38-2 密談の行方
義経のまっすぐな呼びかけに、
家康はそれまで一度も見せなかった“別の眼差し”を向ける。
北条早雲は笑いながら家康の返答を受け止めるが、
義経には、その柔らかな笑みの奥が“まるで読めなかった”。
茶屋の密談は、いよいよ核心へ踏み込んでいく——。
家康の、皮肉とも挑発とも取れる義経への言葉。
その刃を正面から受け止めたのは、北条早雲であった。
早雲「まあ、そうかもしれませぬな。
しかし、織田家を滅ぼそうなどとは、考えてはおりませぬ」
家康「ほう。
あれだけの大攻勢を加えながら、滅ぼす気はないと……
これまた不思議なお話でございますな」
刺すような眼差しの奥に何が潜むのか、義経には掴めなかった。
家康が自らを“小心者”と言ったが、少なくともそのような男ではない。
家康「我ら徳川との誼を真にお考えであるのであれば……」
家康は、静かに、しかし揺らがぬ声音で言い切った。
家康「求める条件は、ただ一つ。
——甲斐・信濃の武田領、そして関東の北条領。
そのすべてを、徳川の支配下に置くこと。
それを、お認めいただきたい」
(な……!)
義経の腹の底に、煮え立つような怒りが一瞬で広がる。
胸の内側から噴き上がるものを、必死に押し込んだ。
(いかぬ……。ここは早雲殿に任せねば……)
家康の“野心”は隠されてもいなかった――
それが義経には、なおさら許しがたかった。
一方で早雲は、極めて穏やかに家康へ顔を寄せた。
口元は、いつも通りの大らかな笑み。
早雲「家康殿こそ、領土への強い御志向があるように見受けられるが?」
家康「いやいや、早雲殿。
実のところ頼朝殿と私と、それほど大きな考えの違いはない……
わしは、そう思っております」
家康は腕を組み、続けた。
家康「頼朝殿もご苦労されておるのであろうな。
力による支配と、天下静謐の両立……その難しさにな。
それは、小国の我らであればなおのこと」
柔らかい声だが、中身は鋭い。
家康「形ばかり誼を結んだところで、
領内の民を、家臣を守り切れぬ。
……考えてもみられよ」
そこで家康は、ふと目を伏せた。
悲哀にも似た色が浮かんだが、それは本心かどうか分からない。
早雲は、顎をさすりながら静かに耳を傾ける。
家康「上杉・武田・北条の和平も、信長公と徳川という“共通の脅威”があってこそ。
頼朝殿の巧みな働きで成り立っておる、実に脆い小康状態に過ぎぬ」
家康は目線を上げた。
家康「信長公にはもはや、頼朝殿を押し戻す力は残るまい。
ならば、小康は崩れる。——長く保ちはせぬ」
そして家康は、声をさらに落とした。
家康「とりわけ、武田は危うい。
父・信玄公以来の悲願“瀬田に御旗を立てよ”。
それが諦めきれぬ家臣も多い。
頼朝殿が救われておるが、その頼朝殿こそが、覇権を諦めさせておる張本人でもある」
そこで家康は、わずかに目を細めた。
家康「景虎殿を滅ぼした件は、武田家の混乱の象徴よ。
調略はすでに進み、離反の気配は日に日に強まっておる」
義経は息をのむ。胸の奥が熱くなる。
(……それが、どう兄上と“同じ”というのだ……!)
家康は視線を義経へ向けた。
家康「甲斐・相模・越後が再び争うことになっても、
また三国が揃って我が領へ攻め込もうとも、
我ら徳川は動かねば滅びる」
家康の目が、真正面から義経を射抜いた。
家康「お分かりかな、義経殿」
声音は柔らかい。
しかし、その言葉は義経の胸を刺した。
(……この男、全て承知の上で言っておる……)
義経の怒りの奔流を、早雲がそっと遮った。
早雲「つまり徳川殿の申されたい事は、
我らと敵対する以外に道はない――
そういうことでござろうか?」
家康は、また穏やかに笑った。
家康「頼朝殿と誼を結んだとして……
もし誼を結んだ大名どうしが争い始めたならば、
頼朝殿はいかがなされる?
徳川を守る“と約束”いただけるのですかな?
どんな時も、一切の迷いなく」
義経の喉奥で、怒りが爆ぜた。
だが、そのとき。
早雲が大笑し、手を叩いた。
早雲「がははは! いやはや徳川殿!
まことに、恐れ入り申した!」
早雲は、家康の視線を堂々と受け止めたまま続ける。
早雲「どこまでも見通しておられる。
まさに大空を巡る鷹の目よ。
……お見事!」
義経は反論の言葉を探しながらも、胸の奥で理解していた。
(……兄上も、最も恐れていたのはこの均衡の崩壊……
家康殿は、確かに“正しい”のかもしれぬ……)
しかし早雲は、不敵な笑みを崩さず口を開く。
早雲「徳川殿は、強くならねば生き残れぬと申される。
……ならば、良き道がひとつある」
家康の眉が、わずかに動いた。
早雲は、さらに身を乗り出し、低く告げた。
早雲「我らに臣従なされよ。
あるいは――このまま、我が軍に攻め滅ぼされるか」
室内の空気が、凍りついた。
家康の笑みが、すっと消えた。
家康「……我らを脅されるか」
お読みいただきありがとうございました!
武田・北条領のすべてを要求する家康。
それに対し、早雲は——
「臣従か、滅亡か」と真っ向から迫りました。
次回、
笑みを消した家康に、早雲は何を語るのか。
そしてこの密談は、
“家康を頼朝軍の後継者とする未来”へと本当に繋がるのか。
この後の展開も、ぜひお付き合いくださいませ。




