特別な夏
二男夏樹(長男愁語り)
夏樹のあの馬鹿みたいな単純で純粋な瞳をうっとおしいと思いながらどこかで憧れていた気がする。
「愁……特別って何?」
もう愁兄とは呼んでくれなくなった大人びた口ぶりのまだまだ可愛らしい質問に洗い物をしていた手を止めて三歳違いの弟の夏樹を見つめた。
「すごく、大切ってことだと思うよ」
ジャージ姿のまま突っ立った夏樹がビー玉のように大きく澄んだ瞳を向ける。汗が額から噴出して、首筋に流れていくことに気付きもしない。固まったまま考え込む姿に思わず笑った。
「風邪ひくから、先に風呂に入って来い」
我に返って慌てて階段を駆け上がる音を背にしみじみと弟の成長を感じた。あの単純バカが特別ねぇ…。
「きっと明日香ちゃんがらみね」
男らしく葱をぶった切りながら肩越しに一歳違いの姉の千春がうふふと可愛らしい仕草で笑った。まな板からなべに向けて切られた葱が大胆に投入されていく。向かいの家に住む幼馴染の明日香は夏樹や冬路と同学年で、昔から簡単に弱さを見せまいと必死で強がる姿がいじらしくて昔から何かとちょっかいを出したりもした。
「昔から明日香のこと妹分にしてきたからな」
「面倒見がいいのね。夏樹は愁に似てきたね」
「マジで?」
夏樹とそっくりのビー玉の瞳に微笑みを浮かべて頷ついた姉は続いて手にした人参を迷いの無い手つきで銀杏切りにする。
「俺、ずっとちーに似てると思ってたんだけど、この大胆さとか」
手元を指差すとにっこりと得意のかわいらしい微笑みでかわされた。
「あぁ見えて夏樹意外と繊細なの。なんだか昔から一生懸命愁のまねっこしてる気がする」
夏とはいえ夕暮れ時になると日はまだ落ちないものの、随分と気だるい蒸し暑さはなくなってきた。網戸越しに外を見ながら夕食の仕度をしている時間がもしかすると一番落ち着く時間かもしれない。
「あの子達、最近自転車二人乗りで登校するのよ」
「それ大丈夫なの?噂にでもなったりしたらまた面倒なことに…」
おかしそうに笑う姉に返すと、また笑われた。
「明日香ちゃんを守ってあげてるつもりなんじゃない?最近、元気ないって言ってたから」
「なるほど。お兄ちゃんしてるわけか」
「愁も夏樹も昔から明日香ちゃんのお兄ちゃんだものね」
すっかり保護者の顔をした姉に気をとられているうちに本日のメインが男らしく味付けされていく。慌てて止めに入ったが醤油はボトルから直接投入された後だった。
「大丈夫。きっと美味しい。頑張って作ったもの」
「味見してないだろう。だからちーの料理は毎回味が違うんだよ」
「愁は変な所こまかいよね」
不満気な顔で男の料理の制作を終えるとこれまた豪快な盛り付けに入るメインはもちろん食卓に出るまで姉に味見されることはない。毎度のことながら我が道を行く姉に振り回されつつ炊飯器のご飯の炊けた音楽と醤油と出汁を煮込む良い香りに包まれ夕食の準備が整いつつある頃、タイミング良く家の扉が開く音がする。
「ただいま。良い匂いだね」
サラリーマンの父が穏やかに微笑みながら食卓に並べられた料理を眺めながら大きなビー玉の瞳を細めながら微笑む。
「「おかえりなさい」」
はもってしまって、二人で顔を見合わせて笑った。父がいるとその場の空気が柔らかく優しくなる。
「はいただいま。もう皆帰ってるのかな?」
「帰ってるよ。双子は洗濯物畳んでると思うけど、母さんはまだ寝てるかも」
「じゃあ呼んでこようかな」
父に集められ、リビングがすぐに騒がしくなる。人数分の箸を並べながら母が早くも好物のポテトサラダをつまみ食いをする。
「あ、母ちゃんずるい!」
「夏樹座れ。腹減った」
「よく言うよな。洗濯物全部俺に畳ませて隣でずっとラッパ吹いてたくせに」
3歳下の一卵性の双子の弟達が同じ顔をつき合わせて言い争っている。
「フルートだし」
「冬路ラッパ上手くなった?」
「フルートだし!」
母と息子達のやり取りを穏やかな表情で見つめる父は些細なことをとても幸せそうに、丁寧に扱う。
「さぁ食べようか。ちーも愁も座って。早くしないとポテトサラダが無くなりそうだ」
父の掛け声と共に全員が席につく。夕食は家族全員で食べるという決まりはない。実際それが不可能な日もあるが、皆がこの時間を大切に思っている。
「いただきます」
育ち盛りの双子が我先にと言わんばかりに次々と皿を空にしていく。続いてはこれから出勤の母が姉の制作した煮物を椀子そばの勢いで口に放り込んでいく。
「この鶏の煮物、ちーが作ったやつでしょ?」
「うん」
「ちーは随分上手になったね。愁の教え方が良いのかな?」
感心する父に「ちーが愁の言うこと聞く訳ないでしょ。私達の言うことだってなかなか聞きやしないのに」と正論をついた母が鍛え抜かれたたくましい腕を広げて豪快に笑う。
「そういやぁ双子はいつから夏休み?部活は休み中もあるんでしよ?」
「まだまだ先たよ。休みになっても俺部活あるから学校行くし」
7月の初めから早くも夏休み気分の母に夏樹がしれっと答える。1年から水泳部に所属する夏樹の塩素ですっかり色が抜け茶色くなった頭が一人だけで妙に目立つ。
「俺も、休み明けに発表会あるから」
夏樹に続けて答える冬路の表情は淡々と言う言葉に反してどこか嬉しそうだった。
「二人ともお休みなのに忙しいんだねぇ」
部活に青春をささげる息子達をしげしげと見つめながら大きく頷く父。一瞬かげった表情は寂しげではあったが、瞳の奥は相変わらず穏やかだった。
「まぁでも、今年からちーが受験生だし来年は愁と双子もだし家族旅行なんて出来なくなるんじゃないかな」
「皆大きくなったからねぇ」
父の言葉から何かを感じ取った母が諭すように言葉をかけると父はやはり笑いながら寂しそうな顔をした。
「じゃあ今年行こうよ。私の受験だけなら行けるでしょう?」
「俺も、旅行行きたいな」
二人に気付いた姉が助け舟を入れながら僕に目だけで確認をとる。そ~ゆ~所はさすが長女だ。
「夏樹も冬路も2、3日位なら空けられるでしよう?」
「えぇ!」
「その程度休んだ位で落ちるレベルじゃないでしょ?」
「……まぁ、顧問に言ってみる」
文句を言おうとした夏樹のプライドを刺激しながらピシャリと丸め込む様は実に鮮やかだ。
「皆、そこまで無理をしなくてもいいんだよ」
「少しは皆で合せないとなかなか行けないだろう。今年なら絶対に行けるし、来年は二人が受験生だし絶対に無理だから、行きたいんだ」
「なぁそれどーゆーことだよ!」
「俺と夏樹は馬鹿だから死に物狂いで勉強しなきゃ駄目だって意味か」
父に向けた言葉にチャレンジャーな夏樹が突っかかるが、片割れの冬路は同じ顔で穏やかな表情で姉にご飯のお代わりをねだりながら見事に核心をつく。
「来年は二人の高校受験でしょう?じゃあやっぱり今年行こう。あ、ねぇ私明日香ちゃん家と一緒に行きたい♪」
上手いこと家族を丸め込みつつある姉がまた無茶振りな提案をするが、そこに瞳を輝かせた母が同意する。
「いいねぇ!私も久々に政美達と飲みたい!」
こうして、2家族の旅行計画はスタートする。その日、夕方から大型トラックでの運搬の仕事に出かけていった母が意気揚々と口笛を吹いて高速を走ったことは言うまでもない。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
今回から、長男愁の目線から見た二男夏樹の話になります。