38-1 密談
頼朝軍団は、次なる一手として――
“惣無事令の後、その軍を徳川家康へ継がせる”
という、きわめて密やかな可能性を探り始めていた。
しかし今の徳川は、頼朝軍にとって“敵国”そのもの。
岡崎城下の外れ。
深く編笠をかぶった二人の武士が、茶屋の暖簾をそっと押し分ける。
そこで彼らを待っていたのは――誰にも読めぬ笑みを湛えた、あの人物であった。
天正十五年(1587年)六月。
岡崎城下の、街外れの茶屋。
夕風に揺れた暖簾が、からり、と小さな音を立てた。
その響きは茶屋の奥までかすかに届き、遠くのざわめきを薄く湿らせていた。
深く編笠を被った二人の武士が、人目を避けるように店へ入る。
茶屋の主はその姿を一瞥し、何も言わず奥の座敷へ案内した。
座敷の中央には、一人の男が静かに座していた。
四十前後の穏やかそうな顔立ち。
しかし、その柔和な姿勢のどこにも隙はなく、その男の周囲だけ、静けさの層がひとつ深い。
男は柔らかな笑みを浮かべ、二人を上座に促した。
謎の男「お待ちしておりました。……源義経様、北条早雲様で、よろしゅうございますな」
早雲「いかにも」
早雲が編笠を外し、短く答える。
謎の男「某は、徳川三河守家康。以後、お見知りおきを」
男――家康は完璧な礼をもって挨拶した。
その物腰は柔らかく、声は驚くほど静かだった。
頼朝軍からの折衝の末、ようやく実った極秘の会談。
条件として家康が選んだのは、岡崎と大草の中間にあるこの茶屋であった。
義経と早雲は深々と頭を下げる。
早雲「此度のお引き受け、痛み入る。拙者は北条早雲。そして隣におりまするは、我が主・源頼朝殿の弟君、源義経でござる」
義経「源九郎義経にござる。家康殿と対面でき、光栄に存じまする」
家康「いやいや、こちらこそ。
まさか伝説の軍神・義経様、そして“戦国初期の梟雄”たる北条早雲殿に御目通りが叶うとは……
それだけでも家臣への良き土産話になると、この家康、嬉しき限りでございますぞ」
事前に、太田牛一から聞いていた人物評の通り、どこまでも物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いの家康であった。
だが――
その笑みの奥だけは、まるで水底が見えぬ湖のようだった。
義経は心の奥で小さく呟く。
(……この男……笑っているようで、まるで隙がない)
家康「それにしても、さすがは源頼朝様ですな。
あれほどまでに強大であった信長公を追い散らし、上洛を果たされただけでも驚きですが……
捕虜を斬らぬ、という噂まで耳にしております。
それゆえ織田家臣らが戦意を喪い、容易に軍門へ下るとか。
しかも、甲斐・相模・越後を結託させるなど……
内に外に、戦わずして人心を掌握するとは……
まこと“恐ろしき”軍団にございますな」
家康は、わざとらしいほど自らを卑下する声音に変えた。
家康「某のような小心者には、その噂だけで身の毛がよだつ。
日々、恐ろしさに震えておるばかりでございますよ」
義経は家康の言葉に隠された刃らしき危うさを感じ取っていた。
(この男……ただの畏れを語っておるだけではないな)
早雲「がははは! 家康殿は、そのように我らを見ておったか!」
早雲は、あえて家康の真意に気づかぬふうを装い、大げさに笑い飛ばした。
早雲「頼朝殿は深き計略など持ち合わせてはおらぬ。
ただ――あのお方の曇りなき心意気、人徳、積み重ねた歩みが、いつしか大河のように太くなっていく。
おそらく本人が一番気づいておられぬ。
だが、それこそが我が主の真の『力』。
偶然に見えて、必然よ」
家康「ほう……。いよいよご本人と話してみとうなりました」
早雲「望まれれば、いつでも」
家康は薄く笑った。
家康「いやはや、まこと“底の知れぬ”方々ですな」
その笑みは柔らかい。
だが――
目の奥だけは終始、揺れなかった。
早雲はその視線を真正面から受け止めた。
早雲「しかし家康殿……ひとつ気になる。
先ほどから隣国の話を、あまりにも他人事のように語られておる。
これは拙者の思い違いでござろうか」
家康「はっはっは。一本取られましたな」
家康はあっけらかんと笑った。
家康「いやはや、お見それいたしました。さすがは北条早雲殿。
まさに某の“痩せ我慢”にございますよ」
義経は、その笑いを見ながら確信した。
(……やはり、これが家康の鎧)
義経は家康の呼吸、手の動き、言葉の端々までも逃すまいと神経を研ぎ澄ませた。
義経「家康殿。我らは真の友好を望む。
我が主・頼朝と手を携え、乱世を終わらせる道を探りたく……本日、この場を頂戴した」
家康「ほう……」
家康は静かに顎を引いた。
家康「では尋ねるが……頼朝軍には、この徳川の領土を奪う意志はない。
……そのように、受け取ってよいのですかな?」
義経「無用な領土拡大に興味はござらぬ」
家康の双眸が、義経の奥を覗き込んだ。
家康「ならば、ひとつ問おう。
――織田領への怒涛の侵攻は、何であった?」
場の空気が、ひりついた。
家康「源頼朝様は……この戦国の世に蘇り、
日ノ本を騒がす“鬼”・織田信長**を討つために現れた――
そういうことでござるかな?」
お読みいただきありがとうございました!
義経のまっすぐな呼びかけに、
家康はこれまでに見せていなかった眼差しを義経に向けます。
次回、ついに核心へ。
家康が静かに突きつける条件は、
「甲斐・信濃の武田領、
そして関東の北条領――
そのすべてを徳川の支配下に置くこと」
義経の怒気が弾けるその瞬間、
北条早雲は何を見据え、何を語るのか。
この先の展開も、ぜひお付き合いください。




