ナンキョクグマと夏の約束
吐く息が白く凍てつく。マイナス四十度の八月の空気は、肺をちりちりと灼いた。隣に立つ彼女も、真っ白な息を静かに吐き出し、目の前に広がる光景に瞳を奪われている。
「本当に、凍ってる……」
誰に言うともなく、彼女が呟いた。無理もない。視界の果てまで続くはずの群青色の海は、まるで時が止まったかのように、複雑な起伏を描いたまま白く凍りついていた。寄せては返すはずだった波は、その躍動の瞬間に生命を奪われ、氷の彫刻となって波打ち際に永遠に縫い付けられている。
「うん。約束通り、海だね」
僕がそう応えると、彼女はフードから覗く目でくるりとこちらを向いて、少しだけ笑った。分厚いスキーウェアに身を包んだ僕たちは、まるで南極探検隊のような出で立ちで、真夏の砂浜、いや、今は純白の雪原と化した場所に立っていた。
夏休みには、二人で海へキャンプに行こう。その約束を、僕たちは律儀に守ったのだ。地軸がずれて地球がくるんと逆さになり、全てが反対になってしまってから、これが最初の夏だった。日本の四季は真逆になり、うだるような暑さと入道雲に満ちていたはずの八月は、史上最も厳しい冬となった。
僕たちは、雪の上にビーチパラソルを突き刺し、二つ並べたビーチチェアにくっつけるようにして腰を下ろす。その場違いな鮮やかな色が、僕たちのささやかな抵抗のようで、なんだかおかしかった。
本来あるべき夏の喧騒はなく、聞こえるのは時折吹く風が雪の粒子を運ぶ音だけ。世界に、僕と彼女の二人だけしかいないような、そんな静寂が心地よかった。
「ねえ」
彼女が、僕のポケットに自分の手を滑り込ませてきた。冷えた指先が僕の手に触れる。以前の彼女なら、絶対にしないことだった。去年の夏までは、彼女はいつも少しだけつんとしていて、僕との間に見えない壁を作っているようだったから。
「ホッキョクグマはナンキョクグマになるのかな?」
突拍子もない、けれどこのひっくり返った世界の本質を突くような彼女の問いに、僕は深く考え込んでしまいそうになる。でも、今はむずかしい言葉は不要だった。
「どうだろう。そうしたら南極のペンギンと仲良くなれるかもしれないな」
「だといいな。世界が反対になっても、友達はいたほうがいいもんね」
僕たちはそれから、言葉もなく、ただ寄り添って遠い水平線を眺めていた。凍った海の向こう、低く漂う太陽は青白く、頼りない光を雪原に投げかけている。あれが、僕たちの世界の夏の色なのだ。
やがて空の色が濃紺に沈み、星が凍てつくように鋭く瞬き始めた。
「火、起こそうか」
道中、焼け落ちたコンビニの残骸から集めてきた木材を組んで、小さな焚き火をおこす。文明の欠片が燃え上がり、パチパチと頼もしい音を立て始めた。オレンジ色の光が、僕たちの凍えた頬と、静止した世界をぼんやりと照らす。
「きれい……」
火を見つめる彼女の横顔は、なんだか幼くなって見えた。世界が反転する前、彼女はいつも少しだけ僕と距離を置いていた。でも、今は違う。みんな反対になってしまったから。僕のスキーウェアの袖を遠慮がちに掴む指も、ぴったりとくっついてくる肩も、すべてが夢のようで、この狂った世界がくれた唯一の贈りもののように思えた。
「ねえ、冬休みには海開き、されるのかな?」
炎に見入っていた彼女が、ぽつりと呟いた。
「ニュースで言ってたんだ。このままだと、ぜんきゅうとうけつするかもって」
本来なら極寒であるはずの十二月。その頃には、本物の夏がやって来るはずだと言われている。でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。この星のすべてが氷の塊になってしまうかもしれない。そんな終末の予言を、彼女はまるで遠い国の噂話みたいに口にした。その達観したような、それでいて少しだけ寂しそうな声が、僕の胸を締め付ける。
僕は何も答えられず、ただ燃え盛る炎を見つめた。手足の感覚はとうにない。冷たいのか、熱いのか、もうよく分からなかった。
「でも、よかった」
彼女は僕の手に、自分の手を重ねてきた。手袋越しでも、確かなぬくもりが伝わってくるみたいな錯覚を、僕はじっくりと噛み締める。
「ビーチパラソルも立てたし、キャンプファイヤーだってやったもん」
彼女が僕の肩に、こてんと頭を乗せてくる。その重みだけが、やけにリアルだった。
「あとは仲良く二人で眠るだけだね」
その言葉は、まるで完璧な夏のキャンプの締めくくりのようだった。僕は彼女の肩を抱き寄せ、最後の体温を分け合う。うん、眠ろう。約束、全部果たしたもんな。
意識がぼんやりと遠のいていく。遠くで、氷の巨人が軋むような音がした。それは、もうすぐ海開きされる新しい冬の、産声みたいに聞こえた。