35-1 ある那加城の夜――弟との語らい――
那加城は、あらたな年を迎えるとともに、上洛に向けて動き出していた。
長く続いた戦を経て、頼朝の軍団は、ついに天下静謐へと歩み出す。
その夜――出立を前にして、兄・頼朝と弟・義経は、静かに盃を交わした。
かつて、互いに刃を交えた兄弟。
しかし、いまの二人の間にあるのは、憎しみでも、猜疑でもない。
それは、時を越えてようやく辿りついた、赦しと信頼の盃だった。
■兄弟の盃
天正十五年(1587年)初頭。
頼朝一行が長年の拠点・那加城から京・二条城への出立準備を整えつつあった。
ある夜、頼朝は弟・義経と、二人きりでしばしの別れの盃を交わしていた。
義経「いよいよ上洛でござるな、兄上」
義経が、どこか寂しげに、しかし力強く言った。
頼朝「うむ。上洛には、そなたの片腕・阿国殿までも連れて参ることになった。迷惑をかける」
義経「兄上、そのようなことはお気になさらぬよう」
義経は首を振った。
義経「里も有能な副官となりましょう。東国の守りは万全にいたしますゆえ、兄上は京での政に専念くだされ」
頼朝「そなたを新たに支える者が必要じゃ。いつでも申すがよい」
義経「では困った際は、部隊長を解任いただき、妻・梓の部隊の副将でも願い出るといたしますかな!」
義経は冗談めかして笑った。
頼朝「義経ほどの男が、梓の女房役がそれほどまでに望みか! はっはっは」
頼朝も声を上げて笑った。
義経「実を申せば、兄上……近ごろの拙者は戦場で冴えませぬ。北近江で首がつながったのも、梓や阿国殿のおかげ。あの女将たちには頭が上がらぬ」
義経は照れたように言った。
義経「実は、拙者からも兄上にお願いがございます。
当家に臣従された一色義満道殿の娘、兄上の養女・宝殿のこと。あらゆる兵法書にも明るい才女と聞き及びます。彼女を我が隊の新たな副将として迎えることを、お許しくださりませぬか」
頼朝「ほう、あの宝殿をか。それは良い考えじゃ」
頼朝は頷いた。
頼朝「あの子はどこか不思議な女子じゃが、光るものを感じておる。――よかろう、義経。そなたに任せる」
*一色家から頼朝の養女として、那加城に到着した時の源(一色)宝
義経「ありがとうございます、兄上!」
義経は顔を輝かせた。
義経「兄上の都行きの後は、里と宝殿を私が預かります! どうかご安心を」
やがて義経は、ふと真剣な表情に戻った。
義経「それにしても兄上……やはり拙者は、兄上のことが気がかりでなりませぬ。先のこともございました。どうかお体には、くれぐれも障りなきよう」
頼朝「案ずるな、義経。わしがこの程度でくたばるような男に見えるか」
頼朝は笑った。
頼朝「わしへの心配など無用じゃ」
義経「……」
義経はそれでも、どこか納得のいかぬ、不安げな表情を浮かべている。
■義経への言葉
頼朝「……しかし、義経よ」
頼朝は弟の気持ちを察しながら、決意を込めて言った。
頼朝「万が一ということもある。わしの身に何かあれば……この軍団は、そなたがまとめ上げよ」
義経「兄上……!?」
頼朝「聞け、義経。
安土城代となった桜は、優れた武人、そして将へと育っておる。その器量も申し分ない。あの名将・北条早雲殿に手ずから育てられたのだ。じゃが……」
頼朝は言葉を切った。
頼朝「桜は上杉景虎殿と仲睦まじく過ごしているとも聞く。……それは父として喜ばしい。
我が軍団は短い間に大きくなり過ぎた。日ノ本に影響を及ぼすほどの巨大な軍団となってしもうた。一つにまとめ率いていくことは、並大抵ではない。
今は朝廷に奏上し、勅許を得て惣無事令を発布する――同じ方向を向いておるからよい。
だが、問題はこの後。ひとたび脅威が去れば、必ずや軍団の内に諍いが生まれよう。権力争いから暗殺の危険とも、常に隣り合わせ。
……そのような危きことを、わしは桜にはさせたくはないのだ。
――父としての身勝手な“娘をただ守りたい”という愚かな兄の願いのために、弟を犠牲とする……。
鎌倉においても、この時代においても、わしはそなたを犠牲にし続ける。……まこと酷き兄よ……」
*頼朝の願い、桜を守る義経
義経「はっはっは!」
俯きがちな頼朝の表情を打ち消すように、義経は声を上げて笑った。
義経「兄上! それは違いまするぞ。
今の兄上は、こうして娘御や我ら家臣を何よりも大切に思い、そのために心を砕いておられる。今の兄上には温かい人の血が流れておりまする!
かつては決して人を信じなかった兄上が、今や有能な家臣の言葉に真摯に耳を傾け、頼るべきところは素直に頼り、その上でご自身でも深く考え、我らも驚く勇断をなされる。
そして、戦においても実に強い!」
義経は兄の目をまっすぐに見据えた。
義経「いにしえの周の桓公にも匹敵する、まことの名君であられますぞ、今の兄上は!
そのような兄上のために身を投ずるのは、拙者の喜びでござる!」
頼朝「……義経まで、このわしを買い被るか」
頼朝は照れたように言った。
義経「買い被っているのは兄上の方でござる。拙者などに、家臣はついてきませぬぞ……」
鎌倉の昔、義経に追討令が下ったとき、最後まで共にあった者はわずかであった。
頼朝は、義経がその記憶を口にしているのだと悟った。
頼朝「実はな、義経……わしが言いたかったのは子煩悩な父の話だけではない。
義経が“わしが変わった”と言ってくれるが、変わったのは――義経、そなた自身よ」
義経「……え?」
頼朝「かつての、ただ猛々しいばかりであった義経であれば、わしもこの軍団を安心しては任せられなかったやもしれぬ。
だが今のそなたは違う。必ずやこの軍団を正しく導いてくれる。わしはそう確信しておるのじゃ。
……愚かな兄ではあるが、どうかこの言葉を信じてはくれまいか」
義経「……兄上がそこまで仰せられるのであれば――」
義経はしばし考え込み、静かに、しかし決意を込めて頷いた。
義経「承知いたしました。“万が一”の覚悟だけは、しておくといたしましょう。
ですが……その『万が一』など無きよう、伏して、伏して、お願い申し上げまする!」
頼朝「うむ。それを聞いて安心したぞ、義経」
頼朝は心からの安堵の表情を浮かべた。
頼朝「これで心置きなく、京での務めに力を尽くすことができるというものよ」
――今宵、いったいどれほどの時を、義経と二人でこうして盃を交わしたことであろうか。
――かつて、刃を向け合った兄弟が、
いまはただ、互いを思いやる“人”として過ごした静かな夜。
頼朝は、鎌倉の時のみならず、戦国の世においても犠牲を厭わぬ覚悟で――
弟に己の真意を打ち明け、義経はそのすべてを受け入れました。
まだ語り尽くせぬ想いを胸に、
二人は、もうひとつの盃を満たしてゆきます。
次章、「兄弟の絆」――
この後も是非お付き合いください!




