箕内 宏平(みのうち こうへい)の仕事
午前9時。
証券取引所の鐘が鳴る時間。
箕内宏平は、リビングの一角にある小さなデスクに座り、モニター三枚に目を走らせていた。
窓の外は晴れ。
春先の光がカーテン越しに差し込んで、部屋の中に淡い色を落としている。
隣のソファでは、まだ髪がぼさぼさの5歳の長男・悠翔が、録画した戦隊モノを見ている。
「……よし、前場は上から入って、反転を待つ。焦るなよ……」
宏平は、自分に言い聞かせるように呟いた。
右手はマウス、左手はキーボードに。指先は冷静に動いている。
この瞬間、彼の頭の中は、まるでコンピューターのように高速で回転していた。
ほんの数秒の判断ミスが、数万円の損失になる世界。
だが、宏平はこの世界に適応していた。むしろ、馴染んでいた。
「これこそ自分の戦場だ」と、何度も思った。
他人の顔色をうかがいながら働くより、遥かに性に合っている――そう、思っていた。
だが。
背後から、トコトコトコ……と小さな足音。
「パパー、お茶こぼしたー……!」
振り返ると、2歳の妹・結月が、床に広がった麦茶の海を見つめていた。
その横で、悠翔は「わー!」と叫んで、布団の上にジャンプしていた。
テレビの中では、爆発とともにヒーローたちが空を飛んでいた。
「……マジか……!」
宏平はモニターから目を離し、立ち上がってキッチンペーパーを取りに走る。
スマホからはアラート音。持ち株が動いたのだ。
戻りたい。今すぐ戻って判断を下したい。でも、娘の足元には麦茶。滑ったら危ない。
「結月、こっち来て!靴下ぬいで!」
ちょっとしたカオス。でも、これが彼の“現場”だった。
戦場はPCの中だけじゃない。リビングのこの一角もまた、彼の戦場だ。
ようやく片付けを終え、モニター前に戻ると、銘柄はすでに急落していた。
指値には届かず、チャンスは、すっと逃げていった。
「……逃したな。まぁ……いい」
悔しさの中にも、どこか“慣れ”があった。
毎日がこの繰り返し。勝った日も、負けた日も、子どもたちは騒ぎ、妻は仕事へ出かけ、彼は市場を見つめる。
この“綱渡り”のような暮らしを、もう何年も続けてきた。
ふと、デスク横の壁に貼られたクレヨン画が目に入る。
子どもたちが描いた「パパのしごと」の絵。
椅子に座ってパソコンを見てるだけの棒人間が、朗らかに笑っていた。
「……そうだな、パパは、これが仕事なんだよな」
彼は目を細めた。
数字とチャートの向こうには、生活がある。
家族がいる。守るべきものが、いつも自分のすぐ背中にある。
不安定かもしれない。
でも、それを理由に逃げ出したくはない。
「適性がある」と胸を張れる仕事が、世界にどれほどあるか。
アラート音が、また鳴った。
今度はチャンスが来た。今度は逃さない。
「さて……もう一戦、いくか」
麦茶のシミが残るカーペットをチラと見ながら、
箕内宏平は、再びチャートの海に飛び込んだ。