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警視庁地下二階、AI監査室。
窓のないその部屋は、巨大なサーバーの排熱と、空調の低い唸り声に支配されていた。
無機質な鉄扉が開き、御子柴健が入ってくる。弁護士の姿はない。
「わざわざ呼び出して何の用だ? 『捜査終了』のハンコを押した通知書をくれるんじゃなかったのか?」
健は不機嫌そうに言ったが、その表情には余裕があった。
ウロボロスが「シロ」と判定した以上、人間がそれを覆すことは不可能に近い。彼はこの呼び出しを、負け惜しみの儀式程度にしか思っていないのだ。
「ああ、ハンコを押す前にな、最後にちょっと確認したいことがあってな。座れよ、VIP席だ」
郷田はパイプ椅子を足で蹴り、部屋の中央へ滑らせた。
◇ ◆ ◇
「手短に頼むよ。この後、パーティがあるんだ」
健が足を組むと同時に、新田がメインモニターに映像を映し出した。
雨上がりの夜。路肩に停まった配送車の、黒いリアウィンドウ。
「これを見ろ」
郷田が指差す先、黒いガラスの反射の中に、小さな人影が映っていた。
ビルの屋上からマンションの非常階段へ。人間離れした跳躍を見せる「幽霊」。
「お前は地図にない獣道――屋上ルートを飛んだ。この時刻、空を飛んでいたのはお前だ」
健は映像を一瞥し、鼻で笑った。
「……不鮮明だな。それに、すごい跳躍だ。まるで鳥か猿みたいじゃないか。僕にこんな真似ができるという証拠は?」
シラを切る健に、郷田は畳み掛ける。
「ああ、そう言うだろうな。だが、こっちはどうだ?」
◇ ◆ ◇
郷田はデスクに肘をつき、身を乗り出した。
「お前が叔父さんを殺したのは20時じゃねえ。18時から19時の間だ」
「は……?」
「殺害後、持ち込んだ電気毛布で遺体を温め、このスマートウォッチを自分の腕に巻いた」
モニターの画面が切り替わる。心拍と加速度のログだ。
死亡推定時刻の直前、激しい波形が記録されている。
「ウロボロスはこのデータを『心停止直前の激しい発作』と判定した。だが、よく見ろ」
郷田が波形を拡大する。
「心拍数は170超えだが、加速度センサーの波形が規則正しすぎる」
「発作で苦しむ人間が、こんなメトロノームみたいに一定のリズムで腕を振れるはずがありません」
新田が冷ややかに補足する。
「こいつは『死に向かう心臓』のデータじゃねえ。『ゴールに向かうランナー』のデータだ」
郷田の声が地下室に響く。
「お前は時計をしたまま獣道を全力疾走し、マンションに戻って、時計を死体の腕に戻した。その瞬間、脈が途絶えてウロボロスは『20時死亡』の判定を出した」
郷田は指を突きつけた。
「本来なら、ここで矛盾が出るはずだ。実際の死亡時刻は19時前。死後1時間経っていれば、体温はもっと下がっているはずだからな」
健の表情が強張る。
「だが、お前は『電気毛布』で死体を蒸し焼きにして、体温の低下を遅らせていた。検死官やAIが体温から逆算する『死亡推定時刻』を、偽装した『心拍停止時刻』と合わせるためにな」
郷田の声が地下室に重く響く。
「心臓を騙すための時計と、体温を騙すための毛布。……これが空白の35分の正体だ」
◇ ◆ ◇
健の眉がピクリと動いた。だが、崩れない。
「……面白い推理小説だ。だが仮説に過ぎない。時計は以前借りたこともある。その時のランニングデータが、何かの手違いで混ざっただけかもしれない」
「そう来ると思ったよ。だから、もっと物理的な証拠を用意した」
郷田はデスクの引き出しから、一枚のプリントを取り出してテーブルに投げた。顕微鏡で拡大された写真だ。
「バンドのメッシュの奥から、お前の汗と一緒に『極小の塗膜片』が検出された」
「塗膜片……ただのペンキの欠片だろ?」
「あの雑居ビルは築50年だ。これまでに10回ほど外壁塗装が塗り重ねられてきた」
郷田は写真の断面図を指差した。
「科捜研が分析した結果、下から『緑、グレー、白、そして一番上が赤茶色』……計10層のレイヤー構造が確認された」
健の視線が写真に釘付けになる。
「この色の重なり順は、あの古びたビルの、お前が飛び越えたあの手すりにしか存在しねえ固有の指紋だ」
「……ッ」
「お前が手すりに手をかけ、強く踏み切った瞬間、劣化した塗膜が剥がれて時計のバンドに食い込んだんだよ」




