第1話 ペトリコール
前書きでは、前話の内容の大まかな要約が記載されています。
物語の概要を手っ取り早く知りたい方は前書きをご活用ください。
「どうしたのその髪型」
「や、やはりばれたかー」
「当然でしょ、違和感しかないよ。前髪は変に切れてるし、サイドは左右非対称だし」
「さ、左右非対称なのはさ、アシンメトリーってやつに挑戦してみようかと…」
「はあ、正直に失敗したって認めなって。慣れてないことに挑戦してその有様なんでしょ?」
「う、うるさい!ちょっとぐらいおかしくたっていいだろ!」
「ちょっと?」
「…だいぶちょっと」
「自覚があるだけましだね」
「ちょっとぐらい失敗したからって物事そう悪いようにはならないのだよ、我が盟友。この失敗を糧に成長することが大事なんだ」
「…だったら?」
「ん?何て言った?」
「もし失敗したのが髪型じゃなくて人間だったとしたら?」
大雨の後には地面から湧き上がる土のエッセンスを感じることがある。そんな名前すらあるかどうかも分からない匂いに、僕は今日この日まで惹かれ続けている。
死の匂いとはまた違う。死の匂いとは己の恐怖という感情を糧として生まれるものだ。僕はこの身で恐怖を感じたことがない。いや、そもそも恐怖という感情が何なのかすら分からないのだ。
だから僕は、いつ止み、いつ再び降り始めるかも分からないこの雨を、この現実世界の片鱗を、紛れもないこの身で感じることで今日もまた満たされていくのだ。
自分の存在を疑ったこともあった。何度もあった。自分を人間だと思っている自分とは何者なのかと。人間でないのなら寧ろ安堵すら感じる。
睡眠は好きだ。だって、睡魔が来ればそんな自分も忘れられるし、自分を人間だと少し思えるから。今日の僕もまたそこはかとなく満足げに眠りに落ちた。
意識の薄れる瞳には、僕の追い求めた「人間」が映っているように見えた。
また目が覚める。
僕のことだから、目を開く前には違和感に気づけた。
そう、何かが大幅に可笑しいってこと。
「ここは…」
どうやら誘拐されたらしい。
目の前に広がるのは、冷たい地面と無情の雨ではなく、暖かい「空間」だった。
「あ…」
そう先に呟いたのは、僕ではなく彼女だった。
僕が目を覚まして少したった後、僕が横になっているベッドの左端で彼女が座っているのに気付いた。そして、僕の視線に応えるようにして、彼女も僕の目覚めに気付いたのだ。
弱々しい瞳と薄い髪色の彼女を、とても誘拐犯だとは思えなかった。彼女の方も、あの一言以来全く口を開こうとせず、沈黙が続いたため、僕から話すべきだと実感した。
「…ここは、どこ?」
そう問いかけた刹那、彼女は顔を紅潮させ、視線を僕ではない何処かへ向けた。照れている、という次元ではない。そんな彼女を無視するかのように、再度問いかけた。
「…ここは、どこ?」
彼女の目は泳いだままだ。
「…君は、誰?」
「し、知らない」
彼女は早口でそう応えた。自分の名前すら分からないのか、そう思った僕であったが、自分にも名前がないのだから何ら不思議ではないと思った。
「君も誘拐されたの?」
「…ずっとここにいる」
どうやら誘拐犯らしい。金も愛も名前もない僕を誘拐して何になるのか甚だ疑問だったが、黙っていても仕方がないので模索を続けた。
「他には、誰かいるの?」
「いる。三人くらい」
集団誘拐犯か。人が気持ち良く眠っている間にそんなことが起きていたとは。こんな存在意義のない自分だけど、まだ死ぬわけにはいかない。僕の親に会うという夢も叶っていない。無論、叶える手立てもないけど。
僕は右手でクリーム色のベッドのしわを意味もなく引っ張った。寂しげな彼女の存在を気にはとめたが、元いた場所に帰りたいという気持ちが強く、彼女にこう告げた。
「僕を元の場所に返してくれませんか?」
そう尋ねた刹那、ベッドの近くのドアが開いた。
「ひーとーみー!おいしいおいしいごはんができたぞー」
耳を貫くかのような大きな声が部屋中に響き渡り、僕だけでなく彼女も驚愕の表情を浮かべた。すると、全ての状況を察したのか、たった今部屋に入ってきた茶髪の騒がしい彼女も、目が点になり、驚きを隠せない様子だった。
「あ、ひょっとして…私の声で起きちゃった?」
第二の誘拐犯のお出ましだ。
「ごめんごめん、完全に君の存在を忘れてたわ。とりま、無口なひとみも儚げな君も、私特製の青椒肉絲でも食べて腹を満たしいや!」
そう言うと、そそくさとどこかへ言ってしまい、「無口なひとみ」とまた二人きりになってしまった。
「…案内する」
久々に声を聞いたかと思えば、彼女もまたそそくさとどこかへ行ってしまった。
僕が迷いに迷ってやっとダイニングらしき空間に着いた時には、四人用の木製の丸椅子のうち、既に三人が我が物顔で座っていた。
「おっす、少年!ひとみが置いてったらしくて悪かったな。代わりに謝罪しとくわ」
茶髪の騒がしい彼女が僕にそう告げると、無口な彼女は顔を少し赤らめた。
「案内するって言ったのに、着いてこないから…」
「おててつないで仲良く来れば良かったのに」
「…馬鹿にしないでよ」
僕はそんな二人の会話よりも、もう一人の「彼」の存在が気になって仕方がなかった。僕が彼と相対して四つ目の椅子に座ると、彼は真っ直ぐな目で僕の瞳を見た。
「やあ、こんにちは。気分はどうだい」
彼が僕にそう尋ねた。今までの出来事が新鮮すぎて我を失っていたが、気分を聞かれてやっと安堵することが出来た。どうやら誘拐犯だというのは僕の思い違いらしい。
「…いきなりこの状況を飲み込めないとは思うが、まずはゆっくり休んでほしい。聞くところによると、大雨の中野ざらしになっていたそうじゃないか」
確かにそうだ。では、そのことを知っている彼が僕をここに連れて来たのだろうか。色々な感情や疑問が脳内で渦巻く中、目の前に広がる料理を見て直ぐにそんな思いは消え失せた。
「…美味しそう」
僕がそう呟くと、茶髪の騒がしい彼女は人一倍嬉しそうな笑顔で僕の方へと身を乗り出した。
「でしょでしょ!?まじでうまいから!本当においしいから!」
銀製のスプーンへと手を伸ばし、まずはコーンスープを口に運んだ。その瞬間、舌先に痺れるような感覚があった。毒を盛られたのではない。美味しすぎるのだ。
「美味しい!」
僕は今日一番の声を出し、再びコーンスープを口にした。その間も茶髪の騒がしい彼女はにっこりしながら僕を見つめている。
「スープも良いけど、肝心の青椒肉絲が食べてほしそうに君を見ているよ?」
そう言われると、直ぐに青椒肉絲とやらに手を伸ばし、口に運んだ。これもまた美味しすぎた。
「クランベリーって食べたことある?」
茶髪の騒がしい彼女は僕にそう尋ねたので、首を横に振った。
「今からミキサーしてジュースにしてあげるから、それも飲んでみて!君もクランベリーの甘酸っぱさの虜にしてあげる」
そう言うと、彼女はやる気の満ちた表情で席を立ち、キッチンへと向かった。
「…お腹空いてるのか」
彼女がキッチンへと向かうのを確認するやいなや、正義感の強そうな彼がそう呟いた。
「そりゃそうだよな。ずっと飲まず食わずでどうやって生きてきたんだか」
そう言われると、自分でも自分を疑った。今まで、いや完全にではないが何かを飲んだり食べたりしたことはなかった。一度だけ、道端で蹲っている僕を可哀想に思ったのか、おばあさんが袋で包んだ干し柿を二つ僕の頭の上に置いてくれたことがあった。
「やはり、お前も俺らと同じ…」
「お、同じ?」
僕は彼にそう問いかけたが、彼は言葉を詰まらせたようにして、何も言わなかったことにした。
「兄」
「え?」
僕はまた彼に問いかけた。
「俺の名前。兄だ」
はっとした。そうか、この人には名前があるのか。そんなことは分かっていた。でも、いざ名前がある人を見ると、羨望してしまう。
「こっちがひとみ。無口で無愛想だが、ただの恥ずかしがり屋の人見知りなので、仲良くしてやってくれ」
兄がそう言うと、ひとみはまた恥ずかしそうにして目から下を腕で覆い隠した。
「で、今お前のために一生懸命働いてる茶髪のあいつは香蕉。俺はシャジャって呼んでる」
みんなの名前を知った途端、少し安心したような気がしたが、同時に自分の名前を言わなければならないというプレッシャーが僕にのしかかった。
「ないです」
「ん?」
僕が呟くと、彼もそれに問いかけた。
「僕の名前はありません」
「だろうね」
「え?」
あまりにも淡々とした返事に僕は思わず驚いた。
「え、あの、名前ってあるのが普通だと思うんですけど、僕に名前が無いこと、可笑しいと思わないんですか?」
そう言うと、彼は少し頬を緩めてこう返した。
「道端で半分死んでるようなやつに名前がなくとも何とも思わないさ。むしろ、俺らに名前があることに驚いてほしいぐらいだね」
「え?それってどういう…」
彼にそう尋ねようとすると、キッチンから香蕉が帰ってきた。
「おまたせー!めちゃくちゃおいしそうにできたよ!」
確かに美味しそうだ。今までに見たことのない真っ赤な色をしたクランベリージュースは、吸血鬼も血と間違えて飲み干しそうだ。或いは柘榴石を半年煮詰めたかのようだ。
僕はまず匂いを嗅いでみた。甘酸っぱさが漂う新鮮なクランベリーの匂いは、自然と僕の口内を唾液で満たした。そして、遠慮なく一気に飲み干す。非常に味わい深かった。
「ありがとうございます」
僕は自然と香蕉へと感謝の言葉を述べていた。
「喜んでくれてよかった」
そんな僕らの会話を聞いてか、右隣に座っているひとみも笑みがこぼれていた。
兄は神妙そうな顔つきで机を見つめている。
「あの、僕がここに連れてこられた理由は何ですか?」
僕は真相を確かめるべく、兄にそう尋ねた。
「いい質問だ」
待ってましたと言わんばかりの即答だ。
「お前には話さなければならないことが沢山あるな。だが、今日はもう寝ろ。明日、お前に会いに来る人物がいる。明日、その人に疑問をぶつけろ。俺らがお前を連れてきたわけじゃないから、その人に全てを聞くのが効率良い」
まだ人がいるのか、と思った。確かに今ここにいるのは恐らく皆未成年だ。この家の生計を立てている人物がいるはずなのは確かだ。
「もしかして、僕をここに連れてきた人って…」
「紛れもないその人だ」
そう返されると、僕は明日になるまで待つしかないと確信し、案内された自分用の寝室に向かうことにした。
「おやすみ」
香蕉が僕にそう投げかけてくれた。誰かと会話をするのも久しぶりだったが、おやすみを言われたのは記憶にない。何の変哲もない挨拶だったが、確かな温もりを感じた。
「おやすみ」
寝室に入り、真っ先に自分のベッドに体を放り投げた。疲労があったのだろう。横たわっただけでとても気持ちがよかった。今まで道端で風雨に身を曝されていた自分にとっては、こんな陳腐なベッドでさえ涙が出るほど安心するのだ。
ふと、最初に目覚めたときのことを思い出した。その時には、左隣にひとみが座っていた。
「ずっと僕に付き添っていてくれたのかな」
明日目覚めたら、真っ先にひとみに感謝を述べようと思った。
急に外の景色が見たくなった僕は、部屋に一つだけある窓を開いた。今まで気づかなかったが、外は雨が降っていた。僕が元いた場所は、封印の国・シール。シールは水の循環が激しい国で、年中雨季だ。毎日のように降る雨が、何度僕の体温を奪ったことか。僕は部屋から雨を見た途端、急に自分が元居た場所を思い出したのだ。そして、懐かしい匂いが体の中に入ってくる。
世の中分からないことだらけだが、確かに言えることが一つある。
窓の外から伝わる雨と土のハーモニーは、僕の思い出となり、僕の家となり、僕を「人間」にしてくれた。
後書きでは、物語のおまけが記載されています。
物語の気休めとして後書きをご活用ください。




