36-3 太田牛一の見た“天下静謐”
築城中の二条城で、頼朝は太田牛一と語る。
家臣たちの心が刻まれた二条城の茶室にて、
出雲阿国が点てる香ばしい茶を前に、
頼朝は“天下静謐”という理想の難しさを、
あらためて思い知ることになる――。
■職人の心と、阿国の心
二条城の茶室は、築城の最中ながら外交の場としていち早く完成していた。
武と政のための城として、無駄な虚飾はなくとも、
柱の一本、畳の一枚にまで職人たちの魂が宿っているようだった。
頼朝は出雲阿国の点てる茶を前に、筆頭家老羽柴秀長の推挙で新たに参謀となった太田牛一と向き合っていた。
湯気に乗って立ちのぼる香のかすかな甘みが、冬の冷たい空気をやわらかく包む。
太田牛一――。
本来の歴史では信長・秀吉・家康の三代に仕え、戦にも通じ、筆を執って歴史を記した武人。
そして、江戸の世を知る者として未来から召喚された“証人”のひとりでもある。
頼朝「この茶室、胸を張って公家たちを迎えられる。
公家に媚びることも、雅を知らぬと蔑まれることもあるまい。
よくぞここまで仕上げてくれた、牛一殿。」
牛一「恐れ入ります。早くに赴任した家臣たちが、見事に働いてくれました。」
牛一は功を誇らず、静かに頭を下げた。
その仕草に、頼朝は数多くの戦場や、多くの覇者たちとの関わりを通して培われた、男の誠実さを見た。
牛一「そして……阿国殿の茶、まことに見事にございます。
京の一流の茶師にも劣らぬ香と味、これほどの一服は久しくござらぬ。」
阿国「まあ、牛一様。お褒めいただき、光栄にございます。」
阿国は静かに微笑んだ。
その仕草にはどこか現離れた温かみがあり、
茶室の空気をやさしく包み込んだ。
阿国「美濃におりましても、京の茶葉は商人を通じて手に入れておりました。
けれど、ここ京の地で手にする茶は、香りも味わいもまるで違いますね。」
牛一「いえ、茶とは、入れる者の心を映すもの。
この一服の味わいは、茶葉の違いではありませぬ。」
頼朝は茶を口にし、静かに瞼を閉じた。
言葉では説明できぬ、穏やかでありながら不思議な広がりがある。
彼女が人の理を超えた存在であるからであろうか――。
■頼朝の問い
頼朝は茶碗をそっと置き、ふと息をついた。
障子の外では、まだ普請の音がかすかに響いている。
新しい世が築かれていく音――それは、戦の喧噪とはまるで違う響きだった。
頼朝「……牛一殿。そなたに、どうしても尋ねたいことがある。」
頼朝の声には、迷いと決意が同居していた。
頼朝「わしは“未来のため”と称し、この時代の流れを変えてしまった。
もし我らが存在せねば、今ごろ信長は滅び、
秀長の兄・秀吉が関白として“惣無事令”を発していたという。
わしらの戦で救われた命も多いだろうが……同時に、散った命も数知れぬ。
償うつもりであるが、その“罪”は消えぬ。
織田は力を失ったが、また新たに戦う者が現れぬとも限らぬ。
真の静謐を、模索せねばならぬ。」
牛一は静かに耳を傾けていた。
頼朝の言葉には、深い苦悩が滲んでいた。
頼朝「秀吉は“惣無事令”を発布したが、やがて世は再び乱れ、
家康が幕府を開いたと聞く。
……わしは“惣無事令”で天下が静まるとは思わぬ。
だが、武家を滅ぼさず未来へつなぐためには、それが最善と信じておる。
牛一殿は多くをその目に収め、書に残してきた。
思うところを聞かせてはもらえぬか。」
頼朝の視線は真っすぐに牛一の目を射抜いていた。
■惣無事令と覇者
牛一「惣無事令……。
太閤殿下――秀吉公が関白となり発した大名同士の戦を禁じるお触れ。
『天下静謐のため、万民安楽を期すべし』
惣無事令の条文に、自らの筆でこの言葉を入れられました。
その理念は、頼朝様が掲げる理想と同じものでございます。」
頼朝「そうか。あの秀吉も……同じ想いを抱いておったか。」
牛一「はっ。当初の秀吉公は、まさに、頼朝様が仰せの“真の静謐”、民の幸せを理想としておりました。」
頼朝は一口の茶を飲み干し、静かに目を伏せた。
“当初は”――牛一のその言葉が、心に残った。
牛一「しかし、時とともに人は変わります。
秀吉公は晩年、ご子息を得られてから、お心を曇らせられた。
愛情が猜疑へと転じ、親族や側近までも粛清され……。
惣無事令を掲げたご本人が、自ら国を挙げて隣国への戦を起こすようになられた。
天下静謐の象徴たる秀吉公が、自らその秩序を壊されたのです。」
障子越しに差し込む光が、牛一の横顔を照らした。
その眼差しには、事実を知る者の静けさと重さがあった。
頼朝「猜疑で心を曇らせ、身内を粛清したか……。」
頼朝の胸に、鎌倉での己の記憶が蘇った。
義経、そして多くの御家人たち――手にかけた者たちの顔が浮かぶ。
“大義”の名のもとに、猜疑心と恐怖から自らの心を巣食った闇、再び頼朝の心の奥でざわめいた。
頼朝「……わしも、同じであったのかもしれぬ。」
阿国は、静かにその様子を見つめていた。
その眼差しは、頼朝の心の揺らぎを見通したように、静かで暖かかった。
頼朝「人による、人の統治とは、恐ろしきものかもしれぬ。」
牛一「まさに。秀吉公の天下静謐は、秀吉公その人の力によるものでした。
ゆえに、個が変われば、世もまた揺らぐ。
――そして、その不安定さを封じたのが、徳川家康殿にございます。」
頼朝「徳川家康……か。
わしが一番聞きたかったのは、その男のことじゃ。」
牛一は深く頷いた。
鎌倉の最期を知り、そして天下の覇者を間近で見てきた牛一の言葉は、
ひとつひとつが頼朝の心に重く響いていた。
お読みいただきありがとうございました。
過去の己と決別し、新たな理想を掲げた頼朝。
しかし、その道がかつて秀吉の歩んだ道と重なり、
やがて崩れ去ったと知ることは、彼にとって避けがたい痛みでした。
“理想”と“人の弱さ”――その両方を知る者だけが、真の“天下静謐”を語れるのかもしれません。
次回、太平の世を築いた徳川家康の真意を聞き、
頼朝は軍団の新たな使命を見出します。
どうぞ次章もお楽しみに。




