0-1 奥州征伐の決意と葛藤 ――そして“黒雲”の森へ
泰衡の密書が届き、奥州征伐が動き出す。大義を掲げる頼朝の胸に芽生えた迷いとは——?
奥州藤原氏当主・藤原泰衡より、鎌倉へ密書が届いた。
長く続けてきた圧力の末、泰衡がついに屈し、平泉に潜伏中の弟・義経を討つ意向を伝えてきたのだ。
(これで万事、目論見どおりに運ぶ……)
頼朝は報告を聞きながら馬上にあり、手綱を握る手に力がこもった。
奥州藤原氏に義経追討の圧力をかけ続けた真の目的――それは、強大な独立勢力である奥州藤原氏そのものを征伐するための“大義名分”を得ることにある。泰衡が義経に手をかける、という事実は、その大義をつくり出す上で不可欠だった。
この奥州征伐は、日ノ本一統に向けた総仕上げとなる。
そのためなら、実の弟の命すら犠牲にする――頼朝は、そう心得ていた。犠牲なくして大義は成らぬ。武家の棟梁として当然の覚悟である。
父の仇である平家を討ち滅ぼし、幾度も命の危機をくぐり抜け、武家による新たな時代を築くという理想に燃えて、ようやく辿りついたこの頂。
数えきれぬ裏切りを受けながら、自らも謀略を尽くし、血の道を歩んできた。その一つ一つの決断――時に冷酷と謗られようとも――が、強き鎌倉を築き、多くの民が安寧に暮らす道を開くのだ、と信じている。
そう、信じてきた。
ところが今、心の奥底から自分に問いかける声がある。
(お前は本当に“大義”のために決断したのか……?)
多くの裏切りに晒され、権力闘争の非情さを骨身に染みるほど味わった。
その恐怖から逃れ、ただ己を守るためだけに、惨い決断を下してきたのではないか。
かつて、弱き立場ゆえに味わった怒りや怯え、憎しみ、屈辱――それらが武家の棟梁となった今も形を変え、心に巣食っているのではないのか。
(どこまで力を得れば、この不安から解放される?
この世のすべてを滅ぼし尽くさねば、安息は得られぬのか……?)
「黙れ!」
思わず声が漏れる。馬を進める己を、供まわりの者が怪訝に思ったかもしれない。
一度下した決断を振り返るなど、武家の棟梁たる者の罪。覚悟なくして、この重責は務まらない。これまで幾多の危機に臆することなく立ち向かってきたではないか。もし臆病風に吹かれていたら、ここまで来られるはずもなかった。
それでも、内なる声はさらに大きく響く。
(義経と再会したとき、あれほど心から喜んでいたではないか。
それが今や排除すべき危険分子だと……?
義経は本当に反旗を翻そうとしていたのか?
あるいは、そう仕向けたのは己なのでは?
義経は、本当に死なねばならなかったのか……?)
(お前は――義経が恐ろしかったのではないか……?)
心の揺らぎはいつしか身体的な苦痛を伴うほどの波となり、内臓を掻き乱していく。
義経の死がいよいよ避けられぬ現実となるにつれ、閉ざしたはずの感情の扉を激しく叩くのだろうか。
鷹狩りを終え、なお馬上にある。
頼朝は不意に込み上げた遣る瀬なさに突き動かされるよう、強く息を吐いて天を仰いだ。
そこで、空の異変に気づく。
まるで己の心の内のように、黒雲が激しく渦を巻き、蠢いている。尋常ならざる気配。
(何かが……起きる)
そう直感した次の瞬間、意識が遠のいた。
***
今まで感じたことのない、冷たく、それでいてどこか優しい風が肌を撫でる。
周囲の木々は鎌倉や伊豆の森と大差ないはずなのに、この風だけは明らかに違っていた。
気がつくと、供の武者たちも、そして馬もいない。
頼朝はただ一人、鬱蒼とした森の中に佇んでいた。
不思議と焦りは湧かない。むしろ、近頃は得られなかった深い静寂が、ささくれ立った心を優しく包み込むようだ。
(これは……もしや、己の死に際か?)
だからこそ、振り返らないと決めていた過去に思いを馳せ、殺すはずの弟の命の重さを今さら感じ始めているのかもしれない。そう考えると、妙に合点がいった。自らの所業を悔いながら終焉を迎えるとは、なんと皮肉な一生であったか。
ふと気配を感じ、顔を上げると、森の奥から一組の男女が近づいてくる。
敵意はないように思える。
女のほうは見慣れない異国風の装束だが、どこか凛とした立ち姿で、まるで女武者のようにも見える。
隣の男は武者鎧に身を固め、その全身からは女を護ろうとする鋭い気が放たれていた。
男の顔を見て、頼朝は驚愕する。
その眼光……よく知るものだ。
(義経……!?)
ここは奥州か? 泰衡の罠か?
咄嗟に腰に手を伸ばすが、佩刀がない。
全身を緊張させ、最大限の警戒心をもって彼らを迎え撃つ以外に術はなかった。
お読みくださりありがとうございます! 兄弟の運命が動き始めました。次話では“黒雲の森”で頼朝がまさかの人物と対峙します。ご感想や疑問など、ぜひお気軽にお寄せください。