37-4 巫女の苦しみ
吉田兼見との話を終え、何かに心を焦がす頼朝。
それは、吉田兼見への怒りでは無かった。
良き茶を点て、頼朝の心を鎮めようとする出雲阿国。
しかし巫女の深き哀しみの片鱗を目にして、頼朝は――。
■茶と心
茶筅が碗の底をかすめる、細雨のような音が続いていた。
夕暮れの光が障子越しに揺れ、茶室の静けさに薄く色を落とす。
軽やかな音と香りが満ちて、ざわついた波が、わずかずつ収まっていった。
阿国の動きは、乱れぬ調べを保ち、
茶筅が刻む間が、いつしか頼朝の呼吸を和らげてゆく。
それでも、胸に刺さった棘は深く――簡単には抜けない。
(吉田兼見……)
頼朝の脳裏に、あの刺すような言葉がふと甦った。
阿国が茶を差し出す。
頼朝が茶碗を手に取る様子を、阿国は静かに見守っていた。
阿国「……頼朝様。
何に対して、お怒りでございますか?
単に吉田様のご無礼へのお腹立ちとは思えませぬが……」
この女の目は――
己の心の些細な揺らぎまでも映してしまうのだろうか。
頼朝「わしが怒っておるように見えるか、阿国殿」
阿国「様々なお気持ちが、お心の内に渦巻いておられるご様子とお見受けいたします」
阿国は、頼朝の隣に静かに座した。
その衣から、焚きしめた香の名残がふと立ちのぼる。
京の舞台人が身にまとう香りだろうか――
茶の香と混ざり合わず、静かに寄り添うだけの淡さだった。
阿国「このお茶は、京の都でも特に名高い、格別な茶葉だそうでございます。
しばし、その香りと深き味わいに、お身を委ねてみては……」
頼朝は深い緑を口に含む。
独特の風味が広がる――茶は点てる者の心を映すという。
■力と心
頼朝「……己の心ですら、自ら律し、迷いを断つ……何と難しきことか」
頼朝は茶碗を置き、視線をそのまま碗の内に残したまま続けた。
頼朝「だが……命の危機を目にした時などは、不思議なものよ。
乱れていた心が、かえって一つにまとまる」
夕日が差す障子を見つめながら言う。
頼朝「国も朝廷も、同じかもしれぬ。
公家どもは“朝廷は永遠に続く”と信じて疑わぬ――ゆえにまとまらぬ。
皮肉なものよ。
兼見が申しておったな。
朝廷を滅ぼさんばかりの力を示せば、かえって一つに固まる、と。
命の危機こそが、心を、国を、まとめる……」
阿国「しかし、それで……よろしいのでございますか、頼朝様は」
阿国の声に、沈む影が差した。
良いはずがない……。だが、答える言葉は苦笑に変わった。
頼朝「それにしても――あの食わせ者、吉田兼見が申すことは、いちいちもっともであった。
……今日は、あやつに一枚も二枚も、上手を取られた」
阿国「兼見様のこと、それ程までにお腹立ちで?」
頼朝「いや…」
言葉では否定しても、声には怒りが滲んだ。
頼朝「わしが、本当に腹が立つのは、あの吉田兼見に対してではない。
ままならぬ人の世に対してかもしれぬ。
――何よりも、この己の心よ」
頼朝は掌を見つめた。
頼朝「己が犯した過ち……二度と繰り返さぬと誓った。
己を変えれば、人の世も変わる――
そんな過大な期待を、抱いておったのかもしれぬ。
滅ぼさぬ己を育てたつもりが、現実はどうじゃ。
何も、変わらぬ……。
己が変わったとて、何ができる。
……己など、何一つ……変われておらぬ」
阿国は、頼朝の空になった茶碗に、そっと茶を注いだ。
阿国「頼朝様……」
阿国は静かに口を開く。
■巫女の心
阿国「『力』なき者とは……わたくしのような巫女でございます」
阿国の声は、かすかに震えていた。
阿国「ゆえに、ただ神の御心にすがり、この身を捧げ続けるのでございます。
しかし、神はわたくしたち巫女の意思や、ささやかなる願いなど、お聞き届けになりませぬ。
ただ、神の御心に沿うた時のみ、巫女は自らの足で、現の世を歩むことを、お許しいただけるのでございます。
わたくしが見てきたのは――
祈りが届かぬまま、救われなかった多くの人々……
長き時の流れのなかで、幾度も、幾度も……」
(……長き、時……?)
頼朝の眉がかすかに動いた。
阿国「巫女は、生涯男と交わることを固く禁じられております。
大いなる神のみに身を捧げなくてはなりませぬ。
掟を破れば、巫女の力も、立場も、すべて消え去りましょう」
阿国は頼朝の眼をじっと見た。
その視線は、頼朝の胸を刺すようだった。
阿国は、ゆっくりと頼朝に言葉を投げかけた。
阿国「それでも――
わたくしは、天下静謐の後、鎌倉で頼朝様のお側にありたいと思いました。
巫女を捨ててでも……。
力なき巫女として神に仕え、祈り続け、わたくしにできる、ほんの限られたことを細々と為し続ける以上に……
頼朝様という類まれなる御方に身を捧げ、お仕えすることの方が、どれほど多くの人々を救うことができるでしょうか……
わたくしは、そう思ったのでございます」
阿国の心の揺らぎを感じたのは、卑弥呼の正体を見抜いたあの時以来だった。
頼朝「……ありがたき、想いじゃ」
頼朝は阿国を見る。
頼朝「だが、そなたもまた、このわしを買い被っておる。
わしは変わろうとしたが……何も変わっておらぬ」
阿国は首を振った。
阿国「いいえ。決して、そうではございません」
強い声だった。
■揺らぐ心
阿国「頼朝様はご自身の弱さと、心の奥の“闇”を知っておられる。
だからこそ、常に悩み、苦しまれるのでございます。
それを知らぬ覇者は、ただ暴君となるのみ。
それを恐れ、清らかであろうと覇者になれぬ者は、何も為せず朽ちてゆくのみ。
頼朝様は、そのどちらでもございません」
自らのことや思いの多くを自らは言葉にしない出雲阿国。
阿国自身の言葉を、はじめて耳にしたように思う。
阿国「頼朝様が申される通りでございます。
人の世も、人も、簡単には変わりませぬ。
己を変える事すら難しき事。
そして、神は直接救いの手を差し伸べてはくれませぬ。
悩み、苦しみ、そして進まれた道の先が、果たして本当に正しかったのかどうかは――神のみぞ知る、ということでございましょう。
ですが……頼朝様は深き淵を知りながら、天下を動かす力をも持つ御方。
その御身こそ、神が祝福なさるはずでございます。
頼朝様がかつてのご自身を見つめ、そのお心で信じ、お進みになる道であるからこそ、他の誰よりもきっと正しき道であり、頼朝様にしか進むことのできぬ、唯一の道であるはず……。
この阿国は、それを強く信じております」
阿国は言葉を発すると、力なく平伏する。
このようなか弱き阿国の様子、頼朝ははじめて目にする。
阿国「長く、そして険しき道の途上において、この阿国にできることは、何でも、いたしたく存じます。
……たとえ巫女としての身を捨てることになりましても。
この阿国は、ただひたすらに……頼朝様をお支えしとうございます」
(……!)
出雲阿国という謎多く、何事にも心動かされぬ神秘的な女性――その心の奥底に、はじめて触れたような気がした。
常に、どこか距離を置き、全てを見透かすかのように超然と己のことを見ていた、そのように考えていた存在。
実は、誰よりも近くで、己のことを深く理解し、見守ってくれていたとは……。
目の前の阿国の肩は小さく震えたまま、顔を上げようとしなかった。
頼朝には、その理由は分からない。
ただ、目の前で震える阿国の肩が――なぜか胸を締めつけた。
(……なぜだ。
この震えを、放っておくことが……できなんだ)
気づけば頼朝の腕は、阿国の肩に触れていた。
そのまま引き寄せ――抱き寄せていた。
出雲阿国は、頼朝に導かれるままに、力なく自らを預けるようだった。
頼朝「……阿国殿」
頼朝は、声を詰まらせた。
頼朝「今日ほど、己の愚かさを思い知った日はない。
…許せ」
阿国はその身を委ねるように、頼朝の胸に顔をうずめる。
震えが、頼朝の胸元に細かく伝わる。
頼朝は、その震えを包み込むように腕に力を込めた。
夕映えが障子に朱を落とし、
その光が阿国の頬に、頼朝の胸元に、静かに溶け合った。
茶室に漂う香の余韻が、
二人のあいだに落ち着いた静けさを置いていった。
外では石垣工事の槌音が止み、
遠くの鐘だけが響いていた――。
お読みいただきありがとうございました。
神秘的で超然としていた出雲阿国。
その奥底にある心がはじめて頼朝に触れ、
頼朝もまた、自らの弱さと向き合おうとします。
しかしこの先、
上洛して描いた未来はすべて閉ざされ、
頼朝の心には黒雲が広がり続けます。
次回――
北条早雲と源義経は、徳川家康との接触を試みます。
家康は頼朝の志を理解できるのか。
頼朝軍団を託す器を持ち得るのか。
そして阿国の“巫女としての道”と“女としての道”が
大きく揺らぎはじめていきます。
この後の展開も、どうぞお付き合いくださいませ。




