43-3 北条早雲からの知らせ
軍議を終えた夜、
陣中に静けさが戻っていた。
戦はまだ続く。
だが、この夜だけは、
義経と梓にとって、ほんの束の間の休息であった。
その静けさが、
ほどなく破られるとも知らずに。
その夜、義経と妻・梓は、寝所を共にしていた。
軍議の喧騒も去り、かがり火が薪を燃やす音だけが聞こえる、静かな夜、
義経は珍しく、穏やかな表情を浮かべていた。
義経「梓……今日の宝殿、どう思った」
梓「はい。義経様が申される通り……感服いたしました」
梓は、柔らかく微笑み、頷いた。
梓「あれほどの才をお持ちでありながら、決して前に出過ぎぬ。
初陣ゆえの慎ましさもありましょうが……健気で、とても愛おしく思いました」
義経「そうであろう!」
義経は、少し誇らしげに笑った。
義経「あのような参軍が育てば、この軍も、兄上の願いに一歩近づく……」
梓「まあ。義経様、随分とご機嫌ですこと」
梓はくすくすと笑い、しかし、ふと視線を伏せた。
梓「義経様の隣に立つ参軍は……
わたくしより、宝様の方が、お似合いなのでしょうか?」
義経「な、何を申すか、梓……!」
義経は慌てて首を振った。
義経「有能な女将を妻に持つ身の苦労など、そなたには分かるまい」
そう言って、義経は小さく息を吐いた。
義経「……正直に言えばな。
このところ、少しばかり、心細かった」
梓「……」
義経「兄上に、冗談めかして申したことがある。
『いっそ、わしを梓の隊の参軍にでもしてはくれぬか』とな」
梓「まあ……!」
梓は、思わず微笑んだ。
梓「それは良い案ですわ。
わたくしが大将、義経様が参軍――うふふ」
まさに、その時であった。
寝所の外に、ふと、異様な気配が走った。
風の音すら、ひそめるような――重い気配。
義経「……何者!」
義経は即座に立ち上がり、梓を背に庇い、刀に手を掛けた。
男「……夜分に、失礼つかまつる」
静かで、しかし緊迫した声。
男「北条早雲にござる。
急ぎ、義経殿にお伝えすべき儀があり、参上いたした」
義経「……早雲殿か」
義経は梓と視線を交わす。
梓は、静かに頷いた。
義経「……入られよ」
戸が開き、北条早雲が神妙な面持ちで姿を現した。
早雲「これは……梓殿もご一緒であったか。
だが、むしろ好都合じゃ。
この話、そなたにも聞いていただきたい。ただし、他言無用に願う」
義経「……ただ事ではなさそうじゃな」
早雲は、深く息を吸った。
早雲「……これより申すことは、
義経殿、そしてこの軍団にとって、あまりにも重い」
一拍。
早雲「頼朝殿は……
そう長くは、もたぬ」
義経「……何を、馬鹿なことを」
義経は、乾いた笑いを漏らした。
義経「“今の”兄上のお命が、と申されるのか?
それは、あまりにも早すぎる」
義経の声に、苛立ちが滲む。
義経「我らは見てきた。
“先代の兄上”は、史に記された年齢まで生き、
その後我らと軍団を立ち上げ、岐阜で非業の死を遂げた。
ならば、なぜ――
鎌倉を開く前に連れて来られた“今の兄上”の命が長くないと――?」
義経は、早雲を睨んだ。
義経「そんな理屈が……あるものか!」
早雲「……分かる」
早雲の声は、低く、震えていた。
早雲「わしも、最初は信じられなんだ。
だがな、義経殿……頼朝殿のお身体は、すでに、病に深く侵されておる。
気力だけで、立っておられるに過ぎぬ」
義経は、言葉を失った。
梓は、両手で口を覆い、ただ立ち尽くしていた。
早雲「頼朝殿は、自らを『業を背負った鬼』と申された。
だがな……」
早雲は、拳を強く握り締めた。
早雲「罪を背負うのは、頼朝殿だけではない。
人を殺し、国を奪い、血で道を切り拓く。
戦国に生きる我ら武将、皆そうじゃ。
それをお一人で背負うなど……わしは認めぬ」
義経「……」
早雲「じゃが、頼朝殿は覚悟を決められた。
そして己が消えた後、この軍団と、その罪を――
義経殿、おぬしに託すと」
義経は、膝を折った。
義経「……兄上は……」
早雲「そして、申された」
早雲「『鎌倉の時分よりも、弟に酷い兄』と」
沈黙が落ちた。
やがて、義経は顔を上げた。
義経「……早雲殿。
拙者は、兄上の願いを叶えたい。
だが……
これほどの侵攻をして、家康が、素直に下るであろうか」
早雲「うむ」
早雲は、迷いなく頷いた。
早雲「迎えたい。
だが、迎えられぬなら――」
義経「……排除するしかない」
二人の言葉は、重なった。
梓が、息を呑む。
早雲「それが、頼朝殿の願いを守る唯一の道であるならば、
わしは、その役を厭わぬ」
義経「拙者も同じじゃ」
一瞬、沈黙。
早雲は、ふと、視線を伏せた。
早雲「……わしは、少し気になることがあってのう。
那古野の、あの者の元へ向かう」
義経「トモミク……か」
早雲「深くは申さぬ。
だが、何かが……噛み合っておらぬ」
早雲は踵を返した。
早雲「急がれよ、義経殿。
時は、我らに味方してはおらぬ」
そう言い残し、早雲は静かに去っていった。
その夜の空は、雲ひとつなかった。
だが、義経の胸のうちには、一つの巨星が、静かにその光を弱めていくのを感じていた。
寝所の中は、ただ武田梓のすすり泣く声だけが響いていた。
伝説の軍神・源義経、そして、武田の軍略を引き継ぎ、精強な鉄砲部隊を率いる女将・武田梓……
今宵ばかりは、互いのかすかな温もりを支えとする以外に、崩れ落ちそうになる心を保つ術すべは、どこにも無かった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この夜に交わされた言葉と沈黙は、
やがて、義経の決断に
深い影を落とすことになります。




