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35.“此花桜子”の消失

挿絵(By みてみん)

【バイバイ、お兄ちゃん……(2/3)】

 失くした記憶が戻る、その瞬間を桜子は、開け放たれた扉から溢れる奔流に呑み込まれる……そんなふうにイメージしていた。


 しかし実際には、広くて暗い部屋に、ひとつずつ照明が点いていくような……当然のようにそこにあったのに、見えていなかったものに光が当たっていくような、そんな感覚で記憶は衝撃を伴うことなくよみがえってくる。


 あたしは――……



 あたしの名前は、“此花桜子”。


 中学二年の、女の子。



 学校で仲がいいのは、“サナ”こと平野早苗と、“チー”こと都島千佳。

(アズマ君……アズマ君がいるよ……)


 家族構成は、おとーさんとおかーさん、そして兄が一人いて……

(お兄ちゃん……大好きな、お兄ちゃん……)



 光が、草原を渡る風のように、彼方までさあっと薄闇を追い払った。


 桜子は、“全て”を思い出した。




 **********


 小さな頃のこと、小学校の時のこと、中学に上がってからのこと……あの日、走って来る自転車から子どもを庇おうとして、ガードレールに頭をぶつける瞬間から、今この瞬間までが、途切れない一本の記憶としてつながった。

 運動会とか遠足とか、卒業式とか。誕生日とか家族旅行とか、クリスマスとか。思い出に残る大きな出来事と、何でもなく過ごした日常が、たくさんのアルバムをばらばらと捲るように、浮かんでは沈む。


(どうして、今まで忘れていたんだろう……)


 こんなにも当たり前で、すぐそこにあった自分自身(あたし)のことを。記憶は“失くした”のではなかった。そこにあるのに、ただ、桜子の目から見えなく覆い隠されていただけだったんだ。



 桜子の中でようやく、“おかーさんとおとーさん”が、頭で両親だとわかっているからそう呼んでいる人ではなく、“桜子のおかーさんとおとーさん”になった。生まれた時からずっと傍にいて、愛してくれて、時には叱られた、桜子にとって大切な家族だと、心にすとんと落ち着いた。


 けど……もう“一人の家族”は……



(この人は、誰……?)




 **********


 桜子の心象風景の中で、その少年は背を向けて立っていた。


 桜子は、その少年の顔はわかる。どんな性格をしていて、何が好きで、自分に対してどういうふうに話し掛けてくるのかも知っている。桜子に何かがあれば、必ず抱き留めてくれる人であることだってわかるのに……


 その人が誰なのかわからない。



「“りょーにぃ”じゃん?」

「“お兄ちゃん”だよ!」

「“遼太郎さん”ですよ……///」



 気がつけば、心象風景に少年を取り囲むように、三人の少女が現れていた。右側にはニッと笑った幼い感じの、左側は胸の前で指を組んではにかんで、もう一人は少年と向き合うようにいてハッキリと顔は見えない。


 けれども桜子には、その三人ともが“桜子”だとわかった。そして、三人の言い分がどれも正しいことも知っていた。


 その少年は、 “りょーにぃ”で“お兄ちゃん”で“遼太郎さん”だった。



 桜子の知る“お兄ちゃん”は、優しくてカッコ良くて、いっぱい遊んでくれて、どこへだってついて行きたい、大好きなお兄ちゃんだった。

 桜子が泣いてしまって、そのまま眠ってしまっても、抱っこでベッドまで連れてってくれるし、寂しい時は大きな手でポンポンと頭を撫でてくれる。


 “妹”としての桜子は、その少年をそう思っている。



 桜子の知る”遼太郎さん“は、初めて出会った日にひと目惚れした、素敵な年上のお兄さん、大好きな男の人だった。

 一緒に暮らす桜子をいつもドキドキさせ、そのクセ桜子がちょっと迫ると慌てて照れたりする、可愛い人。デートをしたことも、キスだってしたことあるんだ。


 “女の子”としての桜子は、その少年をそう想っている。



「はあ? バカじゃないの、キモイし」



 少年の向こうから、最後の少女が桜子に向かってそう言った。


 桜子の思い出した“りょーにぃ”は、ウザくて、ダサくて、顔は悪くないクセにオタクだし、デリカシーもないダメ兄だった。

 最近じゃほとんど口も利かないし、一緒にいられるとこ友達とかに見られたくないし、“大好きなお兄ちゃん”とか“大好きな男の子”とか、ありえないし。


(そう。“あの出来事”があってから……)


 記憶を取り度した“本当”の桜子は、その少年を前にそう主張する。



 桜子は……“今”の桜子は、どの言い分も正しいことも理解している。




 **********


 と、“妹”がニッと笑い、“女の子”がニコッと微笑んで、桜子に背を向けた。二人はそのまま歩き出す。


 同時に“本当”の桜子が、こっちに向かって足を踏み出した。そして三人が擦れ違った瞬間……”妹“と”女の子“の姿がフッと消えた。

「え……?」

驚いた桜子は、自分の両手が、指先からさらさらと溶け始めてことに気づき、さらに目を見張る。

「えっ、何で……?」



「当然じゃん。あんた、もう“いらない”んだからさ」



 桜子を顔を上げると、正面に立った“本当”の桜子が笑っていた。もう見慣れた鏡の中の女の子だったが、どこかイヤな表情だった。

「“いらない”……?」

「そう。“本当”のあたしが帰ってきたんだから、“偽物”のあんたはもう“いらない”……当然でしょ?」

“本当”の桜子は、今までの自分にバカにするようそう言った。


 桜子の崩れていく手が、色を失い、透き通る。“本当”の桜子はそんな桜子の前で腰を折り、上目遣いで笑っている。

「あの“二人”だって、記憶がなくなってバラバラになったあたしの一部なの。記憶が戻れば、またあたしとひとつになる“一部”……」

そうだ……事故で壊れて砕けた“桜子”達の記憶、元々はどれも一人の“桜子”、この意地悪く笑う少女のカケラだったのだ。


「あんたの存在は、あたしが帰って来るまでの代役でしかないんだ。まあ、人のいない間に、結構ムチャクチャしてくれたみたいだけど」


 “本当”の桜子が、腰を伸ばしてケラケラと笑った。

「あはは、あのダメ兄好きになるとかありえないでしょ。て言うか、兄妹じゃん。うえっ、キモチワルイ」

その言葉は、“今”の桜子を酷く傷つけた。けれど、この子の言い分もわかる。かつての桜子がそう思う気持ちを、“今”の桜子も思い出している。



 小さい頃はずっと仲が良くて、けど、中学生と高校生になると、お互いちょっとずつ鬱陶しい存在に感じるようになって。たぶん、そういうのは思春期の兄妹には当たり前で、正しくて……たぶん、間違っているのは桜子で……


(でも、あたしは……)


 本当にお兄ちゃんが好きで、その気持ちだけはあたしだけのもので、たとえこのまま消えるとしても、この恋が在ったことは、嘘じゃあなかった……



 泣き出しそうな顔で唇を引き結んだ桜子を、“本当”の桜子は軽蔑するような目で見て、言った。

「ま、あんたのキモチワルイ恋心も、あんたと一緒に消えちゃうんだから、別にイイんだけどね」


 そして、わざとらしく胸の前で指を組み、可愛く小首を傾げる。

「そうだなあ……あたしの記憶のない間、あんたが過ごしてきた毎日の “記憶”だけは“本当”だね。そういうあんたの残り滓くらいは、あたしの中に引き受けて覚えててあげるよ。だから、安心して消えてね」

“本当”の桜子が、残酷に笑った。

「ともあれ、代役ご苦労様。今までありがと」



「じゃあね。バイバイ、“桜子”――……」



 その言葉を聞いて、消滅が一気に加速した桜子は――……




 **********


 最後の力で、“本当”の桜子に首に抱きついた。


「な……っ?!」

「そうだね……あなたが“本当”の桜子だもんね……きっと、あなたが言うことが、あたしにとっても”本当“のことなんだと思う……」



「けど、あなた、ひとつウソをついてるよね……?」



 突然のことに目を白黒させる自分の顔に、桜子は微笑み掛ける。

「あなたは“本当”の桜子だ。けど、あたしだって、あなたの一部なんだ。あたしがお兄ちゃんのことを好きになったんだから、あなただって、本当はお兄ちゃんのことがキライなんかじゃないんだ……」

「んあっ?!」

虚を突かれた“本当”の桜子の顔に、“妹”と、“女の子”が、交互に現れた。それを見て、桜子は嬉しくなる。

(二人とも、ちゃんとそこにいるんだね……)


(じゃあ、あたしがいなくなっても、大丈夫だ……)


 顔を真っ赤にして狼狽する“本当”の桜子の耳元に、桜子は囁いた。

「“自分(あたし)”にはウソはつけねーんだぜ?」

「なな、何言って?! あたしは、りょーにぃなんか好きじゃねーし!」

桜子はクスっと笑い、もう一人の自分の耳をはむっと噛んだ。

「あと、桜子は耳が弱い」

「ひやあんっ?!」

それから、目を回した自分とおでこをぴたっと合わせる。

「あたしが知った、エロい知識も持ってけ」

「何これ、何これ、何これえっ?!」

例のエッチな漫画の記憶を感染(うつ)されて、“本物”の桜子の頭がぼしゅうっと湯気を上げた。



 何だかんだと言って、結局……

(“桜子(あたし)”は“桜子(あたし)”なんだなあ)

だから、大丈夫。きっと、大丈夫。


 あたしは、消えても、この記憶(おもい)は消えない――……



 最後にやりたいだけのことをやって、桜子は“本当”の自分を抱き締めると、

「あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね……」

「う……うあ……」

どくん、どくん……二つの自分の鼓動が重なるように響く。


 その時、背を向けている少年が振り返った。その顔を見て、その眼差しを見て、桜子にはもう、その人が誰だかわかっていた。


(さようなら、あたしの恋心……)


(さようなら、あたしの“大好きだった人”……)



 そして桜子は、光の塵になって、消えた。


 永い夢から覚めるように――……




 **********


 桜子は目を開いた。

「桜子、大丈夫か……?!」

するとそこには、涙目になった遼太郎の顔があった。



 ぼんやりする頭で周りを見回すと、そこは家のリビングで、遼太郎の腕に抱かれている。心配するあまり泣きそうな遼太郎に、

お兄ちゃん(・・・・・)、あたし……?」

「お前、一瞬気を失ったようになってたんだ。大丈夫か、ソファに横になるか?」


 そうだった。


 桜子は学校から帰って、記憶が戻りかけて、倒れそうなところを遼太郎に抱き留められて……そうしたことを、桜子は一気に思い出した。何だか、不思議な夢を見ていたような気がした。


 そして、思い出したと言えば……



「覚えてる……あたし、記憶が……全部……」

「本当……か。思い出したんだな、今までのことを……」



 桜子は遼太郎から身を離して、その顔をじっと見つめた。

「それは良かった、けど、平気か? 頭が痛いとか、何ともないか……?」

自分も突然のことに感情が追いついていかないながら、遼太郎はとにかく桜子の体を心配し、オロオロとしている。


 桜子は、そんな遼太郎のことを黙って見つめていたが……



「よ……かったあ……」



 不意に大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙を零した。

「桜子……?」

慌てる遼太郎の胸に、桜子が飛び込んで来た。これで桜子が記憶を失くしてから三度目、遼太郎は妹の体を両腕で受け止めた。


 腕の中で桜子は、泣きながら溢れるような笑顔で遼太郎を見上げた。

「お、おい……」

「覚えてる……あたし、お兄ちゃんと仲良くなったこと、覚えてる……!」

桜子は、ぐいぐいと押すようにして遼太郎に抱きついてくる。



「お兄ちゃん! あたし、記憶が戻っても、お兄ちゃんのこと大好きっ!」



 嬉しそうに、そう叫んだ桜子の顔に、遼太郎は“妹”と“女の子”の二つの表情を見たような気がして、思いが込み上げ、そっと抱き返した。

「そうか……ありがとうな、桜子」

「うん……あたし、お兄ちゃんが大好き……ずっと大好き……」

遼太郎の胸に顔を押しつけ、幸せそうに微笑む桜子の頭の中で……


(消えてないじゃん、“あたし”の気持ち……)


(あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね――……)



 誰かはわからないけど、よく知っている声が、そっと囁いた。




挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[良い点] ∀・)これは面白い暗転きましたね。しっかりしたストーリー構成と桜子ちゃんのキャラ設定が練り込まれてないとここまで面白くは感じなかったことでしょう。凄い。これは化けそうですね。これからの展開…
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