枝折りの章 終わりの始まり
一つの試合が決定していた。
オキタ 対 ツギハギの勇者
勇者はオキタの部屋へ向かうために、その日は早く起きていた。
目を覚まし、準備をするためにベットから起き上がる。
部屋の中は静まり返っている。
少し離れて置かれた二つのベットに、黒姫と白姫がそれぞれ眠っていた。
いつの間にか家具も増えた。
それでも部屋の広さはまだまだ十分に余裕があった。
何人、十人くらいは余裕でおさまるだろう。
他の部屋、妖精の勇者の部屋を訪れた時は、ここまで広い部屋では無かった。
最上階は本当に特別待遇なようだ。
準備をしていると、黒姫が目を覚ました。
「早いんだね」
「うん、オキタの様子を見に行こうと思って。体調とか、気になるし。元気そうならそれで良いけど」
「ふぅん。仲のいいことで」
黒姫は少し口を尖らせ、またベットに寝転んだ。
「?」
機嫌があまり良くないのだろうか。
「っふぁあ…黒姫さんは嫉妬しているのですわ。最近、わたくしたちの扱いがぞんざいになっているので」
隣のベットでまだ眠そうに起き上がる白姫が言う。
「ぞんざい? そんなつもりはないんだけど」
「それならたまにはわたくしたちにも付き合ってくださいな。またたくさんの美味しいお店を見つけたんですわ」
「…そうだね。いつでも」
「ほんと! じゃあ、帰ってきたら行こう!」
黒姫は元気に起き上がった。
機嫌は治ったようだった。
黒姫と白姫と戻ってからの約束をして、オキタの元へと様子を見に向かった。
オキタは夢を見ていた。
懐かしい日々の。
ただひたすらに不恰好なボクトーを振っていた日々。
そこには、仲間の隊士たち、隊長たち。
そして、コンドウさんと、ヒジカタさん。
「まだやってんのか? お前は昔から、飽きねぇよなぁ。誰よりも早くきて、誰よりも遅くまでいやがる」
「それがオキタくんの強みでもある。基礎を怠らないどころか、その練度をさらに高めているのだからな」
「ただ単に、素振りが好きなんです。構えて、振り上げて、振り下ろす。 …その動作が好きなだけなんですよ」
「はっ、まずそれが俺とは違うぜ。しかし、俺の素振りと何が違うんだかねぇ」
「見るも明らか。オキタくんの素振りはまず速い。誰よりも。おそらくは、何よりも、な」
「何でそんなに振れんのかね。体調が悪い時以外で、バテているのを見たことがねぇ。おい、でも、無理はすんなよ。いつ体調が悪くなるかわからねぇだろ?」
「まだまだ大丈夫ですよ。今日は、とても気分がいいから」
「はっはっは、そう言う時こそ用心するものだぞ、オキタくん」
「違いねぇ、いきなりポックリ逝くかもしれねぇからな。オキタの場合」
「そんなことないですよ。嫌だなぁ」
笑い声が響いた。
オキタはその笑い声で、目を覚ました。
…心地の良い、夢だった。
その目覚めも、静かで穏やかだった。
オキタは立ち上がり、試合をするための準備を始めた。
きっと外はまだ薄暗いだろう。
けど、そのくらいに準備をするのは、昔からよくあることだった。
「今日の体調はどう?」
早い時間に勇者が訪れる。
「…うん。大丈夫だよ。これなら十分に戦える」
オキタはすでに着替え終えていた。
「それにしても、まだ試合まで時間があるけど、随分と起きるのが早いんだね」
「ふふ、早起きなのはお互いに、ね。 …うん、少し、懐かしい夢を見ちゃって。もっと早くに目が覚めたんだ」
「そうだったんだ。それだと寝不足じゃない? 無理はしないように。 …くれぐれもね」
心配をする勇者の姿をみてオキタはまた少し微笑んだ。
「はは、昨日は早く寝たから。夢も、たっぷりと見れたくらいにはね。だから全然寝不足じゃないよ。それに、ほら、僕は勝利にこだわっていないから。本当に分が悪くなったら、その時は降参するよ。この前の時みたいにさ。無理なんてしないよ」
「…そっか」
「でも、クロノには嫌味を言われちゃうかもね」
「そしたらあの苦い汁を目一杯甘くしてプレゼントしよう」
「いいね! あ、でも、食べ物を粗末にすると怒られるからなぁ」
コンドウさんとヒジカタさんは、そういうところ、昔からすごく厳しかったな。
オキタは優しい笑顔をたたえていた。
「それじゃあ、別の方法を考えておくよ。何かこう、サプライズ的なものでも。座った椅子が突然爆発するとか」
「ハハっ、ものすごく怒りそうだね。うん。ちょっと見てみたい。あとが怖いけどね。まあ、僕が勝てばいいんだから。 勝てるよう、頑張るよ」
その後、しばらく部屋でのんびりとしてから、オキタは試合へと向かっていく。
いつも通り、静かに。姿勢を立てて…
その日は、試合前から黄色い声が殊更に観衆を包み込んでいた。
「うぉ〜〜〜!! 今日は第一試合目から、注目の試合の始まりだぜぇ! いきなりメインだと言っても過言ではなぁい!! なぁなぁ、この女性たちからの声援でわかるだろう? ああ、そうだゼェ、今日の試合は、いつもよりもさらに、今以上の黄色い声援が飛び交うことだろう! それが悲鳴に変わるかどうかは、まだわからないゼェ。 そしてなんと、今日はいつもと違う。いつもは遅れて登場することが多いんだが、今日は違うんだぜぇ? まずはぁ…オキタ選手の登場だぁ〜〜〜!!」
「今日はよろしくお願いします。 …うん。良い日だ。 …懐かしい夢も、見れた」
どこか憂いを含む表情で、オキタは登場した。
舞台まで、ゆっくりとした足取りで歩いていく。
姿勢を立て、全くブレることのない体勢で。静かに。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ」
「い”や”ぁ”あ”あ”あ”あ”あ”」
「見”て”え”ぇ”。こ”っ”ち”を”見”て”ぇ”…あっ 。 」
声援をあげていた一人はオキタと目があったらしく、大人しくなっていた。たぶん気絶している。
「ヒュ〜…相変わらずすげぇ人気だぜ。今のファンサービスで何人が気絶した? その人気は間違いなくここのトップだろうなぁ。さぁて、それでは挑戦者の紹介をするぜぇ。 一勝一勝を下の階層から地道に積み重ねてここまできた、そしてその戦いのスタイルは日によって変わっている。使う獲物も変わるという。なんとも謎めいたフードの男。そしてその顔と体は傷だらけだという。日々の研鑽の賜物かもな、謎多き挑戦者ぁ、ツギハギぃ〜勇者ぁあああ!!」
「…己の役割を果たす。 …俺の役目は、ただそれだけだ」
黒いフードを目深に被って表情は見えない。
体もまた黒い衣に覆われている。
…おそらくは、その中に武器を隠し持っているのだろう。
服のそこかしこが不自然に膨らんでいた。
仕込みの剣か、それ以外の武器か…。
「両者、構えてぇ〜、それじゃあ、試合、開始ぃ〜〜〜!!」
黄色い歓声と声援の爆音が響き渡る中、試合が始まる。
最初に動いたのはツギハギの勇者。
地面を蹴ると瞬く間に移動する。
素早く、良い動き。
いつの間にかその右手に、大剣を握っている。
片手で扱うには大きな剣。重量もかなりあるだろう。
オキタに向けて軽々と、勢いよく振り下ろす。
オキタはそれをカタナで受ける。
そのまま受けたら剣の重みも合間って折れてしまいそうだった。
オキタはカタナを器用に返し、大剣に寄り添うかのようにうまくさばく。
大剣の持つ重量もその力も、全てを華麗に受け流す。
「さすがの技量だ」
オキタが捌いてすぐ、
左手がもう一つの大剣を握っていた。軽々と。
片手で持つにはどちらも重すぎるだろう。その見えた太い腕は、それだけの筋力がある。
膨れ上がった筋力で一撃を捌いた後のオキタの肩を狙う。
オキタはすぐさま低く姿勢を落としてそれを紙一重でかわした。
空振った大剣が地面を斬る。
舞台が歪にひび割れた。
「この二手を難なく交わす、か」
「武器を隠しているのはなんとなくわかってたから。膨らんでいたしね」
オキタはそう言いながら、上体を起こすと同時に持ち替えたカタナの柄でその脇腹に一撃。
「っぐ」
一撃をもらったツギハギの勇者は姿勢を崩す。
「ふっ」
捻りながら、すぐさま横薙ぎ、
「っ!」
後方に飛ぶも、ブカブカの服を切り裂いてその傷だらけの腹部があらわになった。
「…あの体制からよく繋げたな。だが何とか交わしき、っ?!」
ツギハギの勇者の腹部から血が流れた。
傷だらけのその腹部には、新しい傷の線ができていた。
「交わしきれなかったか…」
傷が開き、少なくない量の血が流れる。
「もう少し、下がるのが遅かったら今ので終わってたんだけどなぁ」
オキタは構え、カタナを横手に持ち、姿勢を下げる。
突きの構えをとった。
オキタの纏う気配が変わる。
向けられたカタナの先は一点で止まり、全くブレない。
これから繰り出されるその技、それがどれほどのものであるのかは、
その完成された構えからも見てとれた。
「…何という、完成された姿勢、構えか…無駄というものが、一切無い」
ツギハギの勇者は双剣を前に構える。
オキタの技を防ぐつもりだ。
一人の武人として、ただ見たい、
そう思っていたのだった。
オキタは消えた。
一の突き。
「!」
鋼の擦り合う音。
右の大剣で防ぐ、
そしてその勢いで弾き…きれない。
突きの勢いに押され、大剣と右腕が痺れる。
弾けはしないが、何とか防げた。
そう思うのも束の間、すぐに次が来た、
二の突き。
「ぐっ!」
痺れる右では受けきれん、ならば、
左の大剣で受けて、同じように、
「?!」
より速く重いッ、
右の大剣を捨て、
すぐさま両手で大剣と体の重量すら使って押し切る、
弾き、きれない。
ビリビリと、両腕が痺れる。
両利きの腕がどちらも同じように痺れた。
震える腕に、震える大剣。なぜか足すら震えていた。
そして、
三の突き。
それはさらに速さと重さを増した突きだった。
ただ一点を研ぎ澄ました目が狙っている。
この一撃は、受けきれない、
ならば、
震える足の筋力を膨張させ、強引にその場から離脱…
大地を蹴った、
しかしそれよりも速く、オキタの突きがその身を穿つ。
「…ごふっ」
一陣の風が通り過ぎた後…
胸部に血が滲む。
それは決して浅からぬ傷だった。
服を湿らせ、下には大量の血が滴り落ちた。
「勝負、あったかな」
オキタは膝をつくツギハギの勇者に向き直った。
「…この足は神速の脚…なんだがな…それでも、全く…追いつけない、か。ごふっ。この両の手も、名のある怪力をもった武人のもの…であるのに…な」
血の塊を吐いた。
もうとても、動くことはできないだろう。
「降参して、すぐに治療した方がいいよ。間に合わなくなるよ?」
「…そういうわけには、いかない。まだ…まだ。何もしていない、から、な…」
「そのまま戦うの? それはおすすめできないよ」
「こんなものは…戦場では、よくある傷だ。それで、戦いを、やめたりはしない…だろう?」
「…ここは戦場じゃないよ。ただの闘技場。そしてこれは、ただの試合なんだよ。真剣勝負ではあっても、命を落とす場所じゃない」
「ああ、そうだな、それでも…真剣勝負の場であることに、変わりはない。まあ、お前が殺すつもりで本気を出していたら、俺の首などはもうすでにないのだろうが…。 それでも俺はこの命をかけて、役割を全うしなければ…」
「…う〜ん、頑固だね。まあ、そういう人、好きだけどね。 …かと言って、トドメをさすのはなぁ…そもそもそんな気は初めからないし。でもなんとかして、納得してくれないと、困るよ。首を刎ねるわけにはいかないんだから。それにその血の量、ほうっておいたら失血死すると思うよ」
「…何、その心配は無用だ」
ツギハギの勇者は何か不自然な動作をする。
自身の体に、何かを刺したのだ。
するとその体は魔力を纏った。
異様な、禍々しさをもった、歪んだ魔力だった。
傷がみるみる回復していった。
「…これで問題ないだろう」
「…回復魔法? う〜ん、それだと、もっと深手を負わせないとダメそうだね。さっき以上の…どうしようかなぁ」
オキタは再び構える。
「…」
まともにやって、勝てる相手ではない。
わかっていたことだが。
それでも、今の己の力を試したくなるとは…
俺もまだまだ…。
いや、
…最低限の仕事は、果たさなくては。
…イヴ様のため。
全ては、イヴ様のために!
「参る!!」
ツギハギの勇者はオキタに突進した。
手には普通の剣を握っていた。
「それは不用心だよ」
オキタは難なく捌く、そして無駄のない連撃を叩き込む。
切られるたびにツギハギの体から血が吹き出していく。
「ぐっ、グゥお」
軽い剣に持ち替えたところで、近づくことさえ叶わない。
それどころか、その剣捌きを間近で見た。
研鑽された、完成されたその剣線はどれも、どれもが、
あまりにも、美しいものだった。眩しいものだった。
…ああ、一体、どれだけ、差があるのか。
これほどの境地へ至れるものなのか…
羨望の念を抱いた。平伏しても良いとすら…いや、いや!!
仕込みを使わさせてもらう!
ツギハギの勇者は武器を捨てた。
体勢を丸め、手を服の中へ、
その動作は、
まるで何かを投擲するかのような、
しかし大きな服に覆われて何も見えない。
「!」
オキタは空を切った。
切る、切る。
凄まじい速さで切っていく。
「…バカな! これも見えるのか!」
この細い線のような針が。
この近距離で、
「っ!」
まだだ、まだ数はある!!
「ふっ!!」
まだ切るか! どれだけ、
…10や20ではないのだぞ?!
オキタは結界を張っているかの如く、
自分の前に、カタナで線を描く。
ただただ、空を切る音だけが響いていた。
「…終わったかな」
放ち続けた仕込み針はその全てが防がれた。
もう、手の内には何も残されてはいない。
「…殺せ。もう何も…意味はない。ここに来た意味もな」
「えぇ? 嫌だよ。こんな場所で。せっかく夢見が良かったのに。悪くなっちゃうし」
「…その類まれな目…羨ましいことだ」
「目? ああ、僕、目は本当に良いからね」
「…その体もだ…その剣の技量…天性の持つ力と、後天の力。 …実に、羨ましい」
ツギハギの勇者は素直に言った。
「…」
「俺は何が、違ったんだろうな。この足も、腕も、体も。それなりに名のある勇者の、才ある者たちのものだというのに。 …結局、本人の力は、本人が一番使える、と言ったところか。能力も、本人から離れた途端に、そううまくはいかなくなるようだしな…」
ツギハギの勇者は、もう完全に諦めた表情をしていた。
その身には戦う気配を全く纏っていない。
「まだ終わってないよ。君にだって、これからがあるんじゃない?」
「…あるのだろうか」
「あるよ。だって、君は生きている。 …生きていれば、これからはいつだってくる。 …くるんだ」
「…才ある剣士。こんな俺にも、可能性を見てくれるのか?」
「あるよ。僕は目がいいから。それもわかるんだよね」
嘘だった。そんなものが見えることはない。でも、
「いつか、は。きっとある。それがどんなに薄い、すぐに割れて溶ける薄氷の望みであっても。 …きっと」
故にオキタは今もまだ諦めない。
「…そうか…」
「…降参する。俺の負けだ。完全に負けだ。何もかも、な…」
ツギハギの勇者は降参した。
オキタの勝利が決まる。
歓声と声援が爆発して響き渡っていた。
「また次、もし、その機会があれば…また俺と、戦ってくれるか?」
「もちろん、いつでも受けるよ。殺し合いでなければ、ね」
「…そうか」
「あ、でも。体調が悪くて不戦敗になったらごめんね。その時は僕の方からまた挑戦するよ」
「…ふ、構わん。 …俺も、いつでも。受けて立つさ」
ツギハギの勇者は立ち去っていった。
勇者は試合後、オキタに勝利の祝いを伝えると、
黒姫と白姫との約束を果たしに行った。
長い買い物に付き合い、フードコートを見て回る。
おすすめの新商品を食べ歩く。
「次は、氷を細かく砕いてさまざまな味をつけたものですわね」
「おお、この赤いやつ美味しいぞ」
「色んな色と味がありますのね」
「そう? みんな同じ味じゃない?」
「そういう時は、ええ、目で楽しむのですわ。フルーツを添えればよろしいのではなくて?」
「ねぇねぇ、この豆を甘く煮たものと、ソフトなクリームを一緒に合わせてかけるとすごく美味いぞ!!」
ひとしきり食べ終えると、二人の買い物に付き合った。
「いやぁ買った買った」
「少々買いすぎましたわね」
勇者はほとんどが二人の荷物係だった。
買っては預けて、また買いに行く、それを繰り返した。
服飾店で二人は勇者の意見を求めてきたが、
下着の店で二人を待つのは少々気まずかった。
両手に大量の商品を持って。
感想を述べるのも同じだった。
「白姫は白なんだな」
「そういう黒姫さんだって黒ですわ」
「確かに、たまには変えてみる?」
「それも良いですわね。面白いかと」
「ねぇどう? 似合ってるかな?」
ああ、うん。
似合っているね。
勇者は少し遠い目をしながら言った。
「わたくしは聞くまでもなく似合っていますわね」
それならばなぜわざわざ見せるのだろうか。
勇者は遠い目をさらに遠くしていた。
三人の買い物は、それからもまだまだ続いた。
「…で、何の戦果もなく、戻ってきた、と」
悪魔はツギハギの勇者の事を一瞥もしない。
「…はい。次、こそは」
「次? 失敗したお前たちに、次はない。 …本当に、あると思うの? ねぇ? 何人もいる中の一人でしかないお前に? 次が?」
そこで初めて目を向ける。
「どれだけ私の力を貸したと思っている? それだけあってなんで失敗した? お前は出来損ないの集まりだ。いくらマシなものを寄せ集めても。それでもやはり出来損ないは出来損ないだった。今のお前には、家畜としての価値もない。家畜以下の、ああ、まあ、いい。餌ぐらいにはなるか。話しすぎて、お腹も空いた」
禍々しい魔力が広く、乱暴に撒き散った。
「…っあ」
次の瞬間、何か声を上げようとしたツギハギの勇者の口は無くなった。
首から上が、無くなっていた。
「…こんな程度の駒じゃだめね。あ〜あ、やっぱりまだ頼らざるを得ないのかしら。勿体無い…とっておきたちは、それこそ、とっておきのために…とっておきたいのにね」
悪魔は奥へと戻っていった。
血に塗れた唇を舐めながら。
乱雑に、ツギハギの勇者の、バラバラになった足と手を持ちながら…
ああ、全く、あのジジイのせいで…あの時、母子まとめて殺しとくんだった…
まあ、あの時はお気に入りを手に入れられたからまだいい…
せっかくのこの地も、面倒臭い奴らが増えてきた…
…まあ、それでも、仕込みはすでに済んでいる。
そこまで…焦ることもない。
そうね…まずは、しっかり素材集めから。
ちゃんと手を抜かずに…ね。
とっておきを、増やさなくちゃ。
もっともっと。
…そう、別に勇者じゃなくてもいい、
特別な能力を持っているのなら…
気になるのはあの若い娘二人…目をつけたのはあの二人。
一目見て、他とは違う、何かを感じた。
勇者、ではないかもしれない、
しかし、とても興味深い…調べたい。じっくりと。
その全てを、隅々まで…
ああ、きっと、私なら有効に利用できる。
その自信と、確信がある。
最優先は、あの二人の娘にしよう。
あとはまあ、なるようになればいい…
ふふ、ふふふ…
洞窟内に、悪魔の笑い声が響いていた。
その日、
闘技場内で大きな事件が起こった。
観衆が、勇者たちを襲ったのである。
勇者たちを襲撃したその観衆のほとんどは一般人だった。
観衆たちは勇者たちの関係者であることもままあったが、
それでもやはり一般人の方が多かった。
高いチケットを購入して、わざわざこの地を訪れるもの好きではあるが、
そのほとんどは、たぶん善良な一般人だった。
その彼ら彼女らの一部が、試合中に、あるいは施設内で…
ありとあらゆる場所で、それは無差別的とも言えた。
というのも、襲われたのは勇者たちだけではなかったのだから。
当然、白黒勇者も、クロノやオキタやその他の面子も例外ではない。
一部の実力者たちは襲撃者を難なくいなしたが、
一般人を相手にする、それは決して心地のよいものではない。
何らかの形で狂化していたが、そのほとんどは、特に能力も持たないただの人間。
捕まえられた多くの観衆たちは、念入りに身元を調べられ、その身の異常を探られた。
全員に共通していたこと、それはみな須く、見えないほどに細い針が、刺さっていたのであった。
それは捉えることができた襲撃した観衆たち全てに、見つけることができた。
その針を調査していると、それが悪魔の肉体、爪の一部であることがわかった。
呪術的な、あるいは魔術的な、魔法的な力を持っていた。
調査を進めると、それが肉体を操作する力を持つ痕跡を発見した。
肉体操作、あるいは精神操作…それがこの爪を持った悪魔の力の一つなのだろう。
老人は観察員に付き添いながら注意深く観察し、それが間違いなく、あの悪魔のものであると確信した。
「…やはりここにおったんじゃな。しかして、問題はその、場所か」
老人は話を聞いて回る。
獣の勇者が襲撃者の中にいたという。変わり果てた姿で。
そして取り逃した、とも。
…老人は獣の勇者の持っていた腕輪を許可を得て借りた。
腕輪は厳重に保管されていたため、あの時のままだった。
獣の勇者の毛の一部がまだ何本か絡みついている。
それを取り、
準備をする。
提灯のようなものを気球に見立て、
ぶら下がったカゴの中には一枚の小さな皿がある。
油のようなものと、紐が立てられていた。
その皿の中に獣の勇者の毛を一本入れた。
老人は自らの血を一滴垂らし、皿の紐に火をつける。
提灯はその熱で膨らみ、飛び立っていった。
風も無いのに、どこかへ向かって飛んでいく。
「…その場にいるかどうかはわからんが…試せるものは試さんとな」
老人は提灯が飛んでいく方向へ、見失わないようについていった。
提灯は上空で止まった。
その下には洞窟。
暗い洞窟だった。
奥は深そうだ。そしてその奥から異様な気配。
複数の、死の気配。
「…当たり、かのぅ」
老人は札を鳥に変え、知らせとして送る。
自分が戻らなかった時のための知らせ。
自分が戻らなかった時。
それはここが当たりだということを意味していた。
…天天には悪いことをしたが。
…当たりだったら、おそらく、父親もここにおることじゃろう。
あの悪魔が、連れ去っていったのじゃから。
…今もまだ、食われていないのであれば…。
老人は洞窟の奥へと入っていく。
悪魔はすぐに気づいた。
侵入者。
…わざわざこんなところまで。
ただ迷うだけでは辿り着けない、
となると、意図してここに来た。
最初の襲撃を派手にやりすぎたかしら…
まあ、準備はできたから、もういいけど。
別に誰がきてもいいんだけどね。
悪魔は打ち捨てられた死体と目を共有する。
…ああ、なるほど。ジジイじゃなぁい。
ほんと、目ざといわぁ。
でも…
せっかくだから、とっておきの、勇者で招待してあげようかしら。
悪魔の指示で、
一人の青年が立ち上がる。
精悍な顔つきをした若者だった。
ただ、その表情は血の気が全くなく、白く、張り付いたかのように動かない。
「出迎えてあげて。わざわざここまで来たんだから。 …遠いところから、ね」
「…」
青年はすぐにその場から消えた。
「…ほう。 ……。なるほどな。やはりか」
近づく気配に気づく。そしてその姿を見る。
「…」
「なんとも久しいのう。しかし、お前はあの頃のままじゃな。全く、変わっとらんよ。ああ、変わっとらんな。そんなわけないのじゃがな。ワシはほれ、この見た目通り、だいぶ老いたわい」
「…」
「お前の娘も、もう大きくなったぞ。お主に似たのか、ワシの娘に似たのか、天才じゃよ。ああ、ワシに似たのかもしれんな。本当に、可愛い孫娘じゃ」
「…」
「今の、お前に会わせるわけにはいかんな。 …ここで」
老人は構える。
その構えを見て、青年もまた構える。
その構えは、どちらも同じ。
「変わっとらん、ああ、変わっとらんよ…お前は、ただひたむきに、ワシの元で学んでいた、あの頃のままじゃ…」
老人はそう言って、眉に皺を寄せた。
皺だらけの顔に、さらに深い皺が刻まれていた。
それはまるで、泣くことを堪えているようにも見えた。
「おじいちゃん、見てない?」
天天は焦っていた。
治療の手伝いを終え、それからずっと、探していた。
おじいちゃんの姿がどこにもない。
少しばかり調べることがあると言ってから、それっきり。
襲撃者たちのことを関係者たちと一緒に調べていたみたいだけど。
…ずっと胸がモヤモヤする。
襲撃があったからだろうか? いや、違う。
攫われた人たちの心配? 大怪我をした人たちを見たから?
…それだけじゃない。この胸の苦しみは…
予感は…
「見てないよ。天天は大丈夫? 顔色が悪いけど」
勇者も襲撃にあってはいた。
冷静に対処し、最寄りの関係者に引き渡しに行くところだった。
他の者たちは大丈夫だろうか? 黒姫や白姫はどこにいるのだろう。
部屋にはいなかった。また施設のどこかに、二人で買い物に行っていたのかもしれない。
後でその様子を見にいかなくては。
「…うん。私は大丈夫。でも、すごく、ものすごく、嫌な予感がするの」
今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「おじいさん、どこに行ったか、心当たりは?」
「わからない、でも。中にはいないと思う。ずっと探し回ったし、うん。中だったら、こんなに心配しないんだけど…こんなに嫌な気持ちになるのはここに来てから初めてで…もしかしたら、外に出たのかも…どこか…」
話を聞いて回る中で、襲撃者の中にあの行方不明になって捜索中だった獣の勇者の姿があったという。
捕まらずに逃げられたらしいが…
「もしかしたら」
天天は可能性を話す。
「見間違い、ということはない? すごく傷だらけだったみたいだけど」
「わからない。でも、もし私の考え通りだったら、おじいちゃんは探しに行ったんだと思う。獣の勇者を、そして…彼をそうした相手を」
「…探せる?」
「着いてきて」
天天は急いで部屋に戻る。
「おじいちゃん、やっぱり…」
道具一式がない。
きっと、捜索に使ったんだ。でも、それだけなら一式は必要ない。
おじいちゃんはやっぱり、一人で…
天天が同じことをしようにも、そのための道具はすでに持ち出されていた。
「…外に、探しに行ったんだ。でも、おじいちゃん…どうして…置いていかないって、言ったのに…言ったじゃない」
「探そう。闇雲に探しても見つからないかもしれないけど、それでも、何もしないよりは」
「…うん」
天天と勇者は外へ出た。
森が広がっている。
闘技場の外は、広かった。
…森のどこを探せば良いのか、まるで見当がつかない。
それでもまず、近くで話を聞かなくては。
二人は老人の行き先を訪ねて回った。
誰も見た人はいない。
無理もない。
襲撃事件があって、誰も他のことに気を向けるような余裕はないのだろう。
勇者は考える。
捜索…
森の中。
木々が生い茂っている。
捜索対象はあのおじいさん。
生きている人間だ。
体からは微弱な電気が出ている…
この森の中に魔獣がいるのかはわからないが。
おじいさんぐらいの大きさの生き物を対象にして…
「どうしたの?」
「…ちょっと、試してみるよ」
勇者は自身の内部に雷を発生させる。
絡め合い、一つにする。
二重に重なり合った雷は分裂し、
より細かい点となった。
それを体から外へ放散していく。
光の粒、粒子は広がっていった。
森中に広がっていった。
勇者の額からは汗が流れていた。
集中…もっと集中力を。
電気を帯びた光の粒子が更に広がっていく。
一体どのくらい広がったのだろうか。
それは闘技場を中心として、円に近い形となって数十メートルは広がっていっただろう。
…あとは、これを線で結ぶ。
線で結んで、その電波で探知する。
生命を。
人間の、成人男性ぐらいの大きさ。
勇者は深く、深呼吸を繰り返した。
そして、雷の点を、
線を結んだ。
「…な、何?」
パリパリっと、乾燥した極小さな音が聞こえた。
黄色い線は繋がり、網となって森を包み込んでいく。
大きな、巨大な雷の網籠が出来上がった。
「…見つけた。人の」
「え?」
「行くよ」
勇者は天天を抱えると、
放散した電気の線に沿い、繋ぎながら、凄まじい速さで移動した。
「…ふぅ。年寄りにはこたえるわい…」
右目の上からは血が流れている。
その片目はもう開かないだろう。
「…」
対する青年には傷一つない。
「そんな状態でも、その体術は健在なんじゃな。 …本当に、優秀じゃったよ。お前は」
「…」
「だからこそ、ここでワシが止めんとな。それが、師としての、最後の務めとなろうとも…」
老人は札を取り出す。
そして唱え、自身に貼った。
ー 転身の術 ー
「転神」
老人の背には六本腕の姿をした神が顕現した。
老人は瞬く間に距離を詰め、
そして拳を繰り出す。
その六連撃は容赦無く青年を捉え、洞窟の外へと、弾き飛ばした。
その口からはドス黒い血液のようなものが吹き出した。
青年もまた、飛ばされながら、懐から一枚、札を取り出した。
そしてそれを胸にはる。
身を翻して大地に足をつける。
勢いのままに深々と大地を抉っていく。
…転神。
その背には恐ろしい顔をした鬼神。
体にできた傷が瞬く間に塞がっていく。
「あまり時間はかけられんの」
「…」
老人の目にも止まらぬ連撃を受けながらも、
それでも全く怯むことはない。
受け、捌き、交わし、
癒す。
老人の連撃も次第に、
疲労と共にその威力を失っていった。
「…ふぅふぅ」
老人の額には大きな汗の粒。
今、体術と打撃は老人の方が遥かに優っていた。
しかし…
「…」
すぐに回復させ、青年の表情は未だ仮面のように動かない。
口元から下は繰り返し吐いた液体で黒く汚れていた。
しかしその表情に疲労の色は無い。
「…これは流石に、厄介じゃな」
額の汗を拭う。
時間は? どれだけたった?
…あと、どれだけ持つか?
それまでには、なんとか…
…転神。
稲光が迸る。
「!!」
二回目じゃと?
「っ!!」
老人の動きの衰えを、青年は見逃さなかった。
その稲妻のような速さで、そのまま腹部を拳が突き通す。
老人はなすすべもなく、吹き飛ばされた。
受け身を取ることも叶わずに、地面を転がった。
「…がふっ」
血溜まりが下にできた。
「いやはや、なんとも。そんななりになってからも、腕をあげおって…全く、優秀すぎるというのも、考えものじゃなぁ…ごふっごっ」
老人の下に、血溜まりが増えていった。
青年が、止めを刺そうと、
大地を蹴る。
またも雷のような音と共に、老人の元へ、
そして、そのまま、
「!」
青年の拳と勇者の剣がぶつかり合う。
互いに雷を纏う身、
お互いの力と雷が爆散した。
木々は焦げつき、
大地を焦がした。
「おじいちゃん!」
天天は深い傷を負った老人の元へ。
「…ああ、すまんのう…約束を破ってしまったわい…」
老人の腹部の傷は浅くはない。
「すぐに、手当を」
天天は法術によって治療を行おうとする。
その隙だらけの背を、青年は見逃さない。
再び雷を纏い、大地を蹴る、
「!」
勇者の剣と、青年の拳が再び衝突する。
雷と衝撃が周囲の木々を振動させた。
止まる両者の目が合う。
「僕が相手をする」
「…」
青年の鋼のような雷拳と、
雷を纏った勇者の剣がぶつかるたび、重い衝撃波があたりの木々を揺らした。
二人は互いに雷の線となって、交差した。
光の点が爆発するたびに、
木は揺れ、倒れ、黒く焦げつかせた。
二人の光点が過ぎた跡だけが、まるで焼け野原のように変わっていった。
老人は致命傷を免れた。
孫娘の懸命な治療によって。
「…ふぅ、はぁ。もう…大丈夫じゃ。流石の腕じゃな」
「ばか! おじいちゃんのバカっ!!」
天天は泣いていた。
「…すまんのう。ワシの思った通りじゃった。父親と、こんな形で会わせたくなかったんじゃ。でもそれも、ただの言い訳じゃ。ワシは自分の手で、後始末をつけたかっただけ…情けないことに、それすらも、叶わんかったのじゃがな」
「…あの人が、私のお父さん…」
天天は勇者と戦っている青年を見た。
「ああ、そうじゃよ。ワシの娘を殺した本人でもある。しかしそれも、あのようにあの悪魔に取り殺されたあとじゃったが。 …あやつはもう、生者ではない。 …あの悪魔によって、操られ、その力によって無理やり動かされているだけの、ただの操り人形なんじゃよ」
「…お父さん…」
「会う必要はなかったんじゃ。いや、会わせたくはなかった。 …年寄りの、ただのわがままじゃがのう…悪かった」
「…ううん。もういいよ。おじいちゃん、無事だったんだから」
「感謝せんといかんのう。まあ、それもここを乗り切らんといかんが。 …しかし、二人とも速すぎてよく見えんわい」
「…そうだね。でも、長すぎない? 術の効果」
「時間経過によって死ぬことはないからじゃな。それがすでに死んでおることの証でもあるが…二度も、使いおったわ」
「そんなことできるんだ」
「できんよ。普通ならな。普通なら、それだけでも死んどるわ」
「じゃあ、どうすれば…」
「札を消滅させれば、少なくとも術は解ける。 が、またもう一度やられたら意味はないがのう。しかし、ワシらもただこのまま見ているわけにもいくまいて。なんといっても、関係者じゃしな」
「うん」
「天天、転身の術、使えるか?」
「いけるよ。でも、どれにしよう」
「そうじゃな、前と同じでもいいのじゃないか? 炎であの札ごと燃やしてしまえ。できればその体ごと、な。制限時間内に、なんとかせねばならんが、ワシは二人を援護する」
「わかった」
「…すまんの。辛い戦いをさせて」
「いいよ。今の私は、おじいちゃんがいなくなる方が、ずっと辛いから」
「…本当に、すまんかったの」
天天はお札を胸に貼る。力の一部を老人が後方から支えた。
ー 転身の術 ー
「転神」
天天を黒い炎が包み込む。
爆発する黒い炎。
その爆発とともに青年へと向かった。
勇者の剣、そして天天の黒い拳が青年を狙う。
「僕が合わせる、好きに動いて」
「ありがと。任せる」
拳を叩き込む。
青年は力尽くで天天の腕ごと弾こうとするも、その身に纏った黒い炎が邪魔をする。
そして勇者はさらに追撃し、青年を思うように動かさない、
「全力全開ッ!」
左手でその胸ぐらを掴み、
渾身の右ストレート。
青年の胸を黒く輝く拳がめり込む、
弾かれ、吹き飛ぶ。
後ろの大木をものともせず倒しながら上空へと吹き飛んでいった。
「下、合わせて!」
叫ぶ、そして勇者は天天を一瞥しその頷きを確認すると雷を纏い飛んだ、
追いついた上から目一杯の上段の一撃、
青年は勢いを増し地上へ、
天天は地上で力を溜めて待っていた。
渾身の、渾身を超えた、全力全開の、黒く輝く右ストレートが炸裂した。
青年は叩きつけられ、未だかつてないほどの黒い液体を吹き出した。
「…っ」
その顔に、初めて苦悶の表情を抱いた。
しかし、それでも、ゆっくりと…
立ち上がった。
「…これでもまだ起き上がるのか」
「…死んでるみたいだからね」
「じゃあ、どうする?」
「…どうしよっか?」
「…それ、制限時間あるんだよね? あとどのくらい?」
「もう少し…でも、本当、もう少しかな。本気の本気、出しちゃったし」
青年が雷を纏う。
巨大な。膨大な雷。
死を恐れていないからこそ、できた。
死んでいるからこそ、その身を顧みらずにできる芸当だった。
「っ!!」
速い。
あっという間に、二人の間。
「この!」
勇者は構え、天天は殴りかかる。
その拳をいなし、
反対に青年の拳がその胸とらえ、
しかしそれを横から勇者が剣で弾く、
青年もまた、弾かれた勢いのままに回転し、蹴りを放った。
天天の脇腹に深く入る。
吹き飛ばされ、受け身を取れないまま地面に叩きつけられそうになるも、
かろうじて間に合った勇者が、その間に入ってクッションになった。
「…ぐっ…」
天天は血を吐く。
その身の術も、解けかけていた。
「…っ」
このままだと、まずいかも。
「平気?」
「…なんとか、ありがと。あのまま叩きつけられてたら、もっと不味かった」
青年は静かに佇んでいる。
呼吸を整えているのだろうか?
…もうすでに、死んでいるのに?
…こっちも雷の強度を上げるか…
勇者がそう考えていると、ふと、懐にしまったままの札を思い出した。
「…ねぇ、その術だけど。本当は僕にもできるんじゃない?」
「…どうしてそう思うの?」
「なんとなく。返答が曖昧なままだったから。それに、お札なら、ここに一枚ある」
「最初はものすごく体に、本当にすごい負担がかかるよ? それに、呼び出す存在も」
「…僕の中にいる神様なら?」
「え?」
「…それなら、ずっと簡単に呼び出せるんじゃないかな? 簡単なんていうと失礼かもしれないけどね。 …多分だけど」
「あなたの中に、神様がいるの?」
「うん。それで、思ったんだけど。その中に、呪いにめっぽう強い神様がいるんだよ。最近はずっと出てこないし。なんでも話によると僕の中の岩戸の中にずっといるらしいんだけどね」
「あなたの中の岩戸? 何、それ」
「まあ、だからその神様を呼んでみようと思う。 …きっと、力になってくれると思うんだ」
「…わかった」
このままでは良くても相打ち、最悪全滅、そうでなくても、逃げられたらどうしようもない。
だったら、その可能性にかけてみても…
「やってみる」
勇者の懐から札を取る。
そして唱え、勇者の胸にはる。
「呼んで。祈って、その神様に。心から」
「…」
勇者は祈った。
ずっと前に力を貸してくれたことがあるその神様に。
あの時は地上の呪いを祓ってもらった。
直接見ることはなかったけど。
そう聞いていた。
だから祈った。
願った。
心から…
「…はぁ。まあ、そうですね。その声を。私もまた、ここに住んでいる身。その真摯な声を無碍にする訳にも、参りませんか」
一柱の神が降りた。
ー 転身の術 ー
転神
勇者の背を天の光が照らす。
「…」
青年はそれをみて動かない。
動けないのかもしれない。
勇者は腰を落として構える。
掌を前に。
その手の光は太陽の輝きを持っていた。
ー 掌を太陽に…その手を使いなさい ー
そう聞こえた。
勇者は大地を蹴り、青年の前へ立つ。
掌底をその胸へ、
光りの軌跡がその胸へとささった。
その掌撃と共に、青年の背からは、溢れ出んばかりの黒い力が翼のように霧散していった。
「…あ…う…」
青年は勇者の後ろを見ていた。
それは…会うことが叶わなかった…娘の姿だった。
赤子の姿を見たこともない。それでも、確かに…
…成長した、大きくなった、娘の姿だった。
「………」
勇者は見た。
青年が消える前に、自分の後ろを見て、微笑んでいたことを。
まるで安心したかのような…ほっとして、そして、
慈愛を持った笑みを、湛えていた。
「…」
青年は程なくして完全に消えた。
札を剥がすまでもなく、勇者に降りた神はすでに消えていた。
「…ありがとうございました」
勇者は礼を口にした。
「あの洞窟の先に、すべての元凶がおる。しかし、今行って…いや、もうおらんかもしれん。見つけられたことをもうすでに知っとることじゃろうからな」
「その相手、今の状態で…敵うんですか?」
三人は疲弊していた。
「正直なところ…今の状態のワシたちでは、役に立たんな」
「でも!」
「お前たちも、転神した疲労がある。 …口惜しいがな。一度闘技場に戻るべきじゃろう」
「…なら、戻りましょう。襲撃の状況もまだ、完全には把握できてませんし。何か新しい情報があるかもしれません」
「そうじゃな、戻るとしようかの」
「…わかった」
三人は闘技場へと戻る。
その選択はある意味正しかった。
なぜならもう洞窟内には誰もいなかったのだから。
誤算があったとするならば、二度目の襲撃が、早すぎたこと。
一度目の傷がまだ癒えぬという最中、すぐに二度目の襲撃があった。
二度目の襲撃で、また多くの勇者たちが攫われた。
勇者以外の人間も、その中には多くいた。
白姫と黒姫が、どこにもいない。
勇者は闘技場に戻ってからすぐに二人を探しに出ていた。
…フードコートにもいない。他の施設の、どこにも、いない。
今の状況で、軽々しくは出かけるものじゃない…もしかしたら、一度目の襲撃の時には、もう二人は…
白姫と黒姫は、攫われていた。
当然情報はすべて闘技場で共有されていた。
それぞれが今は三度目の襲撃を警戒していた。
勇者は闘技場の外、頂上にいた。
できるだけ早く、二人を探さないと。
二度目の襲撃からはまだ間もない。
それなら、ここを去った者たちはまだ、どこかにいるかもしれない。
…飛んでいるかもしれない。
勇者ははやる気を抑え、深呼吸を繰り返す。
やることは同じ。
ただ、その索敵範囲を広げる。
できるだけ、もっと…
さっきやったよりも、もっと…広く、大きく…
雷を自身に落とす。
絡み合う雷が内部で分裂する。
そして点となって放電していった。
広く…もっと…
勇者の額に汗が滲む。
疲労の色も見えた。
それでも…
雷の点が森を、空を、包み込んでいく。
視界が少しブレた。
立て続けに力を使いすぎているのかもしれない。
構わない。早く。
できるだけ、早く。
広く、高く。
魔力を流す。
雷の線を結ぶ。
巨大な網籠が出来上がっていた。
…見つけた。
イヴはその広がる魔力に気づいた。
「あはっ、あははっ。なんて面白い力! 光と、雷。ああ、なんて純粋な、チカラだろうか。これだけの力を持った者は、そういない。きっと、素晴らしい勇者、それか、素体になることだろう」
右手に黒姫、左手には白姫を抱えている。
二人はぐったりとしたまま、微動だにしていない。
「へぇ…私に気づいた? ンフ。なら少しだけここで待ってあげ…なぁんだ、その必要もなかった」
雷光となって接近する勇者が見えた。
「なら早速、これを使ってみようか。今の私のお気に入りの、人形の…初戦」
白姫の体がピクリと動く。
白い光が放たれた。
極白色の新生によって雷の網籠と勇者の纏う雷光が解除された。
「…っ!」
すぐさま纏い直す、雷の網は、もう必要ない。
落ちる前に纏い直し、再び悪魔の元へ飛ぶ。
「その反応速度、いいわね。でも、同じ」
白姫の体が反応する。
立て続けるように、
極白色の新生。
勇者は纏う雷が解除される前に、剣を投擲した。
力の限り。剣は自らの意思で軌道を変え、悪魔そのものを精細に狙う。
「っと!」
音速を超えた剣。
悪魔はわずかに体勢を崩す、
視線が勇者から外れた。
その隙は見逃さない。
すぐさま極大の雷を二重に纏った勇者は、
そのままの勢いで悪魔に向かって体ごと衝突した。
「ワォ」
そして二人を力ずくで取り返す。
強引に、乱暴に弾き飛ばされた悪魔は感嘆の眼差しで勇者を見ていた。
地上に降り立った勇者の両手には目を閉じて動かない黒姫と白姫。
上から、楽しそうに悪魔が降りてくる。
「ふふ、やるわねぇ。私から、それも力ずくで奪い取るなんて。は、じ、め、て」
悪魔は指を口元にあげて嗤う。
「…」
勇者は二人を静かに下ろしながら、深く浅く、深呼吸を繰り返す。
長く、浅く、深く…
自身の魔力、
その全てを、融合していく。
勇者は極彩色の魔力を纏った。
「…星々の輝き、へぇ…」
悪魔は目を細めている。
勇者は黙って、その掌を悪魔に向ける。
極彩色の魔力が、悪魔へ放たれた。
…悪魔はそれでも、笑っていた。
両手の指を広げ、そして合わせる。
黒い波動が、その中心に生まれていた。
悪魔を、勇者の手から放射された極彩の輝きが包み込む。
「…流石に、痛いわね。でも、」
それをまともに受けて、なお悪魔は無事だった。
硬い。想像以上に。
「それじゃあ、私は壊せない。星ひとつくらいなら、それで壊せたかもしれないけれど…私は壊せない」
再び嗤う。
「それなら」
勇者は構え、そして、再び放った。
極彩の輝きが幾度となく、悪魔に向けて放たれた。
…それでも、悪魔はやはり立っていた。
「痛いって言ったけど。ただそれだけ。星々を渡り歩いた私を、あんまり侮らない方がいいわよ?」
度重なる力の使用で、勇者の疲労の色は濃くなっていった。
相手の悪魔にはまだ余裕さえ見て取れた。
…それなら。
勇者が行動を起こす前に、悪魔は動いた。
厳密には、動いたのは悪魔ではなく、
白姫と黒姫。
悪魔に操られた。
二人だった。
立ち上がった二人はどちらも手に何かを持っていた。
長く黒い針を、針と呼ぶにはそれらは太すぎた。
黒く長い杭を、持っていた。
「黒姫、白姫、何を?」
二人はそれを胸に当てた。
それぞれが手にした黒く長い杭を、その胸に押し当てた。
もうすでに浅く刺さっている事だろう。
「ねぇ? 選ばせてあげる。どっちか。選んで。片方だけは、残してあげる、かもね?」
悪魔は微笑んだ。
「お前が」
「言葉は選びなさい。今すぐに、二人の胸を貫かれたくないのなら、ね」
「…」
勇者は出かけた言葉を飲み込む。
「ええ、そして、選んで。どちらかを。あなた自身で。選びなさい」
「…」
悪魔のその、言葉の意味はわかる。
どちらかを。
黒姫。白姫。
気づくと周りを囲まれていた。
攫われた勇者たちのなれ果てた姿だろうか。
あるいは、襲撃した者たちだろうか。
…これも全部、目の前の悪魔の仕業。
「さあ、観衆も集まってきたことだし。早く。 …みんな、おとなしく待ってくれているでしょう? お利口さんたち。お利口な、私の人形たち」
悪魔はずっと、薄い微笑みを絶やさない。
「…」
選べない。
選べるわけがない。
勇者は二人を抱えようと、向きを変え、
「逃げる? それなら二人、死ぬわ。自らその胸を貫いて。治せる? ねぇ? 本当にその保証はあると思う? 私の特製のその針で、杭で貫かれて本当に大丈夫だと思う?」
「…」
不治の類?
自信あり気なその悪魔の表情からも…その可能性を否定できない。
「…さあ、選びなさい。黒い方? それとも白い方?」
悪魔は悪魔のような選択を勇者に強制した。
「…っ…」
…どうする?
迷う。
どうしたらいい?
惑う。
わからない。
選べない。
選べない。
選べるわけない。
「優柔不断な男は、嫌われる。私も嫌い。決めなさい。ええ、そしてその選択で、一人は確実に命を落とすのだから。選びなさい。あなたが」
悪魔はずっと、笑っている。
「…」
勇者は決められないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「滑稽ね。世界を救ってきた勇者が、こんな選択も決められないなんて。今までだって、数多くの選択を選んできただろうに。ねぇ? 気づいてない? 知らないふり? どっちでも、同じね」
「…」
「ああ、結局、自分の選びたいものを選んでいただけ。こういった選択はしたことなかったの? それはそれでまた、滑稽ね。犠牲を見て見ぬふりしていただけなのに」
「…」
「…それにね? あは、あっはっは」
悪魔は突然大声で笑い出した。
勇者はひどく、ひどく嫌な気配を感じた。
額からは、玉のような汗が流れた。
「…もう、全てが遅いの。遅いのよ。こぉんなに、時間をかけて、悩んだのにね? ねぇ?」
「…どういう意味だ?」
勇者は聞きたくない問いをした。
「どうして二人は私の言うことを大人しく聞いているの? ねぇ? どうしてだと思う?」
「…」
顔をよく見る。
二人の顔に、血の気はすでにない。
胸に浅く刺さった杭からは、わずかな血も、流れていない。
…そう、二人はすでに…
「正解。その顔。そう。その通り。んっふ。美味しかった。とてもね。力を知るまで少し手間取ったけど。思った通りの、特別な力。だから体は残してあげた。ふふ、でもねぇ? そう。二人はもう、すでにどちらも私のモノ。勇者ではないけど、もう…私の物だ」
「二人を元に戻せ」
「ふふ、あはっ。戻せ? …戻してください。の、聞き間違い? じゃないの? ねぇ?」
「…」
「その顔。へぇ。思っていたより、いい顔するわね。うん。ちょっとだけ、気に入ったかも。 …そうね、条件があるわ」
「何だ?」
「このまま見逃しなさい。そうすれば、まだ可能性は残るわよ? ええ、だって私はまだ、やることがあるからね。この星で、まだ、やることがある。少しだけ、邪魔な存在がいてね」
「ここでお前を逃すわけにはいかない」
「それを、今の状況で言う? この状況で、ねぇ? あなたが? 言う? もう負けているのに? 初めから負けていたのに? だって二人はもう」
「ここでお前を」
「私を倒しても、二人は戻らない。当たり前ね? 当たり前よね? だって、」
勇者は雷を纏う。
二重に纏い。
雷霆を身の内に宿す。
「…わぉ。それ、もしかして破壊の雷? …初めて見た。へぇ。それなら…」
悪魔の様子が変わる。
「加減はしない」
「…この星も、何もかも全部、消えるわよ?」
「お前も消える」
「そうね。それなら、私も消えるわ。 …でも、それでいいの? 全部消えちゃって、それで、いいの?」
悪魔は無防備に、静かに近づいてくる。
「…動かないでね? 少しでも動けば…その時は、わかる? ねぇ?」
悪魔は後ろの二人を見る。
すぐ目の前まで。手を伸ばせば届く距離まで悪魔が迫る。
勇者は動かない。動けない。
「…全部壊しても、元通りにはならない。何一つ、戻らない」
耳元で、そう、囁いた。
その手が、勇者に伸びる。
その爪が、深く刺さる。
黒く、長い爪が。
そして勇者は、意識を失った。
「目が覚めても、この悪夢は終わらない。 …だってまだ、始まったばかりなんだもの」
悪魔の声が、闇の中に響いた。
勇者が目を覚ました時。
闘技場の自分の部屋のベットの上だった。
誰かが運んできてくれたのだろうか。
でも、誰が?
黒姫か、白姫だったら…いい…
そうでないことはわかっていた。
ああ、わかっていた。
二人の姿を思い出す。
血の気のない、顔だった。
張り付いたような、感情のまるでない表情だった。
笑わない、怒らない、その表情はもう、変わらない。
「…大丈夫かい?」
「…あぁ、オキタ、それと」
「…随分と参ってんな」
「クロノも。二人は何ともない?」
「ああ、襲撃は受けたが、あんなもん、今の俺にとっちゃどうってことねぇ」
「僕も襲われたけど。でも、観衆たちを利用するなんてね」
「…そうだね」
「お前、ここから随分離れたとこに倒れてたらしいじゃねぇか。腕輪つけてなかったら発見がもっと遅れていただろうぜ」
「僕たちは腕輪をつけてさえいれば居場所はわかるけど。ない普通の人たちは探しようがないよね」
「…」
「まあ、もう少し休んでろよ。三度目の襲撃がねぇとは言えねぇが。今しばらくは大丈夫だろ」
「そうだね。二回目はすぐだったから、油断はできないけどね。今は気にしないで休んでいいよ」
二人の言葉に甘え、目を閉じる。
目に浮かぶのは、
…黒姫と白姫の姿だった。
…。
悪魔は待っていた。
その訪れを。
悪魔のすぐ前には、寝転がる一人の勇者。
…妖精の勇者。
すぐ後ろには、白姫と黒姫。
「…私たちを呼ぶとはね」
「…そのためにその子を利用するなんて。これだから悪魔は好きになれない」
時の魔導師と、空間の魔導師。
「この子がそんなに大事? 見捨ててほっておけば、お前たちならいくらでも動けそうなものなのに」
「人質をとっておいてその言い分はないね。センスもない」
「悪魔に冗談のセンスは無いけど」
白姫が黙ったままで立ち上がる。
悪魔もまた、立ち上がった。
「さあ、じゃあ私とダンスをしよう。お前たちは、剣も得意なのだろう?」
「まあ、剣聖と呼ばれるくらいには、ね」
「一人で私たち二人を相手にする気? 本気なの?」
「こちらも二人、いえ、三人、実際は四人ね。 …今は」
黒姫と、妖精の勇者が立ち上がる。
「はぁ…稀に見る外道だねぇ…悪魔の中の悪魔と言ったところか。その二人、それ何かで繋げてるの? 悪趣味すぎる…ああ嫌だ。確か勇者のお姫様たち。全く、ほんと、吐き気がするほど、悪魔だねぇ」
「かぁ、クソ野郎だねぇ。今すぐにでもどこか碌でもないところに飛ばしてしまいたいところだよ。あぁ相手にしたくないないな〜い!!」
「ふふふ、この白い方の力で魔法は使えないね? 思ったより調整に時間がかかったけど。私の力もだいぶ馴染んでくれたみたい。それにこっちの黒い方も、驚きね。無尽蔵のエネルギー。私の力と合わせれば、それがほぼ常時、発動できるんだもの。それを白い方に繋げれば、ね。永久機関の完成。 だから、力と力で、いこう? そう言うのも、たまにはいいと、思わない?」
「そうだね。いいよ」
「えぇ…動きたくないねぇ」
時の魔導師は剣を手に取る。
空間の魔導師もまた、受け取る。
「いくら私でも、お前たちをここで殺せるとは思ってない。でも、しばらく閉じ込められるのなら、それで十分。封印でもできたら、御の字」
魔導師の二人はすぐに気づく。
この悪魔にはまだ、数多くの勇者たちがいることに。
数の暴力。それは時に、何よりも恐ろしいものとなる。
魔法も何も使えない状況では、なおのこと。
無尽蔵のスタミナはないのだから。
結局のところ今回、
準備を万全に怠らなかった悪魔の作戦勝ち、だった。