愛と殺意の境界線
何故殺人というものは成功するのか。
そんなことを思い、考えた事はあるだろうか?
刃物で刺せば死ぬから?銃の引き金を引けば死んでいるから?
確かにその通りだ。
でも僕は『そうじゃない、違うんだ』と言う。
人は明確な殺意を向けられても、それに対する防衛行動を起こさない。いや、起こせないのだ。逃げよう、と考えても体が言う事を聞かない。極度の緊張状態に陥るからだ。考えて、考えて、考えた結果は相手の殺意よりもずっと遅く、行動を起こすのは結局、全てが終わった後だ。
向けられた殺意より、自分の防衛行動の方が遥かに遅い、ということだ。
例に上げるとするのなら、今現在の僕だ。
彼女から向けられた殺意は、殺意というものに遭遇していなければ、理解もしていない僕にもはっきり意識できるくらいに明確かつ確実だ。
僕はこの場から急いで逃げなけらばならない。だってこのままだと殺されてしまうから。
そこまでわかっているのに、わかっているはずなのに………体が石になった様に動かせず、行動を起こさない。
「あら、逃げないのかしら?」
土を踏む音が近づく。彼女がゆっくりと、僕に向かって歩いてくる。
呼吸が荒くなる。動かない体は、恐怖から微細に震え始める。眩暈もし始めた。
生きている中で、最も最悪な体調だ。
「………貴方、怖くて動けないのね?」
――――――貴女を見て恐怖を感じない人間がいるのか
僕は彼女にそう訪ねたかった。でも、動けないのだ。
追い討ちを掛けるように、僕の目に彼女が右手に持った銀色に鈍く光るもの――ポケットナイフ――が止まった。もう、考えることもできそうにない。
「ああ、その表情、凄く良いわ………恐怖に歪んだその表情………凄く素敵」
彼女の吐息が感じられる程に、彼女は接近していた。もはや接近という言葉では不十分な程に、だ。今の状態を表すとするのなら、密着が近いかもしれない。
ひたり、と首筋に冷たさを感じる。
「動いては駄目よ?少しでも動けばその細い首筋に秘めた、更に細く脆い動脈が切れてしまうわ。そうすれば貴方は死んでしまう」
そうか、この冷たさはナイフの刃から感じるものか。
薄く小さいナイフから感じる冷たさは、僕の全身を一瞬で凍らせてしまうような、そんな冷たさ。
僕は死を、間近に感じていた。
「私は、人という存在を心から愛しているわ。殺してしまうくらいに」
彼女は妖々しく微笑んだ。その微笑みからは、冷酷さしか感じ取ることができなかった。
『人を愛しているから、殺す』
それは矛盾しか持たない不自然な言葉だ。
人を愛しているから守る、なんて陳腐な言葉の方がよっぽど良い。だってその言葉には、悪意や殺意といった負の感情が無いからだ。
「つまり、私は人を自らの手で殺すのが好きなの。貴方を一目見て、愛を感じた。だから貴方を殺すの。でも、貴方が勝手に動いて勝手に死んでしまっては意味がない。たとえそれが私のナイフが原因だったとしても、私が殺したいタイミングで殺さなければ、それは私にとって殺した事にならないの。理解できるかしら?」
理解できる訳がない。彼女の考え、発想は既に狂人の域だ。
僕は何処にでもいる男子学生で、一般人だ。そんな考え、理解してもいなければ、理解しようとも思わない。
「………貴方、さっきまで怯えきっていたというのに、今ではそんな反抗的な瞳で私を見るのね………本当に、素敵よ、貴方」
首筋に当てられたナイフに力が入る。チクリとした小さな痛みが全身を駆け抜け、温かい血が流れ出るのがわかった。
彼女の艶かしい唇が、首筋に近付く。首筋で吐息を感じたと同時に、生暖かい何かが、僕の首を這いずり回った。
「ふふ………貴方の血、凄く甘いのね………」
這いずり回ったものが彼女の舌だったのは、すぐにわかった。彼女は流れ出た僕の血を、その舌で掬い取り、味わったのだ。
その行為は僕に、彼女の舌や血の温かさ以上に、悪寒と冷たさを与えた。