ゴブ子
怠界から物界へ入ったすぐの場所で、一人のゴブリンの少女が熊の魔獣に襲われていた。
「だ、誰か〜」
熊の魔獣から必死に逃げ回りながら、
たとえそれが無駄だとわかっていても、藁にもすがる思いで周りに助けを求めた。
他に誰もいないことは自分が一番良く知っていたというのに。
ずっとここまで、一人で来たのだから。
そのゴブリンの少女は貴重な花を見たと言う嘘か真かもわからない言葉を信じてここまでやってきた。
町からこんなに離れた場所まで勇気を振り絞って、採りに来ていた。
戦闘に長けた仲間を雇っていれば…と、後悔した。
…しかしもともと雇えるだけのお金など持ち合わせていなかった。
無かったから、一人で来たのだ。
「ゴァァアアアッ!」
「ひっ」
熊の大きな口、牙が覗く。
さっきから涎を垂らしている。
もうただの食べ物としてしか見られていない。
話せばわかるとも思えない。
こうなっては、もとより交渉など無駄なのだ。
いよいよゴブ子の息は上がり、くたびれ果てて立ち止まる。
太い腕と大きな爪が、眼前に迫った。
緩やかに流れる時を感じながら、
ああきっと、ゴブ子なんか粉々に打ち砕かれてしまうのです。
何もできない、頼りにならない長女でごめんなさいです…
ゴブ子は諦めて、目を閉じた。
「っ………?」
しかしその鋭い爪がその身に当たることはなかった。
恐る恐る目を開くと…
目の前に立っていたのは熊ではなく、少し大きな背中だった。
「あ、え?」
戸惑いながらその背中の先を見ると、
首と腕の無い熊の亡骸がそのままの姿勢で立っていた。
「大丈夫?」
「っ?!」
振り返る顔を見て、ゴブ子の胸は打ち砕かれた。
「キュゥ」
そして変な声を出して一度倒れた。
物界を連れ立って歩く三つの姿。
その大きさは大中小。
「このゴブ子が、町まで案内しますです」
中はゴブ子、小はナビだ。
「…私がいるので、案内は特に必要ないと思いますが…まあ、町のゴブリンと一緒の方が、何かと無駄に警戒されずに済むかもしれませんね。大きな町ですし、マモナス様の言葉が伝わらない場所もあるやもしれませんからねぇ」
「町はまだ先?」
「はいです、まだもう少し歩かなくてはなりませんです。暗くなる前には到着できると思うのです」
「でも本当に珍しいですよ。ゴブリンがこんな端の端まで、それも単独で来るなんて」
「…はいです。この辺りに貴重な花が咲いていたと聞いて…ここしばらくは怠界から熊の魔獣が来る姿もめっきり減っていたので、思いきって遠出して採りにきたのです」
「いやいや、だからと言って、いくら何でも一人は危険でしょうに。 全然戦闘タイプではないですよねあなた。視るまでもなくわかりますよ」
「…ゴブ子は薬事が専門なのです」
「薬事というと、じゃあその採りに来た花も、何かの薬を作るために?」
「その通りなのです。とても優れた効能の薬、万能薬の原料の一つなのです」
「へぇ、万能薬。それは凄そうだね」
「はいなのです! すごく、ものすごく貴重なのです!!」
「それで、肝心のその花は見つかったんですか? 手に何も持っていませんけど」
「…どこにも見当たらなかったのです。 …探すのに夢中になって、それで熊の魔獣に気づくのも遅れてしまって、後は必死に逃げ回っていたのです。 …薬の材料を探しに来て、命を落とすところだったのです…」
「薬の原料を採りにきて命を落とすって、本末転倒なんじゃ無いですか?」
「…はいなのです」
クゥ〜、と、可愛らしい音が響く。
ゴブ子は歩きながらお腹を抑え、少し恥ずかしそうに俯いた。
お腹が空いたのだろう。
「…この辺りで、少し休憩にしようか。新鮮な熊肉も手に入ったし、一部を焼いて食べよう」
火をおこし、慣れた手つきで熊肉をこんがりと焼いていく。
その香ばしい香りがより食欲を煽り、ゴブ子のお腹はより大きく鳴いた。
「っ!!」
ゴブ子は少し尖った耳の先まで真っ赤に染めて再び俯いた。
「はい、どうぞ」
手渡された串肉を控えめに頬張る、すぐ次の一口は大きくなった。
「っ!! 美味しいのです!」
「はい、ナビも。頬の肉は美味しいよ、食べてみて」
「私は…まあ、はい。せっかくなので頂きます。 っ!! …熊肉の串焼きはすでにデータにあるものと思って油断していました…なるほど、奥深い。部位が違えば、それなりに味も食感も変わるのですねぇ…ふぅむ。美味しい、と言わざるをえません」
ナビは感心しながら満足気に頬張る。
お腹がいっぱいになったゴブ子は緊張から解放されたこともあってか、少しウトウトとしながら、その瞼が今にも閉じそうに…姿勢もまた、ゆらゆらとおぼつかない。
「ふぁ? あ、ゴブ子は大丈夫なのです、行きましょう」
「食べてすぐに動くのも良くないから、もう少し休憩しよう。少し横に」
横になる姿に釣られ、少し遠慮していたゴブ子もおずおずと寝そべる。
そして一度横になるとあっという間に眠ってしまった。
…きっと自分が思う以上に、相当疲れていたのだろう。
「…町から大分離れてますし。その足でここまで来るのは、相当体力を使ったのでしょうね。道中気も使ったことでしょう。 …不確かな情報に踊らされただけのように思えますが」
「そこまでしてでも万能薬を作りたかった理由があるんだろうけどね」
「万能薬は貴重ですよ。それは当然、ゴブリンたちの町でも。一つでも作って売れば、しばらくは安泰となるくらいには高価なものです。実際材料が揃っても作れる技能を持った薬師自体が、そう多くはいないでしょう」
「そうなると、ゴブ子は結構優秀な薬師なんだ」
「ええ、そう思われますね。 …作れると言うのが事実であれば、ですが」
「万能薬の作り方、みたいなものはナビは知らないの?」
「…私は知りません。向こうのナビならあるいは、その知識があるかもしれませんね。 …私は基本的に、他のナビの得た知識まで無闇に知ろうとは思いませんので。まあ興味がおありなら、あちらのナビに聞いたらきっと教えてはくれるでしょう。ちょっとインテリなんですよね、ゴブリンのところのナビ」
「ナビ同士、知識や情報の公開に拒否権のようなものは無いの?」
「…基本的には。 実際それぞれ繋がっている目ですし。プライバシーを求めるのはナンセンスですね。ただ…それぞれの体験を情報として共有することはできますが…だからと言って、共感しているとまでは言えないのかもしれません。 先ほどの…私があなたの串焼きを食べて得た、あの感動までは伝わってはいないかも。 …せいぜいのところ、熊肉の串焼きを食べると香ばしくて美味しい、その頬の肉は更に味と食感に深みが増す…ぐらいの情報量なのではないかと。 …実際に味わったこの感動そのものが伝わっているとは思えません。いやぁそれにしても本当に美味しかったですよ。 …また機会があれば是非」
「気に入ったのなら何よりだよ、また今度ね」
「はい、楽しみにしています」
…これは私が受けた感動であり、私だけの情報であると、言えるのかもしれません。
「他のナビにも、それぞれ個性があったりする?」
「う〜ん、どうでしょうね。個性、ですか…見た目、で言えばみんなほとんど変わらないですし、同じですけども…ああ、でもリリス様のナビはピンクのリボンをつけてますね。リリス様がそうしたようです。自分のナビは自分専用に、みたいなことを言っていた気もします。そう言った意味では他と区別はしやすいですね。まあそれも、リボンを取ったらわからないでしょうけど」
「ナビも何かつけたい?」
「つけたい、とは特に思いません。ただ、魔王様の…あなたのご要望とあらば、差別化を望むのであればご自由にして頂いて構いませんし、断りもしませんよ」
…今は手持ちが無いから、町で何か探してみよう。
「そうそう、個性と呼んでいいのかはわかりませんが、これから会うナビは知識のサーチを得意としています。得意というか…貪欲というか。対象の持っている知識をサーチして蒐集するのが趣味なんです。他と比べるとちょっとインテリ寄りなナビかと。許可もなくその知識を吸い出したりするので、一応気をつけてくださいね」
「気をつけるって、具体的にどう?」
「視線をかわすとか、怪しい視線を感じたら身を隠す、とか」
「…それって結構難易度高くない?」
「ははは。それと話は変わりますが、少し私から一つ聞いても構いませんか?」
「? もちろんいいよ」
「…どうしてこのゴブリン、ゴブ子を助けたんですか?」
ナビは寝息をたてお腹を掻きながら無防備に眠っているゴブ子を見る。
「どうして? って、助けを求めていたからだけど」
「…それはゴブ子が助けの言葉を口にしただけですよね? …率直に言いますが、命の価値を言えばあの熊も等しいのではないでしょうか?」
…そう、この星ではそう、だ。
むしろ単純な強さで言えば熊の魔獣の方が優っている、つまり見方を変えれば熊の方の価値が高いまである。
「それはまあ…ナビの言う通りかもね」
「この星では、食べ合う事が基本であり…そして摂理です。ゴブリンが熊に食べられることもあれば、反対に熊を狩ってゴブリンたちが食べることもあるでしょう。 …では仮にその両方があなたに助けを求めたら、その意思を示したら、あなたはどうするのですか? どちらを助けるのですか?」
「……それは今のところ、自分にもわからないかな。 …今のように、少し親しくなったゴブ子が助けを求めたら、ゴブ子を助けると思うけどね」
「それは熊が、言葉を話さないからですか? レッドベアー様はある程度意思の疎通は可能でした。 彼が仮に助けを求めたら…あなたは助けましたか?」
「…それも何とも言えない。そうかもしれない、としか。 …その時のレッドベアーの相手は、リリス?」
「…リリス様がレッドベアー様を屠った時、助けを求めるようなことはありませんでした。 …だからゴブリンたちは少し、変わってます。 …それに、助けを求めたからと言って、助かることなんて本来無いんですから」
「ナビは仕えていたそのレッドベアーが負けて、悲しかった?」
「いえ、私たちはそういった感情は持ち合わせていませんので。 …確かに使えてはいましたが、その後すぐにリリス様の命でリリン様に使えましたし…そして今はこの通り、リリン様からあなた、魔王グリ様に使えていますから。 それで特に、変わる毎に悲しいとか、そう言ったものは一切ございません。仮にまた別の誰かに使えることになったとしても、その時は…その時です」
そう言い切ったナビだったが、
有るか無いかもわからないその胸中に、何かが…何かが引っ掛かっていた。
口にする必要のない食べ物を口にしたからだろうか?
それに付随する味という感動を、知ったからだろうか?
…わからない。
…ただ、それであの頬肉の串焼きを食べられなくなるのは、少し残念に思う…気がした。
いや、でもそれも、また別の誰かに作って貰えばそれでいい。
それでいい…はずだ。
「…もう起きるみたいですよ。 …そろそろ再開しましょう」
モゾモゾと動くゴブ子を見てナビは話を終わらせた。
この星から生まれる命は、すべて等価。
…いや、厳密に言うとそれは少し違っていた。
ナビにとって、自分が仕えている存在以外は等価であった。
自分を生み出し、魔王たちに使える命を与えた存在以外は、全て等価であって…
無価値。
…そのはずだった。
今目の前にいる、グリと名乗るこの魔王も、
ナビにとっては、命令によって使えている存在に過ぎない。
…ただ、それだけの相手。
目を覚まし、元気いっぱいになったゴブ子と並んで歩くグリの背を、少し離れてナビは眺める。
ナビの元へ密かに通信が入った。
魔王グリとその仲間たちの動向を注視するように、
監視の警戒度を高めるように…と。
…この星で唯一仕えている、本来の主人から。




