Act.4 ―Eine Kiste “正義と悪”―
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世界にいる人間はいつだって盲目だ。
自分の信じたもの、知っている世界、つまり常識をもって生きている以上、世界を見るとき必ずフィルターを通す。
見たいもの、見たくないもの。常識、非常識。
つまり人間と言う生き物は経験や知識から繋がる既知の中でしか生きられないと言っても過言ではない。
未知というものに遭遇したところで、『遭遇する』といった事実がある以上、『未知だが既知』と言った事になりうるのだと思う。
本当に未知のものというのは『存在が理解が出来ない』モノに等しい。
理解に至らないと言うことはつまり遭遇したと言う事実ですら適切ではないものに成り代わる。
世界を見ているんじゃない。俺達はいつも俺達を見ているんだ。
常識や事実と言うものは常に眼を曇らせ、時として経験したことすらも歪めてしまう。
ゆがんだ結果、個人としてはそれは全く正しいものへと変化する。
つまるところ、経験と言う身を伴った記憶や知識の一部すらも常識と言うフィルターを通されてしまうのだ。
じゃあ記憶喪失の場合はどうなるのか。
常識の一部が欠落してしまえば、その分純粋に世界を見ることが出来るだろう。
まっさらな状態になってしまえば見るものは全て世界そのものだ。
だが、そこから得られるものは純粋であるが故に、全てが美しく透明だ。
記憶や経験として蓄積されては行くが、そこには正負の感情は存在しない。
あるものをあるがままに受け止めると言うのは少し寂しいことだと思う。
何が正しくて、
何が間違っていて、
何が正義で、
何が悪で。
価値観と言うものがあるから常識に囚われていても世界を感じることが出来る。
人それぞれで譲れないもの。だが、理解や共有は出来るもの。
そうやって個人の世界は少しずつ広がっていく
「価値観の違い」と言う言葉一つで理解を放棄した人間と言うのは歴史的に見ても害悪でしかない。
なら、そもそもの『価値観』が存在しない存在と言うのは、個人の世界にどういう影響を与えるのか。
ただ、人を殺すだけの『殺戮機械』“天使”と呼ばれる存在。『M地区天使特例法』。
日常や生命を脅かすといった意味で存在は悪かも知れないが、その行動、作った人間には『意図』があるのだろう。
意図を理解しようとしたのは“間違いじゃなかった”。
お陰で世界の仕組みと言うのが理解できたから。
何が正義で何が悪かなんて、世界規模の話になっても本当に小さい世界の常識で簡単に決まってしまうものなんだ。
◆
風を切る音は高く、口から出る白い息は一瞬のうちに後方に流れていく。
足は感じる焦燥感から逃げるように地を蹴る。
“今、天使に見つかってはいけない。”
一対一なら何とかなると考えていたが、今度は一人は戦えない二対一。護る戦いは経験したことがない。
自分のマホウは護る戦いも出来るような性質ではあるのだろうが、そういう遣い方をしたことがないのが事実。
奇襲的な攻撃から強襲的な攻撃や、トラップワーク等はすぐに思いつくと言うのに、その戦術にはエイダは存在していない。
他人の動きというのは大きく計算を乱す。相手方なら問答無用で締め上げればいいのだが、そうも行かない。
脳の演算能力を上げ、高速思考をしたところで時間と情報があまりにも少なすぎると言うのもある。だから――。
「出たとこ勝負で何とかするしかないよな。」
「何か言った?」
考え事をしている時に出る独り言に反応が返ってくる。久しくなかった状況に少し頬が緩んだ。
「何でもねぇよ。」
緩んだ顔を見せないようにしながら彼女の耳に届くように声をかけた。
見慣れた景色が増えてくる。
巣の近くに着くと大きく息を吐いた。緊張で呼吸が浅くなっていたのだろうか、深呼吸をすると一瞬筋肉が弛緩したように思ったが気のせいのようだ。
異常は――無い。
「到着だ。ボロで悪いがココが俺の『巣』だ。」
「ここがカインの『巣』?……道端に寝泊りするなんて、隔離街ってホント酷い所ね。」
「……この廃ビルの10階に――」
巣の下でカインははたと気付く。巣があるのは10階。階段は10階まで繋がっていない。――そしてエレベーターは動いてすらいない。
跳躍して巣に戻らないといけないからエイダを抱えて飛ぶ必要がある。体つきを見るに最大50キロ位と見て問題が無いことを確信する。
そして一つの違和感。
自らの身体能力。“マホウ遣いだから”常人とはかけ離れたものを持つ。ならば――
“なぜ、彼女は自分の全速力について来れたのだろうか”
罪の知覚、認識が出来なければマホウは発現しない。つまり、罪を忘れていると言うことは“マホウ遣いではない”のだ。
しかし、『常時発現型』なら一度発現してしまえば再形成する必要が無いから忘れても問題が無いのか?
それに、忘れていても、一度認識すれば“発現条件が難しいマホウ遣い”となって基本の能力は使えたり…。
いや、でも……。
混乱してきたカインは頭を掻きむしりながら「うーっ」と低く唸る。
「え、あ、冗談だよ。冗談。」
さっきの自分の台詞がカインを悩ませているのか、冗談が通じなかったのかと大きく勘違いしながらエイダはカインに声をかける。
「でもでも、ホ、ホントに廃ビルなんだね。本の中の秘密基地みたいで素敵――。」
「エイダッ!」
「ハイッ!」
早口で紡がれるフォローの言葉をカインの呼び声が打ち切る。
間髪入れずに返事をしたエイダはカインの顔の見ずに「どうしたのですか?」とビルの柱に向かって話す。
「お前さ、よくついて来れたな。」
「……何の話ですか?」
「俺の……“マホウ遣いの全速力”によくついて来られたな。」
カインと眼をあわすと、カインは思案顔ではあるものの怒ってはいないようだ。
「ほっ」と息をつきながら「ついていくのに必死だったからよく分からなかったけど、頑張ったよ。私。」と返す。
ついて行くのに必死で、でもちょっと楽しくて。そんなことしか覚えていないから、どうだったかなんて伝えられない。
「そりゃ頑張ったんだろうが、頑張ってどうにかレベルじゃないんだ。もしかしたら、マホウ遣いなのかもしれない。」
「うーん、どうなんだろう。」エイダは困惑しながら「忘れててもマホウって遣えるんじゃないのかな?」とカインと同じ考えを口にした。
前例を知らないから、この仮説を試してみるしかないわけだ。
「10階まで階段が繋がっていないんだ。跳べるか?」
「いつもそうやって出入りしてるの?」
「あぁ。」
「分かった。やってみる。」
「じゃあ、俺が先に行くから、俺を目印に跳んで来い。いいな。」
「了解です。」
エイダの声を聞いて、両脚に力を溜め一気に跳躍する。風切り音と共に景色が下へと流れていく。
頂点に達し、一瞬の静止と浮遊感の後いつものようにベランダへと着地し地上のエイダへ手を振る。
手を振り返したエイダは一瞬の間の後跳躍をする。
軽い着地音と共にベランダへ着地して、エイダはシスター服の裾を押さえた格好のまま「跳べた!」と笑みを浮かべた。
「そうだな、お前やっぱり――。」
マホウが遣えるのかも知れない、といった声はいつの間にか近づいていたエンジン音と上階が破壊される音で掻き消える。
爆発音にも似た大きな音、コンクリートと鉄筋が破砕される衝撃と震動がカインとエイダを襲う。
一瞬にして震動は収まり、残ったのは視界を塞ぐ砂煙と、偶然カインの『巣』で止まった破壊音の原因。
砂煙が薄くなってクリアになった視界にあったのは――『No.7アルケー』と刻まれた“天使の箱”だった。
『Principality』――権天使。天使の位階では七番目に当たり、天使、大天使の上位に位置している。下位三隊の最上位。
なるほど、やはり『天上位階論』に倣っているということか、とカインは思いながら普段寝ている所に鎮座している箱を睨み付ける。
『天上位階論』――全ては一なるものから生まれたと言う思想と、存在には階層が存在しているという考え方に基づいて作られた派生思想。
人が神になるためのヒエラルキア。原初への回帰。位階は秩序であり、知識であり、活動。
上位の存在は下位へと指令と神託を授け、徳を積んだものはさらに上位へと導かれる。
位階は支配の為ではなく、存在が違う為分けられているのだと言う。
この街の構造にも似ているなとカインはシニカルに口元を歪めた。
まだ電飾は赤い。暫しの猶予はあるらしい。
おそらく隔離街――いや、汚染地域の中層や下層へは逃げられない以上、M地区全体が危険になってしまっている状況。
街の柱である塔の内部を通る中央エレベーターに乗って他の区画に逃げない限り、どこに行っても状況は好転しないだろう。
そして中央エレベーターはいつもの警備レベルじゃないのは容易に想像できる。
なら、目の前の障害を排除するのみ。
カインの気配が変化したことにエイダは気がついた。先ほどまで纏っていた不器用ながらも暖かい気配が反転してしまったかのように冷たく鋭い。
それは、明らかな殺意――。
「“Yetzirah”そこから動くなよ。」
砂煙が晴れ、電飾の色は赤から緑に変化する。
マホウを展開しながら肩越しにエイダを見ると心配そうに見つめる瞳と目が合う。カインは口元に笑みを浮かべて「すぐに終わらせる」とエイダに言う。
「分かった……死なないでね。」
「あぁ、当たり前だ。」
カインは“敵”を見据える。エイダをベランダに残し、『形成』をしながら室内へと足を踏み入れた。
ベランダと室内の境、元々窓があったところにカモフラージュ用の“可視”の糸を密度高く編み上げ“壁”を作る。室内から外を見ることは出来なくなった。
これで“天使”がエイダに気付くことは無いだろう。
箱を中心に“不可視”の糸を室内に張り巡らせ天使の出現に備える。
奇襲の準備が整う。呼吸、心拍共に問題ない。身体には高揚感にも似た感覚があるが、戦闘には必要なもの。
箱ごと破壊してしまうことも考えたが、“中身”の強度が分からない以上余計な事はしないほうがいい。
期待しているわけではないが、“もしかしたら”中に女の子が入っていると言う可能性も捨てきれない。
“敵”が人間なら何か意図があり、付け入る隙が生まれるもの。価値観をぶつけ合うことで見えてくるものも少なからず存在する。
だが、機械となるとその意図が隠れてしまい、“ソレ”自体に思惑はない。戦ってもそこに残るのは虚無感と残骸。なんて非生産的な行い。
殺しでも、戦いでも無く、実行する物とそれの破壊。
前者二つには『理由』と『結末』が用意されているが、後者には正義も悪も無い。
良くも悪くも“隔離街の日常”というのは確かにあって、どんなに腐っていようがそれはとても人間らしい事だと言うことを今更ながらに思う。
だが、日常は変質した。
雑念から思考を戻し、箱の挙動を注視する。呼吸一つと共に眼を細めると同時に、箱から空気の抜ける音。
ゆっくりと扉が開き、ドライアイスで作られたような空気より比重の重いスモークがあふれ出す。
“異常”は二度は続かない。
中にいたのは紛れもなく死を運ぶために作られた“天使”だった。