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妖姫妃

吹き飛ばされていた虚屍(キョンシー)の片腕は、本体を失ってなお形を保っていた。

それはまるでトカゲの尻尾きりのように、虚屍キョンシーは僅かに残ったその力の全てを腕に残していた。

そしてその腕はある場所を目指しながら進んでいた。

自身の眠っていた帝都の跡地からはさらに少し、離れたところにある、

そこにひっそりと、隠れるようにもう一つの墳墓があった。

その位置を正確に知るものは少ない。当時の皇帝か、あるいはそれにごく近しい存在たちのみ。

それは隠匿された地、でもあった。

そこに埋葬されていたのは古びた壺が、一つだけ。

決して解くことなかれ、と、古の言葉でそう記されている。

現在の人間には読めない文字。かなり古い文字。

本来であれば、それは消滅させるべきモノだった。

しかし皇帝であったかつての自分を育ててくれた存在でもあった。

自分を皇帝になるまで、育ててくれた存在。

そしてそれから先も…共に、と契りを交わした大切な存在(ひと)

彼女は育ての母親であり、幼い頃から近くで成長を支えてくれた姉でもあり、常にずっと変わらずに傍にいた恋人でもあった。

皇帝が唯一、愛した存在だった。

それが人では無かったのだとしても。

自分が人ならざるモノとなった後でも、その想いは決して変わらなかった。

だから誰にも暴かれることのない場所へ、ひっそりと埋葬したのだった。


現在は虚屍(キョンシー)となり、さらには腕のみとなった皇帝だったが、

完全に朽ち果ててしまう前に、本当の最後の最後に、

最愛の存在にまた、もう一度会いたくなったのかもしれない。

壺にかけられていた封印を解いたことで、虚屍キョンシーの腕はもう間も無く限界を迎える。

…会うことは叶わなくとも、せめてこの封印だけは…

今となってはもう、自分にしかできない…

壺の蓋が開く。

白い煙と共に現れたのは黒い羽衣をまとったうら若き女性。

すぐそばに、朽ち果てかけていた腕を見つける。

「…懐かしい気配…」

今すぐにでも崩れ落ちそうなその腕を口に含んだ。

「…ああ、やはり…」

その腕に僅かに残されていた虚屍(キョンシー)思念(おもい)を視た。

「……天子様。 …そうですか。そうなのですね。あなたは最後に、私を…現世うつしよに呼んでくださったのですね。 ああ、ですが…あなたのいない世であるのなら…私にとってあのまま永遠の眠りについていた方が余程…いえ。いいえ。 ………天子様の、弔いをいたしましょう。 …それに…道士たちはまだ顕在なのですね。 …あなたを討ち滅ぼした、その者もまた…ええ、きっと。 …私の力で、あるならば…。 …それと、今生の天子様も、拝見してみたく思います…」

その女性の手には琵琶、黒き羽衣を棚びかせながら夜の空を駆け流れていく…



現在の帝都。

宰相はタオ道長たちの帰りを待っていた。

ただ、知らせによって自身が向かわせた刺客ごえいたちの失敗しくじりと、

虚屍キョンシーがすでに灰となっていることはもうすでに聞いていた。

つまり宰相は体裁の良い言い訳を考えている最中だった。

一日中、険しい顔で。

「…母様かあさま…」

一日中不機嫌な母親を前に、皇子はずっと不安だった。

「…お前は部屋に戻っていなさい。後のことは、全部私に任せておけばいい。 …ええ、何も、問題はないのだから」

計画はことごとく失敗した。

それでも…まだやりようはある、あるはずだ。

皇帝はもう間も無く、いや、いっそのこと。 そして…はやく皇子を皇帝に。

いや、急いてはまた事をし損じる…

宰相である自分がこの帝都において、現時点での最高権力に違いはないのだから。

ー 〜 〜 〜 ー

どこからともなく、琵琶の音。

宰相の眉間の皺が一層深くなる。

今、こんな時に楽器の演奏? 自分が頼んでもいないのに?

「誰だ! こんな時に!」

すぐ後ろから、声。

「この子が現在の天子様? …それとも、あなた?」

真後ろに迫るまで全く気づかなかった。

いや、気づけなかった。

「き、貴様は誰だ?! ここは皇帝の間だぞ」

いや、護衛の者たちはどうした?

宰相はこの城内では見たことのない存在に警戒心を高める。

「…なんて…美しい…」

皇子はその来訪者の姿を一目見てもうすでに魅了されていた。

「…はて、どちらも…天子様に相応しくありませんね。 それに今の世は、こんなに…脆弱なのでしょうか?」

城内、城外にいたものたちは全て眠らされている。

「なんという…これは貴様がやったのか? ええい、当人は病に伏せているとはいえ…皇帝の間に、無礼にも程がある!」

宰相は精一杯に気を張るが、恐怖心で足の震えが止まらない。

「…そちらで眠っている者が、現在の皇帝、天子様…。 ああ…その生命の灯火は今にも尽きてしまいそう。お可哀想に。ええ、苦しいでしょう。 …ならばいっそ」

妖しい女性は琵琶を奏でる。

「こんな時に何を、」

音が響く。

音色が頭に響く。

「かすかに残ったその意識も、微睡蕩まどろみとろけて、消えてしまえば、いっそ楽にもなりましょう」

皇帝の微睡んでいた意識が溶けていく。そしてその身もその心も、溶けていった。

「!! 貴様!! 何を、な、に、を…」

その様子に驚き声をあげるが、

音色が耳から脳に、響いてくる。

そして同時に、艶やかな香り。

甘い花のような香りが鼻腔をくすぐる。

「…ああ…なんて、なんて…良い香り…良い音色…」

側で聞いていた皇子の脳は音と香りによってすっかりとろけた。

二人の意識は微睡の中へと消えていった。

「…さあ、準備を、整えましょう」

「「…はい」」

初めは上の空だった二人も、時と共に元の表情に。

「…お任せください。如何様なご命令でも」

宰相はそう口にする。

いつもと変わらない、むしろ今までより精悍な顔つきになっていた。

「ふふ、良いです。それでは、ここに招待するとしましょう。それから、」

出された指示を真剣な表情で聞いている。

「畏まりました。すぐに手配いたします」

「あの! あ、あなた様のことは何とお呼びしたら良いのでしょうか」

皇子は魅了され心奪われながらも、目の前に立つ美しい女性に近寄りたい一心でそう口にする。

「そうですね。 …妖姫妃ようきひ、と、そう呼んでください」

「妖姫妃様! なんて美しい名前だろう! まさにこの地の皇に、ふさわしい!」

「ふふ…ありがとう。 …ですが、私は皇ではありません。もし…仮にこれから、あなたが皇に相応しい存在になれたのなら、その時は私が精一杯…あなたに仕えましょう」

妖姫妃の笑顔は皇子の心をさらに撃ち抜いた。

「ああ! あア!! その為ならば、なんでもします。やります!!」

二人はもう完全に虜になっていた。


それから間も無くしてタオ道長たちが戻ってきた。

宰相はつつがなく遺灰を受け取り、何事も滞ることなく順調に埋葬を進めていった。

簡単な労いのみで、それ以外は特に何の指摘も指示も嫌味さえもなく、

道長たちにとってはなんとも拍子抜けなほど…全てがあっさりと終わった。

埋葬自体は丁寧に、帝都をあげて執り行われたが、それに携わっていた宰相も皇子も心ここに在らずな様子で、

何か他のことを気にかけている、そんな様子に見えた。

その後も、特にそれ以上のことは何もなく…帝都の普段の日常へと戻っていった。

しばらく経って落ち着いた頃、

今回の件において、最も貢献した功労者を城に招待し、労いたい、と言う、

宰相の今後の目論見を知る。

つまりその最も貢献した人とは、ジウ道士のこと。

どうしてもお礼をしたい、とのことらしい。

当然その案はタオ道長の耳にも入り、どうせなら自分たちがその使節となる気でもいたのだが、

自分や道士全員ばかりか、弟子も含め除外された。

蚊帳の外に置かれたことに対して、釈然としないまま、憮然としながら、

「でもどの道、誰が行っても同じじゃないですか? わざわざここまで来るとは思えません。どんなに豪華絢爛な褒美だとしても、ジウ道士はそんなことに靡くとは思えませんし」

「それはそうだろうな。あの町を長く離れたくはないだろうし」

その考えは間違いではない。

派遣された使節から依頼を受けたジウは辞退する気だったのだから。

ただ今回の件に関して、使者の命が、掛かっていると言う。

大袈裟な、と言うジウに対して、使者たちの表情はいたって真面目そのものだった。

…どうやら本当に、冗談ではないようだ。

どんなに豪華な褒美であれ、皇帝直々の名誉であれ、さほど心動かされることはないジウだったが、

流石に使者を…死者にする気はない。

「どうか、お願いします。留守の間は責任を持って預かりますので。どうか、どうか! 帝都へ!!」

使者たちの思いは必死だった。

それはそうだろう。本当に自分たちの命が掛かっていたのだから。

「…うぅん、そこまで、するのか。あまり長く空けたくは無いんだがなぁ…」

「帝都一の、この早馬でしたら、それはもう、本当にすぐに着きますので。お願いします!! 私の、私どもの命が掛かっておりますので!!」

そしてその中には、本人たちの家族も含まれていた。

「…そう長い滞在はできないぞ? 行って、すぐに帰っても良いと?」

「ええ! ええ!! 全然、それで構いません。お礼はすぐに済む、時間はとらせないとのことですから!!」

「それならなおのことわざわざこちらから出向かわなくても」

「いいえ、いいえ!! 帝都で、城で、最高で最善なお礼を、是非ともしたい、とのことですので!! 準備はすでに整えておりますので!! だからどうか!! このとおりに!!」

全員が全員土下座をしたまま…

「…わかったよ。それで、行くのは私一人でいいんだな?」

「はい! はい!! 付き添いの従者は馬を操る私一人です、ので!!」

ジウは喜びに打ち震える使者と共に帝都へと向かった。

走っていって走って帰った方が速かったか…まあ、帰りはともかく、行きは従者の顔を立てるとするか…


日が暮れる前に帝都へと辿り着いた。

確かに速い。帝都一というだけはあって大したものだ。

「…ブルルッ」

まだ少し息の荒い馬を撫で、労う。

「では、こちらに」

今回の褒賞、ただその為だけに用意されたと言う特別仕立ての部屋へと向かう。

扉は固く閉められており、門番も厳重に立っている。

確かに、途中見た他の部屋とは作りそのものが異なっていた。

…このためだけに作られたというは本当のようだ。

豪華な花も、いたるところに飾られている。

…ここまであると、香りで咽せ返るな。

しかしまあ、わざわざ手間隙をかけて…ここまでするか?

「で、次はここに入れば良いのか?」

「はい! それはもう、このためだけの、特別な演出が用意されていますので!!」

ジウは一人、通された中へと入る。

煌びやかに輝く部屋…

すぐに後ろの扉が閉まる。

同時に、あれほど絢爛に輝いていた明かりが全て消えた。

ボゥっと、かすかな灯火が灯る。

…これが言っていた演出か? …まあ、確かに綺麗ではあるが。

…これに何の意味が…

どこからともなく聞こえてくる琵琶の音色、

そして花のような、甘い香り…

閉じられ、密室となった部屋の中が香りで満ちていく。

閉鎖された空間に、琵琶の音が響く。

それは…色香と、音色の、二重奏。

たとえ相当な耐性を持っていたとしても抗えない。

その片方だけなら…あるいは。

閉じられた空間にあって折り重なることでより強力になっていた力は、

通常の洗脳や支配の技能スキルをはるかに超越していた。

微睡みの中に落ちていくジウ…

「…」

しばらく見つめ、用心深く観察していた妖姫妃は、口元を緩めた。

そして小さく笑う。

「ふふ、ああ…上手くいった」

最高のつわものを、手に入れた。

「…さて」

妖姫妃はジウのそば近くに立ち、その肩に手を当てながら思案している。

これから…何をしようか……侵略? …それとも、支配…

…ああ…あまりに久しぶりすぎて、

この世で何をしようものか、迷ってしまう。

…そう。

…せっかくのことだし…このまま道士たちを、根絶やしにしてしまおうか。

…それも道士の、手によって。

なんて良い案だろう。最高の道士が手に入ったんだもの…それくらいのこと、すぐに…ああっ!

そう! どうせなら、その元を、絶ってしまえば良い!

あの山にいるのだろう。

仙人たち。

まあ今は、少なくなったのかもしれないけれど…

でもきっと、あの仙女はいるはず。

道士の開祖。

…天仙娘娘。

忌々しい仙人共、道士共。

妖姫妃は琵琶を手に取り奏でる。

「これからは私のために、その力を奮って。ええ…加減などする必要なく、思う存分に。 …まずは挨拶にいきましょう。 …古い、古い知り合いに」

「…ああ」

妖姫妃のかたわらに立つジウの体から荒々しい魂魄の奔流がほとばしる。

黒い羽衣をまとった妖姫妃と、荒れ狂う魂魄を纏ったジウは、東山へと向かう…

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