なまものなまむぎせいぶつぶ
進化する僕ら
猿はどうしてしゃべれないのだろう。
僕ら人間は、ある日突然人になったのだろうか。それまで他の猿と同じように、火を恐れ、木の実を食べてくらしていたはずなのに。
道具を使い、言葉を発した最初の人類は何を思っただろう。
俺についてこい、か。
どうして自分だけ、か。
どちらにせよ、以前の集団にはなじめず、孤立したことは間違いないと僕は思う。
進化に優劣の方向性なんてないのだから、彼の突出は「進化」であり「異端」でもある。
でもさ、それってきっと、どこにでもあることで。
特別器用な猿が誕生しても。
それを助け、想いに共感して集まる仲間が居て。コミュニティを形成し、家族を作り、子孫を増やして僕に至る。
そんなことを思って。
僕は一人、屋上のさらに上、貯水タンクの横に座って、孤立した彼女のことを思っている。
1
通称地獄坂、と呼ばれる坂がある。校門の10メートル手前から続く、傾斜45度の登り坂。僕ら遅刻組は命がけでその坂をダッシュするし、運動部はトレーニングにつかっていた。
その隣を流れるきれいな川がある。源泉は何やら富士山のほうから流れてきているらしくて、日本の名水にも選ばれたことがあると、聞いたことがある。こちらのあだ名は「三途の川」。坂をのぼりきれず、力尽きた奴らが流れていくとか、いかないとか。ま、休日は家族ずれがバーベキューやら、水遊びなどで訪れる、住民にはなじみ深い川である。
僕はいつも通り走っていた。といっても、坂の手前をだ。今日が登校日だというのをすっかり忘れて、家を出たのが8時過ぎ。始業のチャイムに間に合うか、ぎりぎりの時間だった。
ちくしょう、川をのぼって校内まで行ければいいのにな。
いつもと変わりなく流れる「三途の川」を見て、僕の心は毒づいた。優雅なもんだ。こっちの気も知らずに。そして二歩、三歩と歩を進めるうちに、僕は川の中に人がいることに気が付いた。
最初は人が溺れているのか、と思った。なんせこちらからは表情が見えない。黒く見える衣服は私服か、それとも水着か、もしくは汚れた何らかなのだろうか。
人影は立ち上がり、両手を上にあげる。その時初めて僕は、その影が――黒い髪をした女性であり、抜群のプロポーションを持つということが分かった。女性はひとたび身震いをすると、こちらの視線に気が付いたのか、後ろを振り返る。
先輩、なんであんなことしてたんですか?
さも愚問、とばかりに「藍井奏」先輩は鼻を鳴らす。この学校で一番美しい鼻だ。
あの日、気温は32度を超えていた。水温で言えば28度。学校のプールの規定にのっとれば、25度あれば入水可となっているのだから、川で泳ぐことに何ら不思議はない。
そういうことじゃなく、と俺の反論は生物部の部屋にむなしく響く。
ま、とにかくごちゃごちゃ言っても始まらない。それが俺と先輩の出会い。俺はそのあと、先輩を川べりから上に上がるのに手を貸して、結果たっぷりと遅刻した。宿題を2倍に増やされた。
それも今となってはいい想いでだったと思える。ま、逆説的だな。思い出だから美化されるのかもしれないけどさ。
2
「性染色体を知ってるか」
その日先輩は、珍しく紺色のスーツに、ブレザーというごく普通の指定された制服で、教団の上に立っていた。
生物部の部室には、俺と先輩しか居ない。
「ええと。エックスとワイですよね」
「そう! 珍しく賢いな」
黒板にエックス、それからワイ、とアルファベットで示し、紅いチョークで花丸をつける。
その勢いがあまりにもいいから、先輩のスカートがひらりと翻っていた。俺はそしらぬ顔をして、神様に感謝をする。
「じゃあどうして、エックスとワイ、二種類の染色体ができたと思う? 」
「さあ。神様が作ったんじゃないですか」
「無論否定はしないが、思考停止にその単語を使うのはいただけないな。
幼稚でもいい。君なりの考えが欲しい」
真正面から、黒く光る眼で見据えられると、俺は反論できなくなってしまう。目線を上にそらして、必死で思考を巡らせる。
エックスと、ワイ。
そういえば昨日、エックスファイルという映画を見たんです。金曜ロードショーで。と話をそらしてみる。
それともワイって話から猥談につなげてみようか。けれど先輩が、そんな話にのってくるとも思えないし。
エックスと、ワイ。
考えても考えても答えがでなくて、俺は苦し紛れにつぶやいた。
「ええと、うまく言えないけど。
エックスと、ワイ。つまり二つ必要だったんじゃないですか? 」
「ほう。面白そうだ。続きを聞かせてくれ」
「だから、その……。
違いを区別するためというか、AさんとBさんというか」
「すばらしい! 」
先輩はよほどうれしかったのか、黒板を右手でたたいて声を張り上げた。
「きっと、それが正解なのだろう。
個体を区別するために、違いを作り出すために2種類あると考えるのが妥当だ。それじゃあどうして3種類じゃダメなのかとか、それ以上の区別にも想像は膨らむが。
少なくとも、2種類でいいと、神はおっしゃった。それに現在こうして示されているしね」
先輩は初めに自分を、そして次に俺を指さして笑った。
「男と、女。
その区別を創り出しているんだ」
その無邪気な笑顔を眺めて。
ああ、どうして俺はこの人を好きになってしまったのだろう、と悩んでしまう。
けれどその顔があまりにも嬉しそうだから。
俺は「そりゃ素晴らしい」と相槌を打ち、手を取り合って喜んだ。
「ねえ、やめなよ」
そう言ったのは、同級生の理沙だった。
「ん? 何が」
「生物部。あんまりいい評判聞かないよ」
「うるさいな」
そのことは知っていた。なにせ活動している部員は2人しかいないし、うち一人は常識外れの行動派、もう一人は授業に出たりでなかったりの幽霊生徒と来てる。
「あの先輩、進路指導の高橋に目つけられてるみたいだし。進学やばいんじゃないかな」
先輩が、将来に不安を抱く姿を想像して、思わず笑ってしまう。
「ちょっと。何笑ってんの」
「いや、ごめん、こっちの都合で。
それより、ありがとう。でも心配いらないぜ」
「何よそれ」
「先輩だって、評判よくないみたいだけど、意外といい先輩なんだ」
俺は鞄から本を取り出して、理沙に見せてやる。ノーベル賞を取った、生物学者の話だ。
「お前にも貸してやろうか」
「いらない。つまんないもん」
「愛が足りてねえよ」
愛、愛と。
俺はイヤホンを耳に差し込み、タップして音楽を再生する。
シャカシャカとドラムの音に混じって、ボーカルが「愛」と「平和」を叫んでいた。愛と平和。友情と平和。愛があれば、争いのない世界になる。なんてね。
ようこそ、生物部へ。
要するに、退屈だったのだと俺は思う。その日は雨で、次の日も雨の予報だった。だから先輩は大好きな川の水遊びができなくて、時間をもてあましていたのだろう。
外ではしとしとと雨が降っている。たまに明滅を繰り返す蛍光灯の下には、俺ら二人しかいない。先輩と俺は、「生態系同好会」と名乗り日々生物を追っかけーーているは非公式の団体であり、バスケ部の部室の裏を借りて活動していた。
「部室が欲しいと思わないか」
先輩の発言は、いつも唐突だ。
「そりゃほしいですよ。
でもそれより、部員のほうが先じゃないですか? 」
正直そんなものより、先輩と二人きりでいるこの空間が何より楽しいのだけど……そんな俺の思いは届かない。愛しい人は、人差し指を眉間にあてて黙考する。
「それはダメだ。この部屋が借りられなくなる」
「秘策があります」
俺は先輩が座ってる水槽を指さした。
「部員が人間じゃなければいけない、という理屈はないはずです」
「なるほど」
と、とうの本人、学校のゴミ捨て場に迷い込んだ哀れなカメレオンは舌を伸ばした。
顔色も変えるのが得意ってか。カメレオンだけに。
そんなくだらないことを考えていると、先輩はポケットからビラを取り出した。
「だが残念。生徒会規則には『部活に参加するのはこの学校の生徒に限る』と書いてある。
そこでだ、これに参加してみようと思う」
その手に握られていた紙切れには、
「集まれ、同好会対抗 部室争奪戦」
と、書いてあった。
「それで、どういうことです? 」
「君は考えることをしないな」
俺は先輩の話が聞きたいだけなんですよ。
と思ったが、俺は苦笑して相槌をうつ。
「この学校に数多存在する同好会。部活になる気力もなく、かといって所属する勇気もない。だけど帰宅部ってのもなー、将来を考えると……という、日和見主義者たちの集まりが、たくさんあるのだ」
「その言葉、ブーメランになってますぜ」
「ふむ」
「続けてください」
「そこで、その烏合の集を集めて、競わせたら、たしょうまともな『部活動』が生き残るのではないか、というのが趣旨らしい」
「つまり、」
俺は額に手をあてた。
「自然淘汰ってわけですね」
「ほう。君にしては知的なジョークだ。
そうだね。そう言っても差し支えないかもしれない」
先輩に褒められたのが嬉しくて、俺は小躍りして立ち上がり、あれ、立ち上がって小躍りして、
「よし、優勝しましょう! そんで部室を手に入れるんです。俺と先輩の愛の巣です」
「巣、巣というのはな、普通はオスが準備するもんだぞ」
「は、どういうことですか」
俺は踊っていたから気付かなかったが、先輩は窓から外をみて、何かをもごもご言っていた。また思考がどこかにトリップしたのだろうか。
けれど俺は気分がよかったから、そのまま外にでて、喜びを表現しようとしたけれど、ランニング中の野球部の群れにひかれた。南無。
「お、いっぱい来ているな」
指定された時間に、体育館にいくと、ざっと50名程度の学生が集まっていた。彼らは4ー5人の集団に分かれており、おのおの「○○同好会」と書かれたのぼりを掲げている。
「赤とんぼ同好会ってありますよ。
先輩、俺らの活動と近いんじゃないですか? 」
「違うな。あそこは竹でおもちゃの赤とんぼを作るのだ」
「作ってどうするんです? 」
「知らん。そういうのが趣味なのだろう」
ほかにも「アンチ帰宅部同好会」「ゲーム好きだけど、趣味っていうほどうまくないし同好会」「ハードロック80年代同好会」、などがあった。
時間になると、左腕に黄色い腕章をまいた、生徒会の役員らしき学生が、メガホンをもって前にでてくる。
こんにちは、と前おいて。
「これから皆さんにはスピーチをしてもらいます。
わからなかったり、やる気がなくなったら帰っても結構です。ええとそれでは、」
ルールは簡単。各団体の代表者が、前へでて、活動内容と抱負をしゃべる。
あとは投票制で、一番数が多かった団体に、バスケ部裏のスペースを差し上げます」
ってそこ、俺らの活動場所じゃん。
心配になって横をみると、先輩は自信ありげに笑っていた。その笑顔に、俺も勇気づけられて、
「自信、あるんですね」
「当たり前だろう」
「頼りにしてます! 」
なんてやりとりをして。
各代表のスピーチが始まる。
赤とんぼ同好会は辞退したみたいだ。
アンチ帰宅部から。
名前からは想像できないような長身のいかつい男子生徒が前へでてくる。
「みなさん、青春してますか」
学生は開口一番、その言葉が一番似合わない連中に問いかけた。
「人生50年と言いました。
青春はさらに短い。無駄に浪費する暇はないのです」
力強く力こぶを示す。
「無気力に帰宅したり、惰性でゲームに興じてる暇はない。全力で遊び、全力で鍛える。それこそが我らのモットーです」
ペコリと一礼をして、壇上をあとにする。
「へえ、今時珍しいですね」
先輩のほうを振り返るとーー。
なぜか先輩はふるえていた。
「って、何感化されてるんですか」
「我々の活動も浪費なのだろうか……。スポーツを、恋をせねば! 」
「違うでしょ。青春てのは人それぞれで、誰かに強要されるものじゃないんだから」
俺の的確なつっこみに、先輩はやっと我に返り、
「そうだな。『そうあるべき』と強要した時点で、それは洗脳だ。危ないとこだった。あまりにも聞こえがいいものだから」
そうか? そんな汗臭い青春、俺はごめんだけど。
「ま、それはともかくとして。
次は先輩の番ですよ。しゃきっとして、行ってきてください」
「ありがとう」
そういって彼女は、校内一の笑顔を見せた。
先輩が前に出てマイクを持つと、体育館内にざわめきが起こる。中には男たちの黄色い声援が混じっている。
なんだ、意外と先輩人気あるんじゃん。
と思う反面。
そりゃそうだよな、通りを歩けば、誰もがふりむくような美人だもん。
と納得する自分も居た。毅然としてみんなの前に立っている先輩は、いつも俺とふざけている人間とは違う、遠い存在のような気がして、少しだけさびしくなる。
ああ、そうか。
俺はその時になって初めて、自分の気持ちに気づく。
別に部室なんて要らない。学校に認知される必要もない。ただ二人でバカみたなことをやるのが楽しいのだ。
だからどうか。先輩のスピーチが失敗しますように。
だからそんな、矛盾した思いを抱えたまま俺は先輩へエールを送る。
「みなさん」
先輩のかすれがかった、きれいな声がスピーカーから響く。
「自分たちが誰だか知っていますか?
どこで生まれ、何をして、どうやって生きていくべきなのか。私は、分からない」
さきほどまでの歓声が嘘のように、静寂が訪れる。
「ダーウィンは言いました。進化の全ては淘汰で説明できると。
異物を除去し。
弱者を排除し。
自然により適応し、生き残ったものがすなわち強者である」
でもそんなのは少し寂しい。
だから私たちは、生物の種別を問わず、いろんなものを受け入れています。生物飼育に興味あるかたはぜひ。
と、スピーチを締めくくった。
次のスピーチはハードロック同行会が前にでて、一曲演奏して終わった。
順繰り順繰りにスピーチを行い、生徒が思い思いの投票を行った結果ーー。
一位はアンチ帰宅部同好会になった。
「あらー、結構みんな、熱血好きなのねえ」
俺は渡されたアンケート用紙を見ながら、つぶやいた。参加した団体には、今後の活動のため、という名目で無記名のアンケート結果が渡されるのだ。
「私だって入りたくなったぐらいだ、すばらしい活動だと思う」
「そんな借り物の青春、退屈だと思いますけどね。ま、それが世間の時流ってならしょうがない」
俺はアンケートの結果が、「生物部」にきたところで手をとめる。
「残念でしたね、先輩」
「しかたないさ。また一からやり直そう」
「一からもなにも、」
俺は笑って先輩を指さした。
「先輩が居て、俺も居て。戻ればカメレオンが居て。いつもどおりじゃないですか? なにも問題ない」
「それもそうだな」
先輩は苦笑する。
アンケート結果には、いろんなことが書いてある。
「なんか感動しました。私も犬を飼うのが好きです」「うちで生まれた猫、引き取ってもらえませんか」というライトなものから。
「僕は両親がいません。どこから来たのかわかりません。教えてください」というヘビーなものまで。
けれど一番多かったのは「応援してます」という単語だった。
「嬉しいですね」
俺は率直な意見を口にする。
「だろ? たまには外に出てみるものだ」
先輩の満足げな顔をみて。
俺はなんだか報われた気持ちになったのだった。
結果、俺らは活動場所を失ったわけだったが、嬉しい誤算もあった。
話を聞いた生物部担当の教師が、生物部の一角を俺らに提供してくれた。……実験の雑用を手伝う、という条件込みで。
「先輩、俺も無理っす」
ピンセットをせわしなくうごかしなら、俺は弱音をはく。
「よく考えたら、両生類とか嫌いだったんですわ」
「つべこべいうな。全ての生き物は進化に通ずるのだ」
「誰の言葉ですか」
「ごめんね、今私が考えたの」
その不意打ちに、俺は少しどぎまぎして。
「あーあ、早く食い終わらないかなぁこいつら」とぼやいてみせる。
俺らの雑用とは主に。
解剖用のカエルに、餌をやることだった。食べるの単純な線虫だが、こいつら、動いてるものしか食わないらしく、人が手づからピンセットで動かしてやらねばならない。1学年分の変えるにやらねばならないのだ。
「カエル飼育する必要あるんですかねぇ。
買えばいいのに」
「でも、私はカエル好きだぞ。キャラクターものも結構持ってたし」
「へえ、意外ですね。
緑色のカエルは擬態しているだけで、本当は緑色のアマガエルは居ないんだ、ぐらいのこというのかと思ってました」
「私をなんだと思ってるんだ」
後ろ側にいた、サルーンが水槽を叩いた。一人でほっておかれて、寂しかったのかもしれない。
先輩と俺とカエルとカメレオンと。
あんま見栄えのいい絵面でもきれいな光景でもないけれど。
ざまあみろアンチ帰宅部。誰がなんといっても、これが俺の青春だ、と毒づいた。
くだらなくて、他愛もない。
しょうもなくて、かけがえのない。
満足そうに笑う俺を見て、先輩は怪訝そうな顔をしていた。