38-6 鬼の目覚め
徳川を攻める決断は、
頼朝に一時の解放をもたらした。
だが――
その軽さこそが、
彼自身の心に、深い亀裂を走らせる。
理想のために刃を取ること。
平和のために命を秤にかけること。
その選択の先で、
頼朝は、自らの本質と向き合うことになる。
退出していく家臣たちの背中を見送りながら、
迷いを絶ち、決断を下したはずであった。
それでも頼朝は、胸の奥に残る違和感を、どうしても無視できずにいた。
(織田との戦に追われている際は、いかに辛くとも脇目も振らず、限られた道をがむしゃらに駆け抜けていた……)
(だが、この京の都へ来てからは、前を見ているだけではどうにもならぬと、思い知らされる。目に見えぬ策謀、複雑怪奇な人の思惑の中で、日ノ本や未来のために出来ることを考え、軍団を率いていかねばならぬ……)
(分かっては、いた。分かってはいたはずなのじゃが……。人を殺めずに、ただ、前に進むということは、これほどまでに難しきことよのう……)
そこで頼朝は、己の心のからくりを覗いた気がした。
それは恐ろしきものであった。
(いや、待て……。これは、どういうことじゃ……?)
(戦場にて、多くの敵の命を奪い去ることが、今のわしにとっては、『進みやすき道』『前を向く道』……?
人を殺めずに、人の思惑の中で前に進もうとすることは、『難しき道』……? )
(まさか……!)
一瞬、思考が、すとんと落ちた。
突然、頼朝は一人、嗤いが漏れた。
(そうであったか!結局、このわしは……!
あの、徳川家康を無理やりにでも家臣とするため、
朝廷に"平和への道筋"を無理強いするため、
何の罪もない多くの兵たちの命を散らすことを選択したのか!)
(そして、御所を我が軍勢で取り囲む、などということも……。
それもまた、命を『秤』にかけさせた冷酷な脅しに他ならないではないか!)
(結局、わしは……鬼を退治するために来た鬼……!
滑稽よのう……!)
頼朝はなぜか、独り嗤いが止まらない。
(『鬼』とならねば、この乱世において、『天下静謐』などという、大それたことなど、
到底、望むべくもない……!)
(『天下静謐』が成った、その暁には……遠き故郷鎌倉にて、家族や阿国殿と、ただ静かに暮らす……などと……)
(あの、天上の『神』とやらが、この鬼などに許すはずもあるまい……!!)
その瞬間であった。
突然、頼朝は激しく咳き込み始めた。
(…どうしたというのだ。
己の甘き考えに我ながら呆れ果て、その衝撃で、胸でも押しつぶされたとでもいうのか……)
はじめは、その程度に考えていた。
だが、その咳は、尋常ではない。
体を焼き尽くすような熱い衝撃が込み上げ、肺腑の奥底から絞り出すかのような、激しい咳き込みであった。
気が付くと、咳と共に口元からはとめどなく赤い血反吐が流れ出てくる。
口を必死に押さえるが、自らの衣が赤く染まる。
その、ただならぬ頼朝の咳き込み方、微かに聞こえてくる、苦しげな呻き声を敏感に感じ取った妻の篠が、慌てて廊下を走ってくる。
その足音が、頼朝の耳にも聞こえてきた。
篠「頼朝様! いかがなされましたか! 大丈夫でございますか!」
頼朝「…な、何事もない……。心配は、いらぬ……」
頼朝は、かろうじて声を絞り出した。
篠が、勢いよく、部屋の戸を開けようとする気配がした。
頼朝「何事もない、と申しておるであろう! ……開けるでない!」
大声をあげるとともに、更なる鮮血が口から流れ出た。
(…やはり、そうか。阿国殿がいう、あの『神』とやらは……。このわしを、許さぬ、というわけか……)
(それこそが……このわしを、この時代へわざわざ呼んだ、本当の理由であったか……!)
そのまま、意識を失い、頼朝は床へと崩れ落ちた。
篠は、「入るな」と、あれほど強く言われていたにも関わらず、頼朝しかいないはずの部屋の中から、人が倒れたような大きな物音に、もはや、ためらってはいられなかった。
篠は、震える手で、勢いよく目の前の戸を開け放った。
篠の悲痛な叫び声が、二条城の奥深くへと、響き渡った。
篠「頼朝様! 殿! ……誰か! 誰かあるか!」
天正十五年(1587年)八月。
源頼朝は、京の朝廷より、正式に大納言の官位を叙任される。
しかし、内裏へと参内する、頼朝の姿は無かった。
お読みいただき、ありがとうございました。
徳川を攻めるという決断は、
頼朝にとって「覚悟」であると同時に、
自らの内側に潜んでいた“鬼”を
はっきりと自覚する瞬間でもありました。
理想のために刃を取ること。
それが本当に正義なのか、
それとも、ただ進みやすい道を選んだだけなのか。
次話では、
病床に伏した頼朝が、
静かに“後”を見据え始めます。
そして――
徳川家康のもとへ向かう、新たな使者が選ばれます。
暗く、重く、避けがたい流れが続きますが、
どうか、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




