初恋の終わりは
「今日をもって、君とは婚約解消となった」
彼女の表情は変わらない。
「長い間婚約者として務めてくれてありがとう」
「勿体ないお言葉です」
何の感情も読み取れない声。
一礼して去って行くジェシカ・アンバー侯爵令嬢。
王宮の一室。私、第一王子アレックスは、七歳の時から十年間婚約していた初恋の少女ジェシカとの婚約を、今、解消した。
「えーっ! お二人の婚約解消の噂って本当だったんですか!」
「ああ、間も無く正式に公示される」
王立学園の放課後。
私は、側近兼護衛のジェラルド・ゴルディと、最近転入した男爵令嬢のノーラと歩いていた。
「理由は? 聞いていいですか?」
「ああ、どうせ公表される事だ。つまり、婚約が早すぎたんだ。七歳で結婚相手を決めても、成長すれば合わなくなる事もあるだろう?」
「あ〜、そりゃ仕方ないですね」
私は十年前を思い出す。
七歳のジェシカは、よく笑いよく怒ってよく泣き、私と共に転げ回って遊んだ少女だった。
「ジェシカ! 今日は宝物庫の探検だ!」
「本物の宝物があるんですね!」
「一番綺麗な宝物をジェシカにあげるぞ!」
「それはアレックス様のものですわ」
「お二人とも! 宝物庫は遊び場ではありません!」
「行くぞ!」
「オー!」
「お待ちくださいぃ~!」
城は、二人にとって最高の遊び場だった。
私たちの仲の良さで婚約が決まったのだが、それは今まで通りではいられないという事だった。
私の遊び相手は同性のジェラルドになり、ジェシカは王子の妃となるため淑女教育を受けだした。
そして十年経ち、ジェシカは感情を出さない物静かな淑女となっていた。
それは仕方のない事だと分かっている。
いずれ王妃となる身、好きや嫌いを顔に出すようではならない。たとえ心の中では怒り、悲しみ、苦しんでいても、人前では微笑んでいなくてはならないのだ。
分かっていても、私は悲しかった。あの無邪気でおてんばなジェシカが消えてしまった事が……。
父上に婚約解消を申し出たら、あっさり認めてもらえた。
「でも、ジェシカ様は大丈夫ですか? 今まで王子様の婚約者として他の令嬢たちから、ううん、国中の女性から羨ましいと思われていたのに」
「国中の女性から……?」
そ、そうなのか?
ノーラはちょっと前まで平民として生活していた男爵家の庶子だ。男爵家の嫡男が急逝し、思いがけず後継者となってしまった。
今まで自分たち母子に援助してくれてた男爵夫妻に恩返しするためにも少しでもマシな配偶者を男爵家に迎えるため「王立学園卒業」の肩書きが欲しい、というあからさま過ぎる理由で転入して来た娘だ。
そのあけすけな言い方が心地良くて親しくしている。
だから、逆にジェシカの冷たい振る舞いに耐え切れなくなってしまった。
「そんな羨ましい立場だったのに今は同情される立場だなんて、ジェシカ様に耐えられるでしょうか」
同情される立場……。
侯爵令嬢のジェシカは傷付いている事だろう……。
ジェシカを励ましてあげるべきかと考えながら廊下を進んでいると、反対側から賑やかな女子生徒のグループが歩いて来た。すれ違う時、その中に笑顔のジェシカがいるのに気づいて思わず声をかけた。
「ジェシカ」
振り返ったジェシカは一瞬で笑顔を消して
「殿下、ご機嫌麗しゅう。畏れながら、今後私の事は家名でお呼びください」
と、礼を執る。
「あ、そうだな。失礼した。アンバー嬢」
「いいえ。それでは失礼いたします」
背を向けたジェシカが、思い付いたように振り返ってジェラルドに声を掛けた。
「ゴルディ様。週末の騎士団の公開練習に、お父様のゴルディ団長は参加予定でしょうか?」
「あ、ああ。参加するはずだ」
「ありがとうございます。失礼いたしました」
再びジェシカが背を向けると同時に、「キャーッ!」と女子生徒たちに歓声が上がった。
「参加されますのね! イケオジ枠ゲットですわ」
「知的な副団長とのツーショットが見られるといいですわね」
「やんちゃなキース様もいいですわよ」
どうやら騎士団推しの人達らしい。
「いいですわね。ジェシカ様は、婚約中は騎士の皆様に護衛していただいたのですよね」
なんか、思ってたのと違う方向で羨ましがられてる。
「全然良くありませんわ。反王室派を警戒して警護している所で、『ステキ! こっち向いて!』とか言うわけにいきませんでしょう? 彼らをベストアングルで見たくても、私が動くと護衛も動くというこのもどかしさ!」
「お気の毒に……」
同情されてる。思ってたのと違う方向に。
「ですから、いつも皆様がギャラリーに紛れて騎士の皆様を見るベストポジションにいるのを羨ましく思ってましたのよ」
「まあ!」
「見つかってましたのね」
きゃっきゃと笑い声が遠ざかって行く。
「……ジェシカは騎士団推しだったのか?」
「私は存じませんでした」
「え~? あんなに楽しそうなのに気づかないってある?」
何か腑に落ちないまま、ノーラと別れて学園内に用意されている王族執務室の鍵を開ける。
ここには、国王が承認した者しか入れない。
「執務室」と名が付いているが、執務するだけではなくクーデターなどが起こった時に学園にいる王族がここに籠城できるよう厳重な作りになっている避難所でもあるのだ。
控えの間を通り奥のドアを開けると、既に来ていた側近のマーク・カロンが席を立って近づいてきた。
「アレックス様、ジェシカ様の話を聞きましたか?」
「……騎士団推しの話か?」
噂になっているのかとうんざりして言ったら、
「いえ、アーチェリー部に入会したそうです」
と、返された。
「……は? アーチェリーなんて好きだったのか?」
「私は存じませんでした」
ジェラルドとこのやり取り、さっきもやったような。
「ジェシカ様はアーチェリーがお好きなようですが、才能はカケラも無いそうで、お試し体験入会で射った矢は見事に四方八方に飛んでいったとか」
「……そうだ。ジェシカの運動神経は壊滅的なんだ」
すべって転ぶ。走ってぶつかる。
一度顔から転んだ時は、侍女たちの悲鳴で衛兵が駆けつけて来た。
この事が皆にバレないよう、ダンス以外の運動は禁止してたんだった。
……そうか、もう王子の婚約者じゃないから、運動神経が無いと呆れられても笑われても構わないのか。
改めて二人の関係が無くなった事を実感した。
王宮に戻ると、父の私室に呼び出された。
「何の御用でしょう」
ソファーに座って父と向き合う。
「実はな、王太子を三歳下の弟のフィリップに決めようと思って」
「はあ?!」
「だって、お前には結婚相手がいないから。次の王妃が誰になるか決まらない状態の王子を王太子にしたら、反王室派につけ込まれる隙を与えるようなものだろう?」
「相手がいなくは……」
いなくはないはずだ。王子様だぞ。
「それがいないんだ。お前と釣り合う身分の令嬢で婚約者がいないのは、9歳の伯爵令嬢と8歳の公爵令嬢だ。貴族の婚姻にこれくらいの歳の差があるのは珍しくないが、お前、どういう理由で婚約解消したか覚えているか?」
「婚約が早すぎた……」
「そんな理由で婚約解消したのに、幼い子供と婚約するのか? こいつ学習能力がないのか?と、思われるぞ」
「あ……」
「それがわかっているから、なかなかジェシカ嬢との婚約解消を言い出さないのだと思っていたよ」
「ジェ、ジェシカも相手が見つからないのでしょうか」
「今ごろ心配か。大丈夫だ。言い方は悪いがジェシカ嬢は婚約を解消された『キズモノ』だ。本来ならば家格で申し込めない者たちが、今がチャンスと申し込んでいるだろう」
ズルい!
「わ、私は今まで王太子になるものと思ってずっと努力してきました!」
「ジェシカ嬢も同じくらい努力してたのに、無かった事にしたのはお前だろう?」
「それは……」
「そういう事だから、お前は自力で結婚相手を探せ。王太子でなければ選択の幅は広がる。仲がいいという男爵令嬢の婿に行ってもいいぞ」
「ノーラとはそういう仲では……って、男爵家に婿入り!?」
どんだけ私の扱いは酷いんだ。
「ねえ殿下。ジェシカ様の話を聞きましたか?」
「アーチェリーの事か?」
「違います。ラーメン愛好会を作ったんです」
「はあ?」
翌日の放課後、私は昨日と同じようなやり取りを今度はノーラとしていた。
後ろに付いているジェラルドも驚いている。
「ジェシカはラーメンが好きだったのか?」
「私は存じませんでした」
このやり取り、もう何回目だ。
「ラーメンって、あれだろう。平民が二本の棒で挟んで食べるヌードル」
ナイフもフォークも使わぬ食事など、貴族にはあり得ない。
「今、貴族にもラーメンファンがいるんですよ。と言っても、ほとんど下位貴族の男性ですが」
「ジェシカは男に交ざってラーメンを食べる会を作ったという事か?」
「いえ、ジェシカ様がラーメン好きな男子生徒たちと盛り上がっていたら密かにラーメンに興味があった女子たちが参加を希望しまして、なら愛好会を作って皆で行きましょう、ってなりました」
「ラーメンに……、貴族令息令嬢が……」
「ちなみにあたしも会員です!」
王族執務室へ行くと、マークはもうラーメン愛好会の事を知っていた。
「既に学園から校外活動の許可を取ったそうですよ。人数が増えたから、手分けして王都中のラーメン屋をまわって『貴族がハマったラーメン屋ガイドブック』を発行して経済の活性化を目指すそうです」
「話が大きい……」
それに比べて私は……。
私は、ジェラルドとマークに昨日父上から言われた事を言った。
「結婚相手がいない? まさか……」
「いっそ、『私は国と結婚した』と独身を貫く覚悟なら王太子になれるのでは?」
そんなの嫌だ!
薄暗くなった頃、王族執務室を出て王族用馬車停めへ行こうとした私はいきなり後ろから現れた男に首にナイフを突きつけられた。反王室派だ。
ジェラルドを見ると、同じく現れた男に背中にナイフか何かを押し付けられているようだ。
学園内という事で油断した。馬車まで行けば護衛がいるのに。
そう思った時、飛んで来た矢が男の左腕を掠めた。
男が反射的に右腕で左腕を押さえた隙に、男の足を払う。男がナイフを放り出して尻餅をついた所をその腹に体重をかけた足を振り下ろし、地面に男を縫い留めた。
その間にジェラルドの方もかたがついたようだ。うずくまった男の右腕を後ろに捻り上げている。
右手で男を押さえながら、ジェラルドは左手で警笛を出して思いっ切り吹く。
緊急の音が遠くまで響き渡った。
これで安心、と思った私たちに近づいて来たのは、アーチェリーの胸当てをして弓を持ったジェシカだった。
矢で男の左腕を射ったのは、彼女だった。
ジェラルドの吹いた警笛の音が聞こえた馬車の護衛騎士と学園の警備兵たちが駆け付ける。
後は彼らに任せて、私たちとジェシカは王族執務室に戻って城から護衛が来るのを待つ事にした。
王族執務室の内鍵をかけて、倒れこむように三人でソファーに座ると、やっとホッとできた。
「ジェ、あ、アンバー嬢のおかげで助かった。礼を言う」
「いえ、たまたまですから」
「そう言えばあんなところで何をしていたのだ?」
「アーチェリーの矢が練習場の外に飛んで行ってしまったので、被害者がいないかこっそり探してましたの」
あの広い練習場からすら外すって、どんだけ下手くそなんだ。
「よくその腕前で敵を射ろうと思ったな……」
「背中は広いから運が良ければ当たると思ったんですが、ギリギリ左腕でしたね」
「下手すぎる……」
「褒めてくださいよ。失敗したら王子様殺害罪になる覚悟で射ったんですから」
「殺害されかけたのに褒めるか!」
ジェシカとこんなにポンポン言い合うのはどれくらいぶりだろう。昔に戻ったみたいだ。
……そうだ。昔のジェシカはこんな娘だった。
「ジェシカは、婚約を解消して随分変わったな」
「はい。殿下の婚約者じゃなくなったので、好きな物を好き、嫌いな物を嫌いと言えるようになりましたの」
やはり私の婚約者という立場がジェシカを抑えつけていたのか。
今のジェシカは、私が好きになった頃のジェシカだ。
「……もう一度婚約出来ないかな」
ジェシカの表情が消える。
また元の生活に戻るのは大変だろう。でもジェシカなら出来るよ。
表情を消したままジェシカが言う。
「殿下……。私は言いましたわ。好きな物を好き、嫌いな物を嫌いと言えるようになったと」
「ああ」
「嫌いな物は嫌いなんです」
…………え? まさか「嫌い」って私の事?
「私は十年間、殿下の婚約者として厳しく教育されました。それは婚約の時に覚悟しましたし、仕方のない事と思っています」
でも、とジェシカは続ける。
「殿下はご自分が被害者だと思っていらっしゃる。変わる私にがっかりし、そんな私を娶らなければならない自分を可哀想だと思っている。こんなはずではなかったと」
ジェシカの目にはもう私への愛情など無かった。
「私に分かったのは、殿下には、私に寄り添う気持ちが無いのだという事でした」
そんなつもりは……。
「ノーラ様と私を見比べてる目に気づいてないと思いましたか? 私は、陛下に殿下が婚約解消を申し出たら了承してくださるようお願いしてました」
父上にジェシカとの婚約解消を申し出た時、あっさりと了承されたのはそれでか。
私が過去のジェシカを追い求めている時、父上やジェシカはその先を考えていたのだ。
「これからは、好きな物だけを好きでいます」
ああ、君が表に出さないでいたのは「好き」だけじゃなくて「嫌い」もだったんだ。
何か言わなくては、と思った時にドアが強くノックされ、ゴルディ団長の心配する声が聞こえた。
ジェラルドが鍵を開けてゴルディ団長に対応しているドアの隙間を抜けて、ジェシカが去って行く。
私は、振り返ることなく歩いて行くジェシカを黙って見送るしか無かった。
ジェシカの後を、幼い私たちが追いかけていく幻が見えた気がした。
「宝物庫を探検だ! 行くぞ!」
「はいっ! アレックス様!」
※ 「射つ」で「うつ」と読むのはアーチェリー用語です。
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ありがとうございます(^o^)/




