西 紬(かわち つむぎ)16歳の夢
春の陽射しはまだ少し頼りなく、肌寒さの残る四月の風が田んぼの上を抜けていく。小さな町の駅前通りは、平日の朝だというのにまるでのんびりとした顔をしていた。
西 紬はいつもの道をすこしだけ速足で歩いている。時間はたっぷりある。早く着いてもすることなんてたいしてない。でも、彼女の足はつい急いでしまう。
「風、つめた……」
ぼそっと呟いてから、歩くスピードを緩めた。鞄の中でペットボトルがカランと音を立てる。炭酸の甘い飲み物。今朝はやけに飲みたくなって、家を出る前に冷蔵庫からつかんできた。
町のはずれにある高校は、今日も変わらず田んぼに囲まれている。生ぬるい土の匂いと軽トラの排気ガスが交じった空気。そんな中を歩きながら、紬はふと思う。
「……ここじゃないどこかに、行きたいなあ」
でも、その「どこか」は具体的じゃない。都会? 海外? はたまた、もっとふわふわした「理想の場所」。だけど、そんなものを考えるたび、すぐに現実が引き戻してくる。
「行ったところで何があるんだろ」
吐き出すように小さく言って、続けて苦笑する。まるで自分で自分をからかうように。ぼんやりとした向上心は胸の奥で燻ぶっているけれど、どうにも火がつかない。火打石も、着火剤もない。もしかすると燃える気がないのかもしれない、とさえ思う。
学校の門をくぐると、クラスメイトの明るい声が耳に飛び込んでくる。
「あっ、紬ちゃーん!」
手を振るのは中学からの友達、葉月だ。いつもテンションが高くて、周りの空気をひっくり返すような子だ。
「おはよ。今日さー、体育の後にプリント配るんだって」
「へぇ、なんのプリント?」
「進路希望調査!」
葉月は妙に嬉しそうに言った。進路調査。そういえば去年もあった。先生たちは生徒の未来を決めたがるけど、紬はまだ何一つ決まっていない。何がやりたいのか、自分でもわからないのだ。
「……まあ、白紙で出すかな」
冗談めかして言うと、葉月は「またまたー」と笑う。けれどその声に、ほんの少しだけ翳りが混じっているのを紬は聞き逃さなかった。
ホームルームの時間、先生が本当に進路希望調査のプリントを配ってきた。机の上にそれが置かれると、紙の白さが目に刺さる。
「第1希望から第3希望まで、きちんと書いて提出してくださいね」
教師の声が遠く感じる。ペンを握る手が重い。何を書けばいいんだろう。
なんとなく「大学進学」とだけ書いた。でも、その先の学部や志望理由は空白のままだ。書こうとして、ペン先が紙に触れるたび、心の中のもやが濃くなる。
(これでいいのかな……)
紬は考える。考えて、でも結局、「わからない」という答えに辿り着く。まるで迷路の出口が全部ふさがっているみたいだった。
昼休み、教室の窓から外を眺めると、春の光に田んぼの水面がきらきらと反射している。さっきまでの曇りがちな気持ちが、少しだけ和らぐ。
「ねぇ、紬ちゃん」
隣の席の葉月が声をかけてきた。
「私さ、地元の看護学校行こうと思ってるんだ」
「あー……うん。いいんじゃない?」
「うちのばあちゃんがね、入院してたとき、看護師さんがすごく優しくしてくれてさ。なんか、自分もそうなりたいなって思ったんだ」
葉月はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
(ちゃんと理由があるんだ……)
紬は思った。それが羨ましくもあり、まぶしくもあった。自分にはないものを、彼女はしっかり持っている。理由があると、人は迷わないのだ。
放課後、家に帰る道すがら、紬はまた「どこか」を思い描いていた。
駅のホームで電車を待つ時間。冷えた炭酸を一口飲むと、シュワシュワとした刺激が喉をすべる。
(膨れては消えて、また膨れて、そして消える。それだけであればどれ程楽なんだろうか。)
缶のラベルを指でなぞりながら、彼女はぼんやりとそんなことを考える。未来のことなんて、まだよくわからない。でも、せめて何かひとつでも、自分で選べることがあればいい。小さくても、一歩でも。
そう思いながら、やがてやってきた二両編成の電車に乗り込んだ。座席に腰を下ろすと、車窓から差し込む夕陽が頬をあたためる。
走り出した電車に揺られながら、紬は窓の外をじっと見つめる。遠くの山並みが、オレンジ色に染まっていた。