第一章「受容」
――なにも、したいことが無いのだ。
小説を認めては売り込みに行っていた去年。全く売れず、未だに独り立ちできずにいる。
親は特に何も言わないので、余計不安である。
もう齢は二十を超えていた。
小説を認めている時間が好きだ。
自分の創造した世界が好きなのだ。
しかし売り込みに行って毎度言われるのは、『独り善がりだ』と。どうも私の小説は所詮自己満足の域を出ない、読者にとってはありふれた駄文である、と。そう言われてからは心が折れてしまい、それからは一切何も書かなくなった。
楽しく、書けなかった。ある日、一年掛けて文字で埋めた原稿用紙を町の真ん中でビリビリに破り捨てたときは、不思議と清々したものだ。
さてどうしようかと思案するが、しかし物書きとして生きていくしか考えていなかったがため、ただ親の脛を齧って生きている。
◆
確か、四年ほど前の事だったか。
至極しょうもない理由で勃発した隣国との戦争が終わり。当時は荒廃したかつての街を眺めては失意していたこの国だが、やっと最近になって、娯楽を求めだすほどには活気づいてきたのだ。戦争が勃発する前よりも小説や音楽の様な娯楽が希求されているこの頃。
小説家や作曲家は重宝された。
なのでこの自分にも務まる思っていたのだが。思い上がりだったようだ。
確かに、文章の書き方を習ったわけでは無く。ただ独学とも呼べない知識量で好き勝手作文していただけだなと、冷静になった今ならわかる。
すっかり、醒めてしまった。
◇
その日も、いつも通りの昼食を取っていた。
痛かった日差しも、いつの間にか涼しい微風と共に心地良くなった。
ここは街の郊外。国の中枢より相当離れた林の中。少し歩けば小さな町があり、食料品や衣服などの生活必需品は揃う。しかし町から離れてはいるので、こちらから町に下りることはあっても、むこうの町民がこちらに来ることはあまりない。そもそも、ここに家があることすら知っている者が少ないのだろう。この家の周辺も特段何かある訳でも無いし、ここへ来るとしてもこの家に寄るくらいしか無い故。特に他人とも触れ合わない生活をしている。
パン一枚と、目玉焼き。いつもの昼食だったが、朝食も同じ献立である。
それを、対面に座った母親と共に黙ったまま食べている。
幼いころ。父も小説家だったらしいのだが、街の劇作家から脚本の依頼が来たらしく、その出張中に行方不明となってしまい、それきり帰ってこないそう。私は当時未だ赤子であったが為に、顔や声は勿論、そもそも父の存在すら疑わしい程度には覚えていない。
昔は、誰も座っていない埃の被った椅子を眺めてはため息を漏らしていた母である。
昼食を食べ終わり、さて今日は少し外を散歩しようかと思い立った。
◇
疎らな紅葉が良く映える。緑葉と錯綜する紅葉もまた、存外に綺麗なものだ。
すっかり冷えた微風が涼しい。気付けば夏は過ぎていた。陽は薄い雲に覆われていて、余計、荒涼な景色である。
ふと耳を澄ますと、鳥の囀りが聴こえてくる。風の音と上手く調和していた。
さぁさぁと、葉の擦れる音もする。
嗚呼、気持ちが良い。
その時。
家の方から母が私を呼ぶ声が聞こえた。
私は、この景色を横目に家へと戻ったのだ。
◇
家へ着くと、戸の前に人影が見えた。自分より少し小柄で、華奢な人影。
も少し近づくと、その影の主は女性であると判った。肩辺りまで伸びた髪が、微風に靡いていたのだ。
控えめに膨らんだ胸部が、女性の淑やかさを助長している。
「あっ……あの…………」
そう私が声を掛けると、女性はその髪を再び靡かせながら振り向いた。
「…………君が……」
女性はそう呟きながら近づいてくる。
「君が、エリカさんか……?」
「そ、そうですけど…………」
私が目当てでわざわざここまで来たのか?
何故? 本当にわからない。
「あぁ、やっと来た」
家の中から母が出てきた。
「この人、あんたに用があるみたいでね」
「あ、あぁ……」
「私は中にいるから、何かあったら呼びなさい」
そう言って母はまた家の中へ戻っていった。
まだ混乱している。わからない。
女性は、改めて私に向き合った。
「名乗るのが遅れた。私はアザミという。今日は一つ、エリカさんに依頼があって、こうして伺った次第だ」
女性はアザミさんと言うそうだ。清廉な見た目とは裏腹に、話し方は女性にしては雄々しい。その雰囲気が、何故か心地いい。不思議な女性だ。
しかし、私に依頼? 私なんかに一体何を求めているんだ?
「少し前に、これを町で拾ってね……」
そう言ってアザミさんはズボンのポケットから一つの紙片を取り出し、私に見せつけた。
それは、私が昔町中で破り捨てたものであった。
「な、なんでそれを……」
「知ってるってことは、やはり君のなのか」
アザミさんは紙片を私に渡そうとした。
受け取り、紙片を眺めてみた。やはり私の書いたものだ。あの時は楽しく書いていた。その頃の思い出が反芻されるかと思っていたが、存外、なんとも思わないものだ。全く知らない赤の他人の投棄した紙片なのではないかとすら思えてしまう程に、私は、その紙片に全く興味を持てなかった。
「私はね、この紙片に書かれた文章を見てね、すっかり虜になってしまったのだよ」
その紙片は、ビリビリに破いた中でも、まだ大きく残っている。原稿用紙の紙片だが、半分しか裂かれていない。文字数にして百数十字程度である。
「……え? 私のが……?」
「あぁ、なんと言うか。自分を思い切りぶつけていると言うか、何者にも縛られていない感じが、ね」
それを他人は独り善がりと言うのだ。
「私は作曲をしているのだがね。何と言うか、長く曲を書いているとね、書く度書く度好きに書けなくなって行ってしまったんだよ。だから、思い思いに書ける君が、心の底から羨ましい」
アザミさんが、少し寂しそうに俯いた。
……全く羨むものでも無いだろう。
そう言おうとしたが、何故か憚られた。嬉しかったのだろうか。自分の創作が、初めて認められたのが、そんなにも。
「…………ありがとう……ございます」
か細い、か細い声だった。しかし、届いた。
「私の文章、誰にも認められたことが、無かったので……」
「ならそいつの感性が下劣だったのだ。気にする必要など、全く無いだろう」
「……そういうものですか…………?」
「そういうものだ」
この人が、羨ましい。
「いや、済まない。依頼の話をしなくてはな。私の芸術感なぞ今はどうでもいい」
再びアザミさんは私の方を向き直した。
「依頼というのは、私の曲の詞を書いて欲しいのだ」
……作詞だって…………?
「今までも頼まれて歌を書いたことはあるのだが、最期に、自分の為にひとつ詩を書こうと思ったのだが、思いの外私は私の事を知らぬようで、なかなか書けなかったのだ」
「……それで、代わりに私に書いて欲しい……と?」
「あぁ、そういう事だ」
……いや、わからない。
自分の為の詩を、赤の他人に頼むのか? 自分の事を知らぬから私に頼むと言っても、私はもっと彼女の事を知らない。それこそ矛盾している。
「でも……」
「頼む。お金ならいくらでも払う。もう必要ないからさ」
「いや、お金じゃなくて……」
「ならなんだ? 何が欲しい?」
そうじゃない。報酬じゃない。ただ私じゃ、そんな大層な作品に全く相応しくない。
「……いや、そうでは無くて…………」
「なら……」
「私なんかにそんな……」
「行ってきなさいな」
母が家の中から出てきてはそう言った。聞いていたのか。
「母さん……」
「エリカがいいって言ってくださっているんだから、書いてきたら?」
「……でも」
「だってあんた、放っておいてもずっと家に居るだけでしょ?」
言い返す言葉もなかった。
思い返せば、これが夢だったのだ。自分の文章を他人に求められるのが夢だったのだ。
「……わかりました、私なんかで良ければ」
「ありがとう! 嬉しいよ!」
そう言ってアザミさんは私の両の手を強く握り上下に振った。少し肘と肩が痛い。
「では早速娘様と我が家に向かいたいと思いますがよろしいかな?」
「え、ちょ……」
「どうか我が娘を、よろしくおねがいします」
母は恭しく一礼した。
こうして一人の作曲家との生活が始まったのだ。