05
VIP席で取り巻きと飲んでいた御子柴健が、フロアで異彩を放つミズキに気づいた。
彼はグラスを片手に、獲物を狙うような目つきで近づいてきた。
「やあ。見ない顔だね。この店のランクに合う女性は少ないから、すぐ分かるよ」
ミズキは振り返り、冷ややかに微笑んだ。
「……そう」
その塩対応を「駆け引き」と勘違いしたのか、健はさらに距離を詰めてくる。
「僕、ここらじゃ顔が利くんだ。VIP待遇なんだよ。叔父が有名人でね、御子柴蔵人って言うんだけど」
健は得意げに、叔父の名刺代わりの名前を出した。
「その名前を出せば、どんな扉も開く。君みたいな素敵な女性を、芸能界の裏側に招待してあげることもできるよ」
健は薄っぺらい笑顔で、ミズキの腰に手を回そうとした。
「どう? 『御子柴』の甥である僕と、楽しいことしない?」
その時、フロアの奥から久我が戻ってきた。
ミズキは健の手を避けることもなく、ただ興味なさそうに視線を逸らした。
「ごめんなさい」
「は?」
「叔父様が偉大なのは知ってるわ。……で? その名前を剥がしたあなた自身は、一体何者なの?」
健の笑顔が凍りつく。
「悪い、待たせたな」
落ち着いたバリトンボイスが割り込んだ。
厨房の方角から戻ってきた久我だ。彼は健の存在など眼中にないかのように、自然な動作でミズキの腰に手を回した。
「裏のVIPルームは満席だったよ。……まったく、退屈な夜だ」
「あら、おかえりなさい」
ミズキの声色が、瞬時に華やいだものに変わる。彼女は健からふいっと視線を外し、久我だけに艶やかな微笑みを向けた。
健が呆気にとられる中、久我は軽く左肘を曲げて差し出した。
ミズキはその上に指先を乗せるように、そっと手を添える。
「行きましょ。ここ、他人のふんどしで相撲を取る人が多くて、空気が薄いわ」
「……手厳しいな」
久我は肩をすくめ、健を一瞥もせずに歩き出した。
二人は呆然とする健を残し、背を向けて立ち去る。
残された健は、自分の存在を完全に見透かされた屈辱に、顔を歪めてグラスを握りしめた。
◇ ◆ ◇
翌朝。神楽探偵事務所には、ソースの焦げた匂いが充満していた。
ミズキは昨夜の美女の面影など微塵もなく、伸びきったTシャツ姿でカップ焼きそばをすすっていた。
「間違いないわ。ホステスの証言通りよ」
ミズキは箸を止めずに言った。
「パーティを中座して戻ってきた時、健からは異常なほどの香水の臭いがした。シャワーを浴びてさっぱりした様子じゃなく、ただ『臭い』を上塗りした感じ」
「隠したかった臭いがあるってことか」
「ええ。たとえば、乾く暇もないほどにかいた、強烈な生の汗とかね」
郷田はテーブルに広げた地図データを指でなぞった。
「奴が姿を消していたのは約35分。その間に、汗だくになるほどの何かをした」
「35分あれば、女と寝るか……あるいは『全力疾走』だ」
久我が地図上の二点、会員制クラブと殺害現場のマンションを指で結ぶ。
「直線距離で約2キロ。往復4キロ……。移動して、殺して、戻ってくる?」
新田が首を振った。
「無理です。いくら何でも時間が足りない。それに移動手段がありません。ウロボロスのログでは、タクシーも公共交通機関も使っていないんです。走って移動したとしても、Nシステムや防犯カメラに一度も映らずに移動するなんて、ステルス迷彩でも着なきゃ不可能です」
「公道を走ればな。だが、地図に載ってない道ならどうだ?」
久我はタバコの煙を吐き出しながら、大通りを避け、ビルの裏手や路地裏を縫うような歪なラインを指で引いた。
「AIは『道路』を見るが、獣は『隙間』を通る。……行くぞ。奴のランニングコースをなぞる」
◇ ◆ ◇
昼下がりの繁華街。
郷田たちは、会員制クラブ『VELVET』の裏手に広がる薄暗い路地裏に立っていた。表通りの華やかさとは対照的に、エアコンの室外機とゴミ箱がひしめく場所だ。
「ここだ」
久我が指差したのは、クラブの非常口から数メートル離れた、古い雑居ビルの通用口だった。
「鍵は壊れてる。ここなら誰にも見られずに忍び込める」
中に入ると、一階の配電室のようなスペースがあった。埃っぽく、人は寄り付かない。
「ここでタキシードからランニングウェアに着替えたのか」
郷田が配電盤の陰を覗き込む。
「ああ。事前に荷物を配置しておけば、着替えは1分で済む。ここを出て、闇に紛れて走れば、クラブの客には気づかれない」
「でも、ここから現場のマンションまでは……」
「片道2キロだ。キロ3分で走れる脚があれば、6分で着く。往復で12分。犯行と現場工作に使える時間は残り23分。……十分だろ」




