39-2 もう、遅い
理は通じる。
想いも、決して届かぬわけではない。
それでも――
立場という名の重みは、
人から「選ぶ自由」を奪っていく。
かつての縁、かつての夢、
そして今、この時代に背負わされた覚悟。
北条早雲と、お市の方。
二人の言葉は、徳川家康の心を揺らした。
だが――。
天正十五年(1587年)九月。
岡崎城下。
かつて北条早雲と源義経が徳川家康と会談を行った、街外れの茶屋。
この日、家康と相対していたのは、北条早雲と――お市の方であった。
家康「お市殿ではないか!
まことに、懐かしい。
まさかこのような場所で、しかも頼朝殿の使者としてお目にかかるとは……」
思いがけぬ再会に、家康は素直な驚きと喜びを隠さなかった。
お市「家康様もお変わりなく、何よりにございます」
お市もまた、柔らかな微笑を浮かべ、礼を尽くした。
しかし、家康は早雲へと向き直ると、その表情を一転させた。
家康「……早雲殿。
再び相まみえたな。
さて、この度は、何か良きお知恵でも授けてくださるのかな」
その言葉には、明らかな棘が含まれていた。
早雲「徳川殿。
本日は策を携えて参ったわけではござらぬ。
ただ一つ、お願いに参ったのみ」
早雲は一拍置き、静かに、しかし強い意志を込めて続けた。
早雲「何卒、我が軍の傘下にお入りいただき、
共に太平の世を築いていただきたい。
我が主・頼朝殿が、この日ノ本で最も手を取り合いたいと願っておるのは、
徳川殿、そなたでござる」
家康は、鼻で小さく笑った。
家康「……話にならぬ。
臣下となるくらいならば、一戦交えて潔く滅びる。
先日も、そのように申したはずじゃ。
捕虜への情け?
我が軍には無用よ」
早雲「徳川殿。
そこを、何とかお聞き届け願えまいか」
早雲は一歩踏み出し、声を強めた。
早雲「徳川殿には、どうしても生きていていただかねばならぬ。
そなたの申されること、理としては全て正しい。
甲相越の同盟が脆き均衡に過ぎぬことも、
その中で徳川が我らと盟約を結んだところで利が無いことも、
我が軍が特定の武家に肩入れできぬことも――
全て、その通りじゃ。
だが……甲相越が再び乱れたならば……
我らは同盟国に牙を剥く敵として、
徳川殿と刃を交えねばならぬ。
そのような事態だけは、
何としても避けたいのじゃ」
家康「ならば、今すぐ攻めてくるが良い」
家康は一歩も引かなかった。
家康「我らは、すでに覚悟はできておる。
華々しく散ることに、何の未練があろうか」
早雲「徳川殿!
それは匹夫の勇というものぞ!」
それまで抑えていた感情が、ついに早雲の声に滲んだ。
早雲「負け戦と知りながら、
いたずらに兵を損なうことに、
何の意味がござろうか!」
家康「それは、そちらの理屈でござろう」
家康の声は、冷静だった。
家康「我らから頼朝殿に戦を仕掛けるつもりはない。
だが、どうあっても攻めるというならば――受けて立つ。
徳川の覚悟を申したまでじゃ」
早雲「……」
お市「家康様……」
それまで黙していたお市が、静かに口を開いた。
お市「今、我が兄・信長を見限り、
心から頼朝様に忠節を尽くしておる者たちが、
どれほど多くいるか、ご存じでございますか」
家康「……」
家康は眉をひそめた。
家康「先の南信濃にて刃を交えた折、
池田恒興殿の子・輝政殿が勇猛に戦っておった。
まさか、池田恒興殿が信長公を捨て、
頼朝軍に降ったなどとは、到底信じられぬがな」
お市「その、まさか、なのでございます」
お市は微かに微笑んだ。
お市「池田恒興様は、
織田家の誰よりも早く、
頼朝様に臣下の礼を取られたお方の一人にございます。
今は、私をはじめ、
柴田勝家様、前田利家様、加藤清正様、福島正則様、
そして羽柴秀長様らも――
皆、一度は刃を交え、敗れ、
その上で頼朝様に心服し、
自らの意思で家臣となっております。
このわたくしとて、
捕虜となり、縄を解かれました。
されど、兄・信長のもとへは戻りませんでした」
家康は、驚きを隠せない様子だった。
家康「……命惜しさに降ったのではないのか。
信長公のために命を惜しまぬ猛者ばかりではないか……」
お市「……皆、それぞれに思いは異なりましょう」
お市は、静かに続けた。
お市「ですが、かつての織田家臣たちは、
兄・信長が掲げた『天下布武』という夢に、
己の夢を重ね、付き従っておりました」
お市は、頼朝のいるであろう遥か西の空を見上げた。
お市「ですが……頼朝様が目指しておられる『天下静謐』。
その理想に触れ、
このお方をお支えしたいと、
心から願う者が、今は多くおります。
頼朝様は、鎌倉の世で、
兄が歩んだ血塗られた道を、
一度、すべて歩まれました。
そして今は……その一つ先の道を、
模索しておられるのだと。
想像も及ばぬほどの苦悩と罪を背負いながら、
それでもなお、新たなる世を目指しておられる……。
わたくしには、そう思われてなりませぬ」
家康は、しばし沈黙した。
その表情から、険しさがわずかに薄れていく。
家康「……まこと、興味深い話じゃ。
頼朝殿が、
そのような覚悟と苦悩の果てに、
今の道を選ばれておるというのであれば――
直接お会いせぬままであったのは、
むしろ幸いであったのかもしれぬ。
もし相まみえておれば……
わしの決意は、揺らいでいたやもしれぬ」
お市は、その揺らぎを確かに感じ取った。
しかし同時に、家康の心が再び硬く閉ざされていくのも見て取れた。
家康「……お市殿。
もう、遅いのじゃ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
お市の言葉は、確かに家康の心を揺らしました。
ですが、それでも彼は「選ぶ」ことができませんでした。
理解できるからこそ、
共感できるからこそ、
それでもなお、引き返せない立場がある――。
次話では、
なぜ徳川家康がその道を選ばざるを得なかったのか、
そしてその報せを受けた頼朝が、
いかなる決意に至るのかが描かれます。
どうか、次回もお付き合いいただけましたら幸いです。




