36-5 頼朝の決意と、ささやかな願い
牛一から一通り話を聞き、頼朝は今のまま多くの武家を守りながら、
時の流れを本来の姿に戻すことを模索する決意を固めた。
そこで頼朝が口にしたのは“家康の臣従”であった。
新たに参謀となった太田牛一も、その言葉に頭を抱え続けることとなる。
■頭を抱える太田牛一
牛一の話を聞き終えた頼朝は、静かにある決意を固めた。
頼朝「牛一殿、先ほど『吾妻鏡』も家康の愛読書の一つと申したな」
牛一「はっ! 兵書や帝王学の書のみならず、史書を通じた歴史の学びにも強い情熱をお持ちの御仁でございました」
頼朝「あの『吾妻鏡』が史書とはのう……。
目を通してみたが、納得のいかぬこと、身に覚えのないことの多い書じゃ」
頼朝は、苦笑した。
頼朝「まあ、良い。
その『吾妻鏡』が、家康と話をするためのきっかけとならぬものだろうか。
例えば――兄に虐げられた悲劇の勇者、実物の義経と話をしてみたいと、家康は思わぬだろうか」
牛一「今のように敵対する状況に無ければ、素直に喜ばれるかと存じますが……」
頼朝は、牛一の言葉にひるまず続けた。
頼朝「内々に家康に使者を立て、今の家康が何を考えておるか見極めたい。
もう信長は家康を助けてはくれぬ。周りもすべて敵に囲まれておる。
何とか話だけでも出来ぬだろうか。
内々の使者に、吾妻鏡で花を咲かせながら散っていった義経、
そして今川家とも深い縁があり、今の後北条家の創始・北条早雲殿、
この二人を家康に差し向けてみたい」
牛一「やってみましょう。
しかし家康様も相当な“たぬき”、初見で真意は明かされますまい……」
頼朝「であろうな……。
しかし、我らが早雲殿も相当なるたぬきじゃ。
新旧の“たぬき”の腹の探り合いも、面白かろう」
頼朝は、わずかに口元をゆるめた。
重い話の中にも、どこか愉快さを滲ませるその姿に、牛一は少し救われた気がした。
弱き時には、強きに対して決して真意を悟られてはならない。
多くの家臣を抱えるようになった後は、多くを語ることはできぬ。
その懐の深さこそが生死を分ける――頼朝は身をもって思い知っていた。
三河一国の弱小大名からのし上がるためには、“たぬき”でなくてはならない。
頼朝「今の世の家康がどれほどの人物か――牛一殿の申す通りの器の大きな人物か、
それともこの世では成長の機会を失い未熟なままか――早雲殿と義経の二人に見極めさせよ。
早雲殿がふさわしき人物と判断したならば、我らへの臣従を家康に伝えよ」
牛一「臣従!……でございますか?」
家康に会うことすら難儀と思っていたところに、さらに臣従を伝えるという唐突な頼朝の言葉。
さすがの牛一も、面食らっていた。
*家康に臣従を詰め寄る、北条早雲と源義経の姿を想像する、太田牛一
頼朝「形ばかりの同盟を結ぶだけでは、家康を後継とすることはできぬ。
臣従して、軍団の一員とならねば、継がせられぬ。
“惣無事令”は理念だけで保てぬ。
この世を秩序づけるには、誰かが責を負う“中心”と“仕組み”が必要だ。
それを教えてくれたのはそなたじゃ、牛一殿。
同盟は絆を結ぶが、責任は分散する。
ゆえに、臣従――これがただ一つ、秩序を形にできる道なのだ」
牛一は息を呑んだ。
頼朝の言葉には、かつて鎌倉を創った男の覚悟と、今を生きる者としての苦渋があった。
頼朝「それが叶ったならば、我が養女を嫁がせ、後継者として、いずれこの軍団を任せる……」
参謀になったばかりの牛一は、明らかに頭を抱えていた。
頼朝「わしが無茶を申すと心配せずとも良い、牛一殿。
臣従しろと申して、すぐに良き返事が来るとは思っておらぬ。
二つ返事で臣従されても、それはそれで器量を疑う。
まずは有力な選択肢の一つとして、家康の臣従を模索してみようぞ。
他にふさわしき人物、時の流れを戻せる者が現れぬ限り、我が軍団にとって最も重要なことと心得よ」
牛一「ははっ! かしこまりましてございます!」
その声には、困惑の中にもどこか高揚が混じっていた。
頼朝の無茶は、理と覚悟に裏打ちされている。
ただ命じる主ではなく、共に責を負う覚悟を持つ男――牛一はそう感じていた。
牛一「頼朝様が申されます通り、最も有力な選択肢として、精いっぱい模索いたしましょう。
ただちに、安土の早雲殿のもとへ、某自ら話をして参ります!」
頼朝「頼んだぞ、牛一殿」
牛一「はっ!」
太田牛一は、足早に茶室を退出していった。
襖が閉じると同時に、外の風がわずかに吹き込み、香炉の煙がゆらめいた。
頼朝はその細い煙を目で追いながら、ゆっくりと息を吐いた。
■阿国と語る夢
頼朝は、茶室に残った出雲阿国へと向き直った。
頼朝「……さて、阿国殿。これで、良かったのであろうか」
頼朝の言葉に、阿国は微笑みながらも、意地悪そうな表情を浮かべた。
阿国「わたくしにそれを聞いて、どうされるおつもりですか?
頼朝様ご自身が強く決意をされたお考え、そのように拝見しておりましたが」
頼朝「はっはっは、柔らかき声色で刀の如き厳しさよ!」
阿国「そのようなことは決して……。
わたくし自身は、先ほどの頼朝様のお話、すべて合点が参っております。
しかし、頼朝様自らがこの時代の王となり、日ノ本を導かれないのですか?」
静かに返す阿国の言葉に、頼朝は苦笑した。
頼朝「そなたも早雲殿や家康のごとく、何が戯言で何が本気か、わしには分からぬ」
それでも、阿国に悪意が微塵もないことは頼朝には分かっていた。
その声には、人を試すようでいて、包み込むような温かさがある。
謎かけのような阿国の言葉ではあるが――何を返そうと、阿国はすべてを見通し、そして受け入れる。
その安心が、頼朝にはあった。
同時に、自らが考える以上の慧眼を阿国は持っているのではないかと感じることもある。
しかし、あえて阿国は多くを語らない。
頼朝は、阿国が点てた茶を再び味わった。
湯気が立ちのぼり、淡く光の中に溶けてゆく。
阿国「わたくしも、頼朝様が申された“命をつなげ、時の流れを可能な限り今を生きる者たちに戻す”――そのお考えが好きでございます。
それに……徳川様の治世が今の“世”においても実現するのであれば、多くの武家も民も生き、太平の世となりましょう」
頼朝「まことにそのように思うか。心強く思う」
頼朝は、茶碗をそっと置き、あらためて息をついた。
牛一の前で見せていた苦しそうな顔つきは、和らいでいた。
頼朝「朝廷を動かし、家康を後継とし……今の世でわしができることを成し遂げた後には……
遠き故郷・鎌倉に移り、散っていった多くの者たちを弔いながら、静かに余生を過ごしたいものじゃ。
『源頼朝』という前世の名は不要。人々の記憶から、薄れさせるのが良かろう」
頼朝は、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
頼朝「……阿国殿も、鎌倉へ来てはもらえぬだろうか」
頼朝自身が用意していた言葉ではなかった。
話の流れから、自然に言葉が口からこぼれた。
阿国「まあ……!」
阿国は嬉しそうに目を見開いたが、すぐにいつもの静かな阿国に戻る。
阿国「なんと、光栄なお話でございましょう」
阿国は、意地悪そうな顔をしながらも笑顔で言葉を続けた。
阿国「……その際には、わたくしも古の巫女『ヒミコ』ではなく、
ただの『出雲阿国』として、いつまでも頼朝様のお傍にて過ごしたく存じまする……」
頼朝「……それは実に嬉しき話ではあるが……そなたの仕える大いなる神から、わしが罰を受けてしまいそうじゃな」
頼朝は、愉快に笑った。
笑い声が、茶室に一瞬だけ春のような温もりを残した。
己の心の奥底で、無意識に目をそらしていたのであろうか。
阿国からの言葉を耳にし、頼朝はある種の“揺らぎ”を感じずにはいられなかった。
そんな頼朝の微かな心の動きさえも、すべて見透かしているかのように、
阿国は優しい微笑みを変えぬまま、頼朝に言葉を返した。
阿国「頼朝様。難しき“天下静謐”を成し遂げられるまでは、祈りを止めるわけには参りませぬ」
頼朝は小さく笑い、茶をすすった。
頼朝「……そうじゃのう」
頼朝は、静かに茶碗を置いた。
その瞳には、遠い記憶の桜が一瞬だけ映ったように見えた。
頼朝「まずは、目の前にある大きな難問の数々を、一つずつ、乗り越えていかねば……」
京の朝廷を動かし、惣無事令を発布させ、日ノ本に真の静謐をもたらす。
それが実現せねば、徳川家康のことも、そして遠い故郷・鎌倉で静かに過ごすささやかな願いも、ただの夢物語となる。
お読みいただきありがとうございました。
上洛して以降、軍団と己が進むべき道を定めた頼朝でしたが、その道は容易ではありません。
この後は、広がりゆく軍団の内部問題、朝廷との折衝、
そして徳川は素直に臣従するはずもなく……。
前だけを見て進んできた頼朝軍団に、あらたな難題が降り注ぎます。
そして――決意をかためた頼朝の心にも、巫女として超然としていた阿国の心にも、
嵐が訪れることとなります。
この後の展開も、どうぞおつきあいくださいませ。




