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神の印

ローザンブルグに響く歌

作者: 並木空

「ローザンブルグの白薔薇」と世界観を共有しています。

 エレノアール王国の北には、ローザンブルグ領がある。

 風光明媚な土地で避暑地として愛され、王家の離宮や貴族たちの別荘が点在している。

 その一方で『エレノアールの大聖堂』と呼ばれるほど、神に近しい場所であった。

 多くの礼拝堂、荘厳な神殿が立ち並ぶ。

 この地方を治めるのは、ローザンブルグ一族。

 その歴史は古く、王国創成期までさかのぼることができるという。


 ローザンブルグ地方マイルーク領、マイルーク城。

 その門をくぐったのは、やはりローザンブルグ一族であった。

 ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。

 マイルーク子爵の従兄弟の一人であった。

 盛夏は、この地方が最も輝くとき。

 自然とペルシの表情もにこやかなものになった。

 森に面したテラスに上がると、テラス窓を叩く。

 若きマイルーク子爵は驚きながら、テラス窓を押し開いた。

「レフォール殿、ご健勝であられるか?」

 ペルシはわざと堅苦しく尋ねた。

「ペルシ殿、いつこちらへ?」

 表情一つ変えず、レフォールは言った。

 感情表現の鈍さは、この従弟らしさだった。

 堅実、実直、誠実――ローザンブルグの男たちの特徴だ。

「ついさっき。

 父上に挨拶しようと思って、ローザンブルグ城へ行ったら、これを仰せ付けられた。

 おかげで休みなしに、こっちまで来たよ」

 ローザンブルグ一族の特徴からやや離れている青年は肩をすくめた。

「では、お茶の用意でも」

「いや、いいよ。

 裏口から入ってきた分際だから、歓待を受けるわけにはいかない。

 ……茨姫は、こちらだろう?」

 ペルシは父から預かってきた手紙をレフォールに預ける。

「図書館で本を探していたと記憶している」

「勉強とは、面妖な。

 あの人はそういったことが嫌いだったと思っていたよ。

 私がここを離れている間に変わられたのか?」

 ペルシは青鈍色の瞳を見開く。

 茨姫ことラメリーノ・ガレナ・ローザンブルグは、縛られることが大嫌いだった。

 ローザンブルグ娘として生まれ育ったことに反発しているのだろう。

 自由奔放な振る舞いからついたあだ名が茨姫。

 華やかな美貌と刺々しい物腰、まさしく野茨だった。

 もっともペルシの記憶の中には、3年前の姿しかないのだったが。

「心境の変化だそうだ。

 王女が読書家だから、合わせているうちに本が好きになったという可能性もある」

 レフォールは言った。

「肝心なことを言うのを忘れていた。

 婚約おめでとう。

 白薔薇姫は大変お美しく、素晴らしい人柄なのだろう」

「ありがとう」

 嬉しそうにレフォールは笑う。

 次期ローザンブルグ公爵として、気難しい親戚たちに囲まれて育った青年だけに、そういった表情は貴重だった。

「ところで、今日は礼拝堂に立ち寄ってもかまわないかな?」

 ペルシは慎重に切り出した。

「この時間なら、大丈夫だろう」

「ほかの時間はダメなのか?」

「王女が朝に夕に、祈りを捧げている」

「なるほど。

 鉢合わせをして、驚かせてはいけないな。

 奥ゆかしい女性ならなおのこと、茨姫とは違い繊細だ。

 時に神に歌を捧げても平気かな?」

「もちろんだ。

 神もお喜びになるだろう」

「寛大なお気持ちに感謝するよ、マイルーク子爵」

 ペルシは慇懃に礼をした。


 ◇◆◇◆◇


「お嬢さん、どの枝が欲しいんだい?」

 明るい声に振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。

 ガルヴィは驚いて、手を下ろした。

 花のついた枝が欲しくて、必死に手を伸ばしているところを見られてしまった。

「この枝かな?」

 気取りない笑顔を浮かべた青年は、枝にふれる。

 背の高い男性だ、とガルヴィは思った。

「レフォールさまのご親戚の方?」

 そう思ったのは青年の身なりの良さからだった。

 貴族たちが好む長衣に、髪を結わえるのはサテンのリボン。

 それに、蒲公英色の髪に、青鈍色の瞳という色彩は、マイルーク子爵との共通点だった。

「これは失礼。

 私の名前は、ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。

 数多くいる従兄弟の一人だ。

 よろしくね、お嬢さん」

 ペルシと名乗った青年は丁寧に礼をする。

 礼法に則った礼は、王都でくりかえし受けたもの。

「私は、ガルヴィよ」

「ベルシュタイン令嬢?」

「よくご存知ね」

 黒い瞳の乙女は、びっくりする。

「ついこの間まで、王都にいたんだ。

 君はとても有名人だよ。

 それで、どの枝が欲しいの?」

 ペルシは言った。

「その右の枝が欲しいの。

 あ、その枝よ」

「はい、どうぞ」

 青年は花のたくさんついている枝を差し出した。

「ありがとうございます。

 あなたは背が高いのね」

「ローザンブルグでは普通の背丈だよ。

 高いというなら、レフォール殿の方が高いだろう。

 それで、その枝をどうするんだい?」

「リース(花輪)にしようと思っているの」

「作るところを見てもかまわないかな?」

 青鈍色の瞳がガルヴィの持つ枝をじーっと見る。

「ええ、どうぞ」


 礼拝堂の近くにあるベンチに腰かけ、ガルヴィはリースを編み始める。

 こういった作業をしていると、大神殿での暮らしが思い起こされ、しみじみとした気分になる。

 還俗し、侯爵令嬢としての日々は味気ないばかり。

 王女と信仰を語らうとき、神の供物を用意するとき、ガルヴィは光に満ち溢れる気がするのだった。

「リースを作るところを見るのは、久しぶりだ。

 茨姫なんて作り方を知らないんじゃないかな」

「どなたのことですか?」

 少女は問う。

「ラメリーノ嬢のことだよ。

 彼女はとても有名人だから、茨姫というたいそうなあだ名を持っているのさ」

 リースを食い入るように見つめながら、ペルシは言う。

 本当に、リースが珍しいのだろう。

「まあ、そうなんですか」

 少女は華やかな美貌の貴婦人を思い出す。

 人を花にたとえるのは、空恐ろしいような気もしたが、彼女は野茨のようだという印象はあった。

「素晴らしいリースだね。

 リースは神に捧げる贈り物の中で、二番目に素晴らしい贈り物だと思っている」

 ペルシは言った。

「神に捧げるものに、良いも悪いもありませんわ。

 感謝の気持ちがあれば、一輪の花も抱えきれない花束も同じです」

「一番は、歌だと思っているんだ。

 財を持たなくても、祈りと歌だけは捧げられるだろう?」

 青年は熱く語る。

 青鈍色の瞳の輝きは、信仰の光。

 神殿で15年暮らした乙女には、好ましく写った。 

「ええ、そうですわね。

 確かに祈りと歌は、どんな方でも神に差し上げられるものですわ」

 ガルヴィはうなずいた。

「このリースを捧げるとき、一緒に歌を歌ってくれないだろうか?

 神殿で巫女をしていたのなら、聖歌に心得があるだろう?

 合唱を神に捧げてみたいんだ」

「ええ、私でよろしければ」

「良かった!

 なかなか『うん』とうなずいてくれる人がいなくてね。

 むしろ、歌うなという人の方が多いくらいで。

 多少の音外れを許してくれるだろうか?」

 ペルシは懇願する。

「上手いも下手もありませんわ」


 神にリースを捧げた後、二人は聖歌を捧げる。

 信仰の象徴、絶えぬ灯火の中、初めて習う聖歌を歌う。

 技巧がなく、ただ神への愛情を歌うそれは『始まりの聖歌』と呼ばれ、一番初めに教えられる聖歌として愛されている。

 神殿や礼拝堂以外でも、ちょっとした集まりのときに口ずさまれる。

 ガルヴィは歌いながら、光の園を歩いているような気がした。

 まるで大神殿の礼拝堂のように、光が満ち溢れていく。

 完璧に、神への感謝を歌い上げる。

 その傍らの存在に、心が震えた。

 父なる神もお喜びになるだろう、と確信した。

 このように素晴らしい歌声を他に知らない。

 今捧げられている歌を聞く者が他にいないことが悔やまれた。

 歌が終わり、ガルヴィはドレスのポケットからハンカチを取り出した。

 あふれる涙をそれで抑える。

「どうかしましたか?」

 背の高い男性は慌てて腰をかがめ、ガルヴィに視線を合わせる。

「素晴らしい歌声に、感動しました。

 泣き虫なので、すぐに泣いてしまうんです。

 お気になさらずに」

 ガルヴィは涙をぬぐう。

「涙は父なる神が与えた真珠。

 悲しみをぬぐい、苦しみを癒す。

 でも、女性の涙は苦手だ。

 どうしていいのかわからなくなる」

 ペルシは困ったように微笑んだ。

「嬉しいときや、喜びを感じたときにも涙が流れてしまうんです」

 少女は微笑んだ。

 一時的な強い思いにこぼれた涙は、すぐさまおさまる。

「ああ、それなら良かった。

 君に不快な思いをさせたのかと思ってしまった」

「そんなこと、ありませんわ」

 ガルヴィは歌の素晴らしさを伝えようとした瞬間、乱暴に礼拝堂の扉が開いた。

 つかつかと水色のドレスの貴婦人は歩み寄ってくる。

 パン

 乾いた音が礼拝堂いっぱいに響いた。

 突然のことに、ガルヴィは怯えた。

「ごきげんよう、茨姫」

 頬を叩かれた青年は、それでも貴婦人に礼儀正しいお辞儀をした。

「歌うなと言われてもまだ歌いますのね」

 ラメリーノは不機嫌に言った。

「レフォール殿のご厚情に甘えてね。

 3年ぶりですが、あなたの美しさはお変わりないようだ」

「当然でしょう」

「お父上がお帰りをお待ちしていましたよ」

「気が向いたら、帰ると伝えてちょうだい」

「あなたはそればかりだ」

 ペルシはためいきをついた。

「あなたに指図される筋合いはなくってよ」

「確かに、その通りだ。

 伝言は承りました。

 失礼、ガルヴィ嬢。

 合唱をしていただけて感謝しています。

 次……は、なさそうなのがひどく残念だ。

 ありがとう」

 ペルシは優しく微笑んだ。

「いえ、素敵な歌声でしたわ。

 こちらこそ、礼を言わなければなりませんね」

 気を取り直して、ガルヴィは言った。

「言うことなくってよ。

 歌うことを禁じられいたはずよ、ペルシ」

 ラメリーノは苛立ちを隠さずに言った。

「マイルークとローザンブルグと、レインドルクの礼拝堂では歌ってもかまわないとお許しをいただいたんだよ」

「まあ、伯父さま方は心優しすぎますわ。

 それとも耳が遠くなったのかしら?

 どちらにしろ、私のいるところでは歌わないでちょうだい」

「もちろんだとも。

 神に誓ってもいい。

 あなたの機嫌を損ねることが恐ろしいことぐらい、私は昔から知っていますから。

 ではごきげんよう、美しい茨姫」

 ペルシは軽く微笑むと、きびすを返した。

 ガルヴィは何とも言えない気分になった。

 目の前で人が叩かれた。

 体罰として存在していることを知ってはいたが、大神殿では見たことがなかった。

 ラメリーノという女性は、気高さと芯の強さを兼ね備えていると思っていたので、感情に駆られてそんなことをするとは。

 見たばかりのことを信じられなかった。

「私はペルシの歌が嫌いなの」

「光に満ちた声でした」

 ガルヴィは事実を告げる。

「でしょうね。

 だから、嫌いなのよ!」

 ラメリーノは言い切った。

 理解できない言葉に、ガルヴィは指で祈りの形をつくる。


 

 それから、3日後。

 ガルヴィは忘れることのできない一連のことに、ためいきをついた。

「父たる神よ。

 光たる方よ」

 礼拝堂で祈りを捧げながらも上の空になる。

 そんな気持ちのまま神の御前に立つのは、良くない。

 敬虔な少女は鬱々とした気分で、礼拝堂を出た。

「ごきげんよう、ガルヴィ嬢」

 光あふれた世界の中、ペルシが立っていた。

 太陽が大地を盛んに愛する季節。

 そのまぶしさに、ガルヴィは目を細めた。

「……あ、ごきげんよう。

 その、お怪我は……」

「音の割りに、痛みは少ないんだ。

 あの派手な音は精神にくるけどね」

 ペルシは微笑む。

 良かった、と純粋に思えなかった。

 人を叩くということは、良くないことだ。

 叩く方も、叩かれた方も、悲しい。

「ところでためいきの理由は、私だと自惚れてもいいのかな?」

「半分は、そうです。

 歌をお嫌いだなんて、ラメリーノさまがかわいそうだと思ったんです」

 少女は言った。

「嫌いなのは、私の歌だけだよ。

 しかも、私の歌を嫌いな女性はたくさんいる。

 少し散策しないか?

 茨姫に見られたら、君まで怒られてしまう」


「光に満ちた声だと思っています」

 ガルヴィは歩きながら言った。

 森の中は静かで、時が止まっているような錯覚に陥る。

 舗装された小道は、人が入っている証なのに、ここは神の域のようだった。

「最高の賛辞だね。

 嬉しいよ」

 ペルシはにこにこと言う。

「神の御傍にいるような気がしました」

「それが、気に入らないんだろう。

 ここは王都と違って、保守的なんだ。

 君の目には奇異に映るかもしれない」

 仕方がないことなんだ、とペルシはつぶやいた。

 どんな気分だろうか。

 神に捧げる聖歌を歌うなと言われるのは。

 それが当たり前だということは。

 ガルヴィにとって、それは苦痛だ。

「ペルシさま……」

「ありがとう。

 でも、歌うのを禁じられたわけじゃない。

 マイルークとローザンブルグと、レインドルクの礼拝堂では歌ってもかまわない。

 その、彼女たちが……いないときは。

 昔は好きなだけ歌って、その度怒られたよ」

 ペルシは己の首筋をふれる。

 青鈍色の瞳がかげって見えた。

「でも、もう大人だからね。

 そんな無節操なことはしない。

 やはり、誰かに不快感を与えるのは、好ましくないしね」

 青年は顔を上げ、明るく言った。

 不快感という単語に、ガルヴィは反応する。

 自分の妹のように愛しい、けれども敬愛する王女を思い出す。

 人目を気にして、万事控えめに振舞う姿は悲しい。

 神はあるがままを良しとする。

 誰かのために自分の生き方を捻じ曲げるのは、神の望みではない。

 光に向かい、未来に向かうために、人は顔を上げるのだ。

「それよりも明るい話をしよう。

 私は礼拝堂の脇に必ず植えられる林檎の樹がいたくお気に入りなんだ」

 ペルシは先が気になるような口ぶりで語る。

「どうしてですか?」

「秋になると美味しい実をつけるだろう?

 神にまず捧げてから、その林檎を厨房で焼いてもらうんだ。

 焼き林檎を食べるたびに、神に感謝するんだ。

 おお、神よ。

 我に焼き林檎を与えてくださるとは、なんと慈悲深い。ってね」

 芝居がかったしぐさでペルシは言う。

「まあ」

 秋が来るたびにくりかえされるだろう光景に、ガルヴィはふきだす。

 自分より二つか三つ年長の青年が、子どものように焼き林檎を楽しみにしている。

 焼き林檎は、貴族が好んで食べるような嗜好品ではない。

 秋が来れば誰でも口にするものだった。

 平民にとっては、たまの贅沢。

 子どもにしてみれば、秋の楽しみ。

 そんなものを貴族の青年が楽しみにしていることがおかしかった。

「ガルヴィ嬢は焼き林檎を食べたことは?」

「もちろん、あります。

 でも、そんなに楽しみにしたことはありません。

 神殿で楽しみだったのは、黄色いオムレツでした。

 朝食にオムレツが出る日は、一日が素敵に見えました」

「慎ましやかな幸福だ。

 還俗した今は、毎日幸せかな?」

 ペルシは尋ねる。

「私は貴族の娘なんだ、と毎朝確認しています」

 ガルヴィは答えた。

 テーブルに、オムレツが出るのは当たり前のことだった。

 どんな末端の貴族であっても、平民と比べるまでもない贅沢の中で生きている。

 毎朝のオムレツは確かに嬉しいけれど、失ってしまったものもあるような気がした。

「還俗を悔いてるような口調だ。

 神官に代わって、悩みを聞こうか?」

「いいえ。

 これも神が与えてくださった試練だと思っています。

 運命を受け入れます」

 少女は真剣な面持ちで言った。

「君はいまだ神殿の巫女のようだ。

 とても素敵だ」

「誰の胸にも、信仰はあります。

 ペルシさまのお心の中にも。

 人の子はみな素敵なものです」

 ガルヴィは言った。

 ペルシは何も言わずに微笑みを返した。



 それから、ペルシは度々、ガルヴィを散歩に誘った。

 城壁代わりの森を散策したり、すこし遠出して湖を見に行ったり。

 デートと呼ぶには愛らしい、そんな時間を共有した。

「最近、楽しそうですね。

 何かいいことがあったんですか?」

 無垢な瞳を持つ王女が尋ねるまで、それほど時間を必要としなかった。

「え……あ、その」

 ガルヴィは困った。

 ペルシの話をしてもいいのだろうか。

 見知らぬ男性の話だ。

「礼拝堂で会った方、時折……お話をしているんです」

「その方は、篤き信仰をお持ちなのですね。

 とても嬉しそうにしているから」

 セルフィーユは言った。

「はい。

 とても深く神の教えを従っている方です。

 それ以上に、俗世のことをご存知で。

 素晴らしいバランス感覚をお持ちなんです。

 見習うところがたくさんあります」

「ガルヴィが幸せそうで、私も嬉しいです」

 セルフィーユは微笑んだ。

「私も王女が幸せだと、嬉しいです。

 すっかり健康になって、本当に嬉しいですよ」

 ガルヴィは言った。

「ありがとう、ガルヴィ。

 一緒にローザンブルグに来てくれて……。

 本当に感謝しています」

「もったいないお言葉です。

 姉妹のように育ったんですもの。

 王女が嫁ぐ日まで、何があっても離れません」

 心からの願いだった。

「ありがとう」

 もう一度、王女は言った。


 ◇◆◇◆◇


「とうとう紋章入りだ、レフォール殿」

 ペルシはためいき混じりに、執務机の上に置いた。

「叔父上は、だいぶ怒っているようだな」

 レフォールも手を休めて、手紙を受け取る。

「だいぶじゃなくて、めちゃくちゃ怒ってますよ。

 彼女は美しくも若いローザンブルグ娘。

 早く夫を決めなきゃいけない」

 青年は長椅子に腰を下ろす。

 結婚を急ぐのは、周囲のためでもあるし、娘自身のためにもなるからだ。

 貴族としての世間体のためでも、政略のためでもない。

「それなのに、彼女ときたら、あちらこちらへ。

 ああ、ここだけじゃないんだよ。

 ローザンブルグ城以外を点々と渡り歩いているんだ。

 あまりの腰の据わらなさに、みなハラハラしてる」

「ペルシ殿は?」

 聖王妃アネットと同色の双眸がペルシを見つめる。

「どっちでもいいかなぁ、って思ってる。

 もともと縛られるのを好む人間じゃないし」

 ペルシは首筋にふれる。

 ラメリーノ嬢は憂鬱の原因だった。

 彼女の前では歌えない。

 自分の歌が神に近しいのは知っている。

 それがローザンブルグ娘に、大きな影響を与えることも知っている。

 聖リコリウスが神から授けられたのは、御印の赤痣だけではない。

 時に天候まで左右させる大いなる力。

 それを封じることができるのは、神の御前である礼拝堂。

 あるいは、大神殿やローザンブルグ城だけだ。

 生れ落ちたときから手にしていた力は、3年たっても変わらない。

 ペルシの力は衰えない。

「それに、美しきローザンブルグの夏は、楽しまないとね」

 顔を上げ、ペルシは明るく言った。

「それでペルシ殿はかまわないのか?」

「ローザンブルグ娘の前では、男というのは哀れなものだ。

 それであの人の気が晴れるなら、かまわないよ」

 自嘲気味にペルシは微笑んだ。

「前の手紙にあったのだが、結婚されるというのは?」

「ああ、それ?

 父上もうるさくてね。

 そろそろ折れようかと思っている。

 王都から帰ってきたのも、そんな理由だよ」

 ペルシは言った。

 歌を歌えないなら、どこにいても同じだ。

 王都だろうと、ローザンブルグだろうと、みな同じ。

「結婚は、献身と互いの愛で成り立つと思っている。

 愛のない結婚は不毛だ」

 レフォールは言った。

 青年の立場を考えると、あまりに悲しい言葉だった。

 マイルーク子爵は、王命で愛のない結婚を強いられる。

「王女さまと仲良くなれそう?

 公爵が気にしていたよ」

「まだ、未来がある」

 レフォールは言った。

 それが落ち込んで聞こえたのは気のせいではないだろう。

 思うほどに思い返してもらえない。

 そんなこともある。

 仕方ないと割り切れるほど、単純な事柄ではなかった。

「そうだね。

 レフォール殿、私にも未来はあるんだ」

 ペルシは泣きたい気分で微笑んだ。



 いつものように、礼拝堂脇でたたずむ人影に声をかけた。

 子リスのように愛らしい乙女と会話するのは、心弾むことだった。

 彼女は、ローザンブルグ娘ではない。

 ペルシを毛嫌いしたりはしないのだ。

 嫌われない。

 たったそれだけのことが嬉しかった。

 歌を褒めてくれた。

 たったそれだけのことが、涙が出るほどに嬉しかった。

 神殿で巫女をしていただけあって、その言葉は公平で、温情にあふれていた。

 きっと還俗を惜しんだ者も多かっただろう。

 吟遊詩人が語る聖王妃よりも、噂話だけの白薔薇姫よりも、ずっと素晴らしく思えた。

 湖のほとり、二人は涼を求めて座る。

「ペルシさまは、いつも暑そうな格好ですね。

 そのように襟の高いお召し物で、暑くないんですか?」

 ガルヴィは尋ねる。

「王都に比べたら、まだ涼しいから。

 慣れてしまったよ。

 それにきちんとしていないと、従弟殿からも怒られてしまう。

 レフォール殿は、厳格だ」

 次期ローザンブルグ公爵にふさわしい従弟だった。

 羨望と軽い嫉妬を覚える。

 自分は従弟のように振舞えないから、諦めにも似ている。

「私は長いこと、ローザンブルグの人は寡黙だと思っていました。

 マイルーク城にいる方々は、仕事熱心で、私語をなさいません。

 大神殿よりも静かですから、そうだとばかり思っていたんです。

 でも、ラメリーノさまもペルシさまも、お話し上手で驚いたんです」

 乙女はクスクスと笑う。

「土地柄かな。

 嘘をついたり、隠し事をするのが苦手な人が多い。

 私は数少ないその例外なんだけどね。

 どうしても、本当のことを話せないときに有効なのは沈黙を保つことだ。

 マイルーク城は、身元のきちんとしている人間しか雇わないから、職業意識が高いんだろう。

 レインドルク城はにぎやかだよ。

 城主のリーク・スコレス・ローザンブルグが話し好きなんだ」

 ペルシは言った。

「確か、歌を歌っていい城でしたね。

 マイルークとローザンブルグと、レインドルク」

 歌うように乙女は数え上げる。

「レインドルク城に行くと、歌うどころじゃなくなってしまう。

 みな話し好きだから、ついつい話し込んでしまうんだ」

「それでは本末転倒ですわ」

 ガルヴィは楽しげに笑う。



 夏の終わり。

 マイルーク城では、パーティが開かれた。

 白薔薇姫の16歳の誕生日。

 髪に真っ白な薔薇を飾った少女は、美しかった。

 エレノアール王国の真珠と呼ばれた聖王妃アネットのように。

 清らかで、可憐な姿。

 その傍らに立つマイルーク子爵は、幸せそうだった。

 それを見て、ペルシも微笑んだ。

 始まりはどうあれ、周囲の思惑はどうあれ、二人は幸福な婚約者であった。

 従弟の幸せな姿を見て、安心して、ペルシはパーティ会場を抜け出した。

「どちらへ行かれるおつもり?」

 冷水をぶっかけられたような気分になる。

 一番会いたくなかった人物に、こんなときに会ってしまうとは。

 ペルシは笑顔を作り、振り返った。

 麗しき茨姫がいた。

 珍しくベールを被っているのは、今日はうるさ型がいるためだ。

「外の空気を吸おうと思って」

「あら、そうなの。

 少しの間、お待ちになってくださる?」

 貴婦人らしい命令に、ペルシはうなずいた。

「そうね。

 これが邪魔だわ」

 ラメリーノはペルシの長衣のボタンを外す。

「何を!」

「いいから、黙って」

 すべてのボタンを外し、ラメリーノは長衣を脱がそうとする。

 ペルシは、その手をつかむ。

「いったい、どういうおつもり――」

「ラメリーノさま、どんなご用件ですか?」

 ガルヴィが小走りで近寄って、足を止める。

 乙女は顔色をかえ、息を呑む。

「これは、その」

 ペルシは弁解しようとするが、ガルヴィは首を横に振る。

「そんな……、その痣は」

 乙女のつぶやきに、青年は気がつく。

 彼女が気にしているのは、二人の関係ではなく、自分の首筋にある赤痣だ。

「王女と」

 本当に小さい声だった。

「ええ、同じものよ。

 これは神のくださった聖徴。

 ローザンブルグの秘されたる恩寵よ!」

 高らかにラメリーノは告げ、ベールを取る。

「なんてことをするんですか!?」

 ペルシはラメリーノの手を払う。

「ガルヴィ嬢、今見たことは忘れるんだ。

 君は何も見ていない。

 君は何も聞いていない。

 約束してくれ」

 痛いほどの視線だった。

 黒い瞳は、射るように真っ直ぐとペルシを見つめる。

「あら、欺瞞よ。

 彼女は王女の着替えを手伝っているんですもの。

 遅かれ、早かれ、この事実を知ったわ!」

 ラメリーノは言った。

「だからと言って、一族の集まる場所でこんなことをしたと知れたら……。

 彼女の自由は失われる」

 ペルシは焦る。

 聖リコリウスが神から授かった赤痣の秘密を守るため、ローザンブルグ公爵家は存在している。

 赤痣を持たない者には、秘さなければならない。

 たとえ、どんな手段を使っても。

「時は戻らない、ペルシ殿」

 一番聞きたくない声だった。

 ローザンブルグ公爵その人の声に、ペルシは口を引き結んだ。

「私の落ち度です。

 ガルヴィ嬢には何の罪はありません」

 ペルシは言った。

 この言葉にどれほどの意味があるだろうか。

 青年にはわからなかった。


 ◇◆◇◆◇


 時間が凍ってしまったようだった。

 ガルヴィは座り心地の良い椅子に腰掛けながら思った。

「この秘密は、守り通さなければならない。

 そのために私たちは存在している」

 公爵ソージュは言った。

「今見たことを、誰にも話しません。

 一生秘すると誓いを立てます」

 ガルヴィは言った。

 王女に関する秘密であるというなら、たやすいことだった。

「沈黙の誓いを立てるだけでは足りない」

 ソージュは言った。

 ガルヴィはひざの上の指を組む。

 神に祈りを捧げるときのように、きっちりと。

「私の命であがなうことができるでしょうか?」

 声が震えないように気をつけて、ガルヴィは言った。

「悲壮な覚悟だ。

 昔であれば、そうしていたところだろう。

 だが、今のご時世に合わない。

 ベルシュタイン侯爵令嬢が突然亡くなったら、大騒ぎだ」

 ソージュは言葉を切る。

 ためいきを一つつき、椅子に座る青年を見やる。

「そこに私の甥がいる。

 ペルシ・サルファー・ローザンブルグ。

 もう、お知り合いかな?」

「はい」

 ガルヴィはうなずく。

「どうだろう?

 彼はなかなかの好青年だ。

 王都に3年ほどいたこともあって、片田舎に不釣合いなほど垢抜けている。

 場を和ませることも得意だし、歌も得意だ。

 彼と結婚すれば、ガルヴィ嬢もローザンブルグ家の一員だ。

 ローザンブルグの秘密を知っていても、なんら不思議はない」

「伯父上。

 愛のない結婚は不毛だと口ぐせのように、おっしゃっていたあなたが……!

 どうして、そんなことを……おっしゃるのですか?」

 ペルシが口を挟む。

「ラメリーノが、あの場で、あんなことをした意味を私なりに考えたんだ。

 あの娘は賢い。

 ローザンブルグの秘密を話すのに、どうしてペルシ殿を利用したのか?

 ラメリーノにも聖徴はある。

 話すだけなら、自分自身で事足りるのだ」

「……それは」

「あの娘なりの優しさではないだろうか。

 この後は、良く話し合いたまえ。

 無駄に血を流したくはないのだがね」

 ソージュはそう言うと、立ち去った。

 居心地の悪い沈黙が漂う。

「光と共に、光と共に。

 神は常に傍におられる。

 我と我らを見守られている」

 口について出たのは、聖典の一くさり。

 ガルヴィは心が光で満ちたような気がして、ほっと一息つく。

「受難の第三場だ。

 そう言いながら天を見上げると、空はにわかに晴れ渡り、大地は光に満ちた。

 嵐は唐突に去り、王は旅を続けることができた。

 …………君にとって、これは嵐だろう」

 ペルシは小さく笑った。

「神が与えたもうた試練であるならば、お受けいたします。

 この世にあるすべての事柄は、神が私のためにご用意なされたものです。

 別れも、出会いも」

 ガルヴィは言った。

 心が澄んでいる。

 ガラスのように透明になって、光を受けている。

 恐怖は静かに凪ぎ、信仰の炎が強く輝く。

 どんな運命も受け入れられる。

 死は神の御元へ行くだけのこと。

 恐ろしいことではない。

「歌を褒められたのは、初めての経験だったんだ」

「とても素晴らしい歌でしたわ。

 もっと自信をお持ちください」

 礼拝堂で聞いた歌を思い出し、ガルヴィは言った。

 心が光でどんどん満たされていく。

「だから。

 こんなことを頼むのは……君を馬鹿にしているようだ。

 それでも、言わずにはいられないんだ」

 ペルシはガルヴィの傍にひざまずくと、その手を取った。

「私の妻になってくれないか?」

「え」

 死を覚悟していた乙女は驚く。

「君に死んで欲しくないんだ」

 青鈍色の瞳は、真剣だった。

「愛のない結婚は不毛だ、と……」

 ガルヴィはつぶやく。

「伯父上の意思は岩よりも強固だ。

 君の愛を得られなくても、君が死ぬよりはマシだ」

 ペルシは言った。

「どうしてですか?」

 生まれて初めて聞く求婚に、声が震える。

 突然ことに驚いているし、真剣な眼差しに見つめられることに慣れていないからだ。

 でも、それだけではない。

 頬が熱くなるのを感じる。

 目が潤むのを感じる。

 泣き出してしまいそうだった。

 死を覚悟したときには零れなかった涙が、今は零れ落ちそうだった。

「君を愛しているからだ」

 青年は簡潔に言った。

「マイルークとローザンブルグと、レインドルク。

 この3つの城の礼拝堂は、歌を歌えるんですよね。

 また、歌を聞かせてくださいますか?」

「もちろんだ。

 君が飽きるまで、何度だって歌う」

 青年はパッと顔を輝かせる。



 それから数日後。

 レインドルク伯爵公子とベルシュタイン侯爵令嬢の婚約が整った。

 この婚約の立役者は、レインドルク侯爵令嬢ラメリーノ・ガレナ・ローザンブルグだという噂が真しやかに流れた。

 真偽は、神のみぞ知る。

『神の印』シリーズになります。

ペルシの姉である茨姫ことラメリーノ恋愛模様は『ローザンブルグの嵐』にて。


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『神の印』シリーズになります。 ペルシの姉である茨姫ことラメリーノ恋愛模様は『ローザンブルグの嵐』にて。
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