39-1 病床にて交わされる遺志
徳川攻めを決断し、
「鬼」として歩む覚悟を定めた頼朝。
だが、その身は病に伏し、
戦場にも内裏にもなく、静かな寝所にあった。
武を語ることなく、
血を流すこともなく、
それでも、この一夜の言葉が、
やがて無数の命の行方を定めていく。
■病床の頼朝とお市の方
天正十五年(1587年)八月。
頼朝の意識は辛うじて回復していた。
だが、深く息を吸うたび、胸の奥に鈍い重さが残り、
床に伏したままでは、政務に戻ることなど叶うはずもなかった。
頼朝は太田牛一、出雲阿国、お市の方、そして羽柴秀長を寝所に呼び寄せた。
力なく横たわる頼朝は、集まった家臣たちの顔を一人ずつ見やった。
力なく頷くと、再び視線を虚空に戻して、か細い声で口を開いた。
頼朝「大事な時にこの様な体たらく、面目次第も無い。
大納言就任に合わせ、参内を考えておったが……この無様な姿を帝の御前に晒すわけにもいくまい」
頼朝は一度言葉を切り、息を整える。
頼朝「牛一殿には、引き続き骨を折らせることになる……大村殿と共に、今できることを引き続き模索してはくれぬか」
牛一「はっ!由己殿と最善を尽くしまする」
頼朝は目線をゆっくりと牛一に向けた。
頼朝「……あの二条晴良という男……どうにも憎めぬのだ。
晴良卿は我らを毛嫌いしておるようではあるが、立場が異なれば、彼こそ帝を想う誠がある。
味方になれとは申さぬ。
しかし、一度は膝を突き合わせ、互いの胸襟を開く機会を持てるよう、何か手立てを講じてはくれまいか。
例えば……そう、趣深い茶会などを設け、阿国殿が点てた味わい深き一服を差し向ければ、我らの真意の一端くらいは伝わるやもしれぬ。
牛一殿、阿国殿、何とか晴良卿との誼を結ぶ糸口を探ってはくれぬか」
牛一「御意にございます」
牛一は即座に力強く応じた。
しかし、その声色とは裏腹に、牛一の表情は頼朝の身を案じる色を隠せない。
牛一「されど……今はただ、殿の御回復を祈るばかりにございます」
牛一の言葉に、集まった他の者たちも深く頷き、頼朝の衰弱した姿に、誰もが悲痛な面持ちを浮かべていた。
頼朝は、力なくも確かな眼差しを牛一に向けた。
頼朝「心配には及ばぬ。
ここで死ぬることは、神がお許しにはなるまい……。
だが、今わしが病に伏せっておることは、外部には決して漏らすでない。
将兵たちにも、内密に徹底せよ。
今は、我が頼朝軍の威勢を天下に知らしめるべき大事な時期。
当主が床に伏せっておると知られれば、内外の者どもは必ずや足元を見てくる。
徳川や、未だ誼を結んでおらぬ武家どもには睨みをきかせ、
友軍に対しても、些細な争いを起こさぬよう釘を刺し、
そして朝廷にも、我らの覚悟を示さねばならぬ。
それでなくては、天下静謐を願って命がけ働いてきた家臣たちに、顔向けができぬ」
頼朝は自嘲するかのように、力なく苦笑を浮かべた。
頼朝「…もう後戻りは出来ぬ。
我が身は、天下の汚れ役を引き受けるためにある」
その痛々しい言葉に、秀長が沈痛な面持ちで口を開いた。
秀長「頼朝様、そのような…汚れ役などと仰せられますな。
我が領内の多くの家臣や民は、頼朝様の仁政の恩恵を受け、心より感謝しておりまする。
頼朝様は、我ら家臣、そして領民すべての誇りであり、心の拠り所でもあります。
どうか、ご自身が成されたことへの誇りをお持ちいただき、何よりも我ら家臣、領民のため、お身体を御自愛くださいませ」
頼朝「…秀長の言葉、真であれば、これほど嬉しいことはない。
じゃがの……」
頼朝は静かに目を伏せた。
そこへ、篠が丹前と白湯を盆に載せて寝所に入ってきた。
頼朝の肩にそっと丹前をかけ、ゆっくりと上体を起こすのを手伝う。
その甲斐甲斐しい姿を、秀長は複雑な思いで見つめていた。
ここ数週間というもの、娘の顔に浮かぶ苦悩の色し を見続けていた。
自身の心の呵責に加え、愛娘の苦しむ姿が、秀長の肩にさらに重くのしかかっていた。
頼朝はお市の方に視線を移し、語りかけた。
頼朝「お市殿……心を定めてくれたとは申せ、実の兄君と敵対することになるのはお辛かろう。
心苦しいが、是非とも話を聞きたいのだ。
新たに織田から我が軍に加わった者たちの様子や、今の織田軍について、耳にしたことがあれば教えてはくれぬか」
お市の方は、静かに頷いた。
お市「はい。一部、徳川方に走った者もおりますが、総じて頼朝様の下、良く励んでおりまする。
加藤清正殿や前田利家殿などは、積極的に旧知の織田家臣に書状を送り、内応を促しておる由。
頼朝様に心服している証しでございます。
他家に走るものはいても、織田へ戻ろうとする者は一人もおりませぬ。
我が兄に愛想を尽かしたのか、兄が恐ろしいのか……」
お市の方の声には、微かな寂寥感が滲んでいた。
頼朝は、お市の複雑な胸中を表情から察したが、そのまま言葉を続けた。
頼朝「…織田軍の動き、何か耳にしておらぬか」
お市「はい。いくつかお耳に入れておきたき儀がございます。
まず、河内国に新たに築城した模様。
また、丹波方面では、軍備を増強しておるとの噂が。
おそらくは、丹後の一色家や但馬の山名家への侵攻を準備しておるものかと。
引き続き注視しておりまする」
頼朝「感謝する。信長殿は、まだ羽を降ろしてはおらぬようじゃな。
ところでお市殿……万が一にも信長殿が我らに臣従するということは……あるまいか」
頼朝は答えを知りながら、望みを託すようにお市の反応をうかがった。
お市の方は、力なく微笑み、静かに首を横に振った。
頼朝は小さくため息をついた。
お市「兄が…信長が、頼朝様に仮に臣下の礼をとったとしても、それは殿のお心を煩わせるだけでございましょう。
もとは尾張一国の小大名。
今は河内、丹波を領する身なれば、しばらくは大人しくしてくれるのが、兄自身のためかと存じまするが…」
お市の方は努めて微笑み、頼朝を気遣うように言葉を続けた。
■お市の方の覚悟
お市「頼朝様、このお市より一つ、お願い申しあげてもよろしゅうございましょうか」
頼朝「……申してみよ」
お市「ありがたき幸せ。早雲様が家康様とご会談なさる折、私も同席したく存じます。
家康様とは幼少の頃よりの馴染みでございますれば。
家康様がよくご存じの旧織田家臣たちが、いかに頼朝様に心服し忠節を尽くしているか、その一端なりともお伝えできればと。
家康様が私の話ごときで、お考えを改めることはございますまい。
されど、家康様のお耳には入れておきたく存じまする。
戦が早期に終結し、徳川家の家臣を改めて取り立てる段になりましたら、お役に立つこともあろうかと」
頼朝「それは願ってもない申し出じゃ、お市殿。
早速、早雲殿に早馬を遣わそうぞ」
お市「お聞き届けいただき、誠にありがとうございまする」
お市の方は深く頭を下げた。
■布石
その時、頼朝は軽く咳き込み、起こしていた体を再び横たえた。
家臣たちはその様子を案じ、寝所から退出しようとしたが、頼朝はそれを手で制した。
頼朝「…聞いてほしいことがある。
…認めたくはないが、万が一の時のことを、はっきりさせておきたいのだ」
秀長「何を仰せられますか、頼朝様!」
秀長が、間髪を入れずに声を上げた。
頼朝「まあ、聞け、秀長。万が一のことと申しておろうが。
古の世においても、この『万が一』を明確にせず、血で血を洗う忌まわしい内乱が起こった悲劇は数知れぬ。
桜か、義経か、あるいは里か…そのようなことで家臣の心が離散することだけは、何としても避けたいのだ。
万が一の折には、秀長、そなたがこれから申すことを、わしの遺志として皆に伝えてほしい」
頼朝は、一度目を閉じ、覚悟を決めたように再び口を開いた。
頼朝「まず、この頼朝軍団のことは、義経に引き継がせよ。
その重責を担うのは義経が適任、わしは考える。
その後軍団をどう導くかは義経の器量に任せるが、適切な時期を見計らい、後継者に引き継ぐことを願う。
この軍団を、この時代の者に任せたいというわしの意向は、そなた達も承知していよう。
もし、徳川家康を臣従させることが叶い、義経が家康を後継にふさわしいと判断したならば、家康に軍団を引き継がせよ。
義経が後継に桜を選ぶというのであれば、それもまた良い。
…以上だ」
秀長「頼朝様のご意向、この羽柴秀長、しかと承りました。
しかし……しかし、そのような万が一の事態、この秀長、断じて承服いたしかねますぞ!」
秀長の声は震えていた。
頼朝「…秀長よ。武士は、いかに散るかを、常に心に抱くもの…わしもまた、そうだ。
しかし、志半ばで病に倒れるのは無念という他ない。
…わしも、今はまだ、死にとうはないのだ」
その言葉を最後に、頼朝は静かに目を閉じた。
寝所には、しばし誰も声を発せぬ沈黙が落ちた。
聞こえるのは、頼朝の浅い寝息と、灯明の芯がかすかに弾ける音ばかりであった。
篠が皆に目配せをした。
その意を汲まぬ者は、誰一人としていなかった。
篠を残し、集まった家臣たちは、重い沈黙の中、頼朝の寝所を退出した。
お読みいただき、ありがとうございました。
病に伏しながらも、
頼朝は一つひとつ、決断を下していきます。
それは戦場で剣を振るうよりも、
ある意味で、重く、残酷な選択でした。
義経に託された軍団。
お市が背負う役目。
そして、まだ語られぬままの徳川家康の心。
次回、
早雲とお市は、再び徳川家康のもとを訪れます。
言葉は届くのか、それとも――。
静かな章のあとに訪れる、緊張の対話。
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。




