正岡誠司32歳の考え事
また、時計の針が五時を回る。
西日が斜めに差し込むオフィスで、ディスプレイの端がほんのりオレンジ色に染まる。
ふと顔を上げた誠司は、眩しさに一瞬だけ目を細めた。
「……もうこんな時間か」
一息ついたその胸の内には、わずかに鈍い重さが沈んでいる。
画面の中で点滅する未送信のメール。「ご確認お願いします」の文面が、既に何十回と繰り返した言葉であることに気づきつつも、削除する気力は湧かない。
「今日も無難に終わらせた。上司には叱られず、部下にも余計なプレッシャーはかけず。まあ、悪くない。……そう、ただ悪くないだけだ。」
デスクの端に並べた資料たちは整然としすぎていて、どこか「安全運転」そのものを象徴している気がする。
手を伸ばして一冊のファイルをわずかにずらすと、それだけで妙に肩の力が抜けた。
「安定している。それはたしかに、俺が望んだはずのものだ。リスクは最小限。嵐は避ける。順風満帆。けれど――」
視線が知らず窓の外へと吸い寄せられる。遠くの街は、夕焼けの中で金色に燃えている。
あのざわめく街並みのどこかでは、誰かが挑戦を恐れず、手を伸ばしているのだろうか。
「もし俺が、ほんの少しだけ舵を切ったら。…いや、それは無謀か。失敗したら部下に示しがつかない。笑われるかもしれない」
ペンを転がす指が止まる。
沈黙のなか、思考の波紋だけが広がっていく。
「でも、失敗より怖いのは、何も変わらないことだ。何も残せないまま、時だけが過ぎていくことだ。係長としての責任、それもあるけど……人としての誇りは、どこにある?」
ふと気づけば、机の隅で時計が時を刻む音がやけに大きく響いている。
「まあ……今日はまだ、決めなくていい。焦るな正岡。明日だって、あるんだから」
そう言い聞かせる声は、どこか優しくもあり、しかしほんの少しの痛みを帯びていた。
沈む夕日に背を向けて、彼は再びパソコンに向き直る。
今日という日を、静かに仕舞うために。