝いで戻ってきていないらしい。なんともタイミングが悪いことだ。
「アレンくん、早く来てくれないかねぇ…」
そう呟きながら、マーシャは出そうなため息を飲み込んだ。
□□□
そうして第二王子の訃報から三ヶ月が経った頃、相変わらず笑顔は無いものの、クラウディアは少しずつ落ち着きを取り戻し、会話はまともに出来るようになっていた。
いつものようにクラウディアが洗濯物を運んでいると、マーシャが息を切らせながら追いかけてきた。
「マーシャさん、どうしたの?」
「ディアっ、……はぁっ、あとはやっとくよ。」
「え?やっとくって…」
「洗濯。かわるから行っておいで。」
「なんで…わっ」
クラウディアが言い終わる前に、マーシャは洗濯籠を奪い取った。
「ホールに行ってごらん!」
そう言い残しマーシャはあっという間に去っていってしまった。
「なんなの…?」
マーシャがこれほど強引なことは滅多にない。クラウディアは不思議に思いつつも、言われた通りにホールへ向かうため身体の向きを変えようとした時、
「ディアナ。」
自分を呼ぶ声が聞こえた。
「…っ」
随分と久しぶりに聞くその声は、みるみるとクラウディアの心を満たしていく。
その温かさになんだか泣きそうになりながらクラウディアが振り向くと、思い描いた通りの人物が立っていた。
「アレンさん…」
アレンが、穏やかな微笑みを浮かべていた。しかしクラウディアと目が合った瞬間、アレンは申し訳なさそうに眉を下げる。
「だいぶ時間がかかってしまってすまなかった…いや、謝るのもおかしいか…いや、でも、すまない…」
そう言って頭をかくアレンは、以前より少し痩せた気がする。よほど、実家の手伝いが過酷だったのだろうか。
「…少し痩せました?」
驚いて聞いてみると、アレンは「そうかもな」と苦笑した。そしてクラウディアのことをじっと見つめ、痛ましそうに目を細める。
「…ディアこそ…痩せてる。」
アレンはゆっくりとクラウディアへと近づく。
「……辛かったな。」
そしてアレンはそっとクラウディアを抱き締めた。
「!」
(あぁ、この人は、全部気づいているんだ…)
クラウディアが公爵令嬢であったことを。そして、フィンリーの婚約者であったことを。
(全部気づいていて、またこうして会いに来てくれた…)
そのことが嬉しく、でも悲しい気持ちは無くならない。クラウディアは、今の自分の感情がよくわからなかった。胸が締めつけられ、熱い何かが込み上げてくる。
それに耐えるようにクラウディアがアレンの背中の服をきゅっと握ると、アレンは驚いて腕の力を少し緩めた。
しかし肩が震えだしたクラウディアに気づき、アレンはまたゆっくりと腕の力を強める。
「…一番辛かった時に、傍に居れなくてごめん。」
「っ…」
もう堪えることはできず、クラウディアは、アレンの腕の中で思い切り泣いた。
「…ごめん、ディア…」
クラウディアの肩に自身の顔を埋めながら、アレンも苦しそうに呟いた。
アレンが謝ることなど何一つ無いのだが、会えなかったうちに憔悴しているクラウディアを見て、責任を感じてくれているのかもしれない。それは申し訳ないことではあるが、今のクラウディアには「そんなことないわ」なんて言う余裕もなく、ただただアレンに縋って泣いた。
クラウディアが落ち着くまで、アレンは何を言うでもなく、クラウディアの背中をあやすように優しく撫でてくれていた。
「…ごめんなさい。もう大丈夫です…」
しばらくしクラウディアは落ち着くと、アレンの胸をそっと押した。アレンが心配そうにクラウディアを覗き込む。
「俺のことは気にしなくていい。…もういいのか?」
「はい、随分とすっきりしました。」
「そうか。」
クラウディアの返事に、アレンはほっと表情を緩ませた。
落ち着いてみると、顔を合わせてからずっと庭に立ったままだったという状況に気づく。
「こんなところですみませんでした…えっと…何か飲みますか?」
クラウディアは今更ながらアレンをもてなそうとするが、アレンは首を振った。
「いや、今日は、顔を見に来ただけだから。」
そう言って眉を下げるアレンを見て、忙しい合間を縫ってわざわざ来てくれたのだとクラウディアは悟った。
「また来るよ。」
「はい、待っていま――…」
クラウディアは言いかけてはたと止まる。アレンは、クラウディアの客として、店にまた来てくれようとしているのだろうか。
もしそうならば、クラウディアがもう芸妓を辞めてしまったことを伝えなければならない。
そうすると不意に、伝えたらアレンはもう来てくれないのではないかという考えがクラウディアの頭によぎった。
「…っ」
その可能性を考えてしまうと急にうまく言葉が出てこない。
それでも伝えるべきことだとクラウディアは無理やり口を開く。
「あ、あの…」
「ん?」
「私、もう芸妓ではないのだけれど…」
やっとの思いで切り出したクラウディアだったが、アレンはきょとんと目を丸くしていた。
「知ってるが?」
「え?どうして…」
「それはさっきディアナに会う前にマーシャさんから聞いたからだけど…今更だろ?」
「えっと…」
アレンの軽すぎる反応に、クラウディアは面食らっていた。
「いいのですか?私は、もう芸妓ではないのでお店ではあなたに会えませんし…」
焦るクラウディアをよそに、アレンは笑った。
「それだと俺は何度かお代を払ってないことになる。」
言われてみて記憶を辿ると、確かにそうかもしれないことがあった。思い当たったであろうクラウディアを見て、アレンはまた笑う。
「ここはディアの家でもあるだろう?客としてじゃ無いと来ちゃいけないのか?」
「いえ、そんなことは…ないですね…」
「だろう?…それとも、」
言葉を切ったアレンは、今度は拗ねた目をクラウディアへ向けた。
「…俺はただの客の一人なのか?」
思いがけぬ言葉と、その拗ねた表情にクラウディアは目を丸くする。
「…いいえ、違います…」
そして力が抜けたようにクラウディアがそう答えると、アレンは嬉しそうに眦を下げた。
「じゃあ、また来るな。」
アレンはそう言って玄関の方へ歩き出した。
「あ、は、はい…っ」
呆けていたクラウディアは慌ててアレンを見送ろうとついていく。
自分の頬がほんのり熱をもっているのを感じながら。
「あれ、アレンくん、もう帰るのかい?」
ホールまで辿り着くと、とっくに洗濯物を干し終え、下ごしらえをしていたマーシャがおり、帰ろうとするアレンを見て驚いた。
「はい、また来させてください。」
「!…あぁ、もちろん。忙しかったのに、ごめんね…」
「俺が来たかったから来たんです。こっちこそ連絡なしに来てしまって…」
「いいんだよ、アレンくんは。いつでもおいで。」
マーシャに食い気味に言われ、アレンは目を丸くしたが、その表情はすぐに笑顔に変わった。
「はは、じゃあまたすぐ来ます。」
「あぁ、待ってるよ!な?ディアナ。」
「っ!はい、お待ちしてます。」
いきなり振られたクラウディアは心臓が跳ねたが、心からの言葉を言えた。
アレンが次に来てくれるのを楽しみに思う自分が、確かにそこに居た。
アレンをマーシャと共に見送った後、マーシャがクラウディアを見てほっとした表情をする。
「…少し顔色が良くなった。」
「…本当?」
「やっぱりアレンくんはすごいね…」
しかし、そう言うマーシャはどこか寂しそうだった。
その顔を見たクラウディアは半ば無意識に、戻ろうとするマーシャの服をつんとつまむ。動きを止められたマーシャが目を丸くして振り向いた。
「…私、」
「…?」
今、伝えなければいけないことがある。
反射的にそう思ったクラウディアの、マーシャの服をつまむ手に力がこもる。
「マーシャさんとガルドさんが居たから今も生きてられるの。」
クラウディアはそう言ってマーシャを見上げた。
「っ…」
これは本当のことである。マーシャとガルドがいなければ、クラウディアはとっくにフィンリーの後を追っていただろう。
「あたし…ディアナの力になれてるかい…?」
「もちろん。」
唇を震わせるマーシャに、クラウディアは即答した。
「でもあたしは…ディアナが辛い時に、何もしてあげられなかったのに…」
クラウディアは首を振る。
「ちがうわ。私の方がずっと…そっとしておいてくれる優しさに甘えてた…。心配かけてごめんなさい。」
口を閉ざし、心を閉ざしても、家族として接してくれる。この人たちに嫌われることはないと、心の奥底では分かっていたのだ。
「私こそ…シエールの仕事も出来ないし、迷惑かけて」
「そんなことは迷惑とは言わないよ。」
「あたしの願いは、ディアナが幸せに生きてくれることだから。」
「…!」
(『幸せ』…?私が…?)
『幸せ』という言葉が、不意にクラウディアの胸を刺した。
「…ディアナ?」
クラウディアは、今自分は幸せな環境に居るのだと自覚した。
すると途端に罪悪感が押し寄せてきた。クラウディアの呼吸が浅くなる。
「私…私だけがこんなに幸せになってもいいのですか…?」
今度はクラウディアの声が震える。
「ディア?」
「お父様も、お母様もいない、フィンリー様だって…っ」
両手を胸の前で握り込み、クラウディアの声はだんだんと大きくなる。
「なのに、なのに…何も出来なかった私が生きて…っ」
「ディアナ。」
しかし錯乱してきたクラウディアに向け、頭を冷やすようなマーシャの冷たい声が放たれた。
「じゃあ、これからずっと悲惨な人生を送るつもりかい?どうやって?今から一人で出て行くのかい?」
「そ、れは…」
クラウディアは次の言葉が紡げない。
「自ら不幸になるつもりもないくせに、幸せに生きることを放棄するんじゃないよ。」
言葉を失っているクラウディアを見て、マーシャはため息をつき、声音を少し優しくする。
「ディアナ、みんなが亡くなってしまったのは、ディアナのせいじゃない。」
「でも…」
「じゃあディアナが殺したのかい?」
まだ抗うクラウディアに、マーシャは敢えて強い言葉で諭す。
クラウディアは目を見張り、弱々しく首を振った。
「だろう?罪は、犯したやつが償うんだ。それはディアナじゃない。」
「…………」
「悲しむのはいいけど、罪の意識を感じることはないんだよ。見当違いってもんさ。」
マーシャはクラウディアを見つめ、その肩にそっと手を置く。
「いつまでも囚われていると、それこそ亡くなった皆が悲しむよ。それに、亡くなった皆はディアナの不幸を望むような人たちなのかい?ディアナに、一緒に死んで欲しかったと願うような人たちかい?」
「…ちが、う…」
自分だけが生き残り、皆に申し訳ないとずっと思っていたが、自分が不幸になることで、まして自分が死ぬことで、あの人たちがどう思うのかは考えたこともなかった。
「ディアナが幸せになって、怒るような人たちかい?」
「ちがう…」
クラウディアは亡くなった愛しい人たちの顔を思い出す。
全員必ず、クラウディアの幸せを願ってくれるだろう。
そう思うと、クラウディアはようやく肩の荷が下りた気がした。記憶の中の人たちも、笑顔になったような気がした。いや、笑顔を思い出すことが出来るようになったのだ。
「私…幸せでいいの…?」
クラウディアが、憑き物がとれたような顔でぽつりと呟く。
「そうだよ。」
マーシャが当たり前のように肯定する。
「だって、生きてるんだから。」
それからしばらく経たない内に、王宮による一斉摘発で、現職の議員やその他多くの貴族が捕まることとなり世間を大きく騒がせた。