最終話
自分が人と違う、と思ったのは、小学生のころだった。けれどそれは人より勉強ができたからとか、英語を聞きかじりで覚えたからとか、そういうことじゃない。もっと簡単で、深刻だった。
色素の薄い私の髪が、どんどん赤くなっていくからだった。変な病気じゃないかと不安になって、いろんな文献を読みあさった。専門書には「重大な病気の可能性がある」と私を脅かす一方で、もう一つの可能性も示唆してくれた。
モンゴロイドとコーカソイドとのあいだに生まれた子供には、一定の割合で生まれてくる。
つまり、私の父親は日本人じゃなかったのだ。
生物に興味がわいたのも、だからきっと、必然なのだろう。どこから来て、どこへ行くのか。
「種の起源」という単語を知ったのも、ちょうどそのころで。
1
抜けるような青空。どこまで続く広大な砂漠。アメリカの西海岸に梅雨はないらしいという噂を聞いたことがある。
日本のじめじめとしたあの季節が懐かしくて。思わず一人笑ってしまう。自分がそんな感傷的な人間だと思わなかった。
「みんな、元気にしているだろうか」
みんな、といっても、思い当たるのは一人と一匹だけだ。生物部を半端にして任せてきた後輩。部活となる前から仲間だったカメレオンのサルーン。
あとで、大之木先生にも手紙を書かなきゃな。
ここへの進学を進めてーー決定的にしてくれたのは、彼だった。よほど学生生活に鬱屈しているように見えたのだろう。
そういうわけではなかった。鬱屈していたのは学生生活というよりは、個人的な問題で。
「ま、考えても仕方ない」
The CELL と書かれた、分厚い教科書を抱え、私は次の教室へと向かう。考えても答えがでない。……違うな、自分に都合が悪いから、目をそらしてるだけなのに。
日本と違って、こっちの生活は全てが新鮮で、刺激的だった。川でいきなり泳ぎだしても咎めるものはいないしーー、いっしょに飛び込むものがいるくらいだった。
自分の描いた未来だ。自分でつかんだ現実だ。それでもどこか、心の中に空虚な感覚を覚えてしまうのは。
「みんな、元気にしてるのかな」
きっと中途半端なままにしてきたからだろう。
本日二度目の溜息は、青い空に吸い込まれていく。
「君は、人間は何から進化したか知ってるかい」
「サルからだと、教わりました」
進化学汎論の授業だった。真っ黒に日焼けしたアジア系の教授は、白い歯をむき出しにして私に語りかけた。
「そう。ダーウィンの主張だね。
君自身はどう思う? 」
まるでいつかの、私と彼のやりとりのようだな、と苦笑して。
私は太古の地球に思いを馳せる。
「すごく、知的なサルが居たんだと思います。
彼は手で道具を使い、火を恐れなかった」
「つまり君は、たった一匹の高度なサルが、人類全体のレベルを引き上げたと言いたいんだね? 」
私の説明を全部聴き終えて。
満足そうに彼はうなずいてから、そう言った。
いつだってそうじゃないか? 物理学も、数学も、天文学も、それこそ生物学だって。画期的な発明をした第一人者が居て、それに追随する大多数がいる。そうやって発展というのは繰り返されてきたのではないか。
「世界には、道具を使うサルがいる。
それに、我々と袂を別れたホモ・エレクトロすにも火を使った痕跡があることが、最近の研究でわかった。
すなわち、高度な知性を持つことは、進化の十分条件じゃないことがいえるね。
それじゃあ」
彼はもったいぶって、こちらに背を向けた。
かちり、とマウスを一度左クリックすると、教室の画面にスライドが表示される。
「我々はどこからきたのか」
黒地の背景に、白抜きの文字で。簡素なメッセージは表示されている。
教授は、もうこちらに問いかけることはしなかった。
「ごく器用なものが居たから。
飛び出た知能があったから。
突然変異で、自然淘汰で、中立説で……。
答えは、全てノーだ」
もう一度、教授はクリックする。
今度は画面が真っ暗になる。
もともと薄暗かった室内に、教授の声だけが響く。
「こうして我々は、意思を相手に伝えることができる。
我々人類がもっとも最初に変化した場所。
それは「声帯」だ」
滔々と。
教授の言葉が響き続ける。
「繰り返して言う。
偉大な人類がいた訳じゃない。
飛び出た才能があったわけではない。
最初の人類は、喉を発達させ、情報を分かち合いながら今にいたる。
進化に必要なのは「仲間」だ。
ここにいる諸君らは、自他ともに優秀な学生だと思う。一国から、あるいは世界でも有数の頭脳になるかもしれない。
けれど君ら自身の能力に溺れることなく、声を進化させ「言葉」をつくり、仲間たちとともに繁栄を願った先人たちを見習って欲しい」
そうか。
それなら、もうとっくに。
手に入れていたのだ。
生まれてきたことも、うまくいかなかった学生生活も、鬱屈した感情も。全てはこの話と出会うための布石だったように思う。
私は少しだけ、進歩した。それを実感した。
2
変な東洋人が来ている、という噂を聞いたのは昼食を食べている時だった。身なりはアジアの学生のようだが、妙に顔立ちが幼い。手にしたスケッチブックには「take me AOI」と書かれているらしい。
私は、確信して、
「すいません、その人のところに案内してもらえませんか」
見ず知らずの他人に、お願いをしていた。
炎天下のした、彼はジーパンに長袖のポロシャツという格好で。それも汗だくになりながら、スケッチブックを持ち続けていた。
「本当に馬鹿だなあ、君は。来たのか、わざわざ」
「きました。先輩に、会いに」
「ただそれだけのために? 」
「それ以上の理由なんてないっすよ」
屈託なく笑うその顔は、この西海岸の空よりもまぶしい。
「それとついでに報告。
俺らの発表、しっかり賞を取れたんですよ。
といっても佳作ですけどね。頑張ったでしょうてきな」
「……そんな。ありえない。
あそこから実験をやり直したの? 」
「いいえ、違うんです」
彼はポケットから携帯を取り出すと、いつかの懐かしの暗室の写真を取り出した。
「子供が生まれてたんです。
俺はあのあと、暗室で孵化したオタマジャクシを見つけました。
テーマは『変態したオタマジャクシは、一番最初に何色になるのか』。発表もまとめ方もいまいちだけど、アイディアだけは評価されましたよ」
「……そんな、方法があったなんて」
「先輩がいればなあ、優勝も目じゃなかったのに。
でもま、来年に期待ってことで。
……約束どおり部室ももらえたし、部員も増えました。部長は、百日紅さんにお願いして。
俺はこうして気ままに先輩に会いにこれたってわけです。
どうです、進化したでしょ、俺も」
「それは進化じゃない。進歩っていうんだ。
似て非なるものだ。
一世代の中で起きる変化に、進化という言葉は使わない」
「あっれー、おかしいな。結構勉強したはずなのに。
ま、とにかく。
今はダーウィニズムよりも、主流な進化論があるんでしょう?
自然淘汰説(弱いものいじめ
じゃなく、もっとマシな奴が」
私はさっきの教授の話を思い出しながら、
「とっておきのやつがあるよ」
「それじゃ、楽しみに待ってます。
生物部は、俺が守ってますから。
いつ帰ってきてもいいんですよ」
私は頷いて。
そうか、そんな単純なことだったのか。
私が求めていたことは。
言って欲しかった言葉は。
「頼むぞ、よろしく」
「それじゃあ」
彼は満面の笑みで。
『いってらっしゃい』と。
私の起源は、間違いなくそこにある。