追悼せよ九月一日
東京都知事が認めない、多くの日本人が背中を向ける追悼式へ、大野鉄平は黒スーツで向かった。
九月一日。
早朝だが暑い。
左手に持っている白い菊の花もしおれてしまいそうだ。
大野鉄平には在日韓国人の友達がいた。チング(韓国語で友達)の祖先は日本人に殺された。
チングはガッチリとした体つきをしていた。悪目立ちするほど背格好が良かった。一重の切れ長の目は優しかった。寡黙だったが声は良かった。
バスケを愛し、恵まれた体を存分に捧げた。
バスケのルールなんて鼻くそほどしか興味なかった鉄平も、あいつの実力がずば抜けているのがわかった。
女の子に告白されても断っていた。毎朝五時に起きて走っていた、エミネムを聴きながら眉間に皺を寄せて、何かから、逃げるように走っていた。
それが何か知ったのはあいつが、手を差し伸べても届かない穴に落ちてしまってからだ。
ボクは本当に差別ってものを甘く見ていた。すまない。おまえの心臓に針を刺していった奴を憎む。
過去形でしか語れない。
あいつはもういないのだ。
肩をいからせて鉄平は歩く。まだ誰もいない馬込霊園を歩く。関東大震災犠牲同胞慰霊碑、そこへ向かって早足で歩く。汗が額からにじる出る、記憶もにじみ出る。鉄平はネクタイをゆるめ、ジャケットを脱いだ。
頭と胸が怒りでたぎっている。
※
「おれの名前、ほんまはキム・ヨンファやねん。金本洋は仮の名前。その……在日韓国人やねん。ほんまの日本人やない」
張りつめた顔であいつは言った。鉄平はヨンファの母が作ってくれたイカチヂミを口いっぱいにほおばっていた。
ヨンファとは塾で出会った。学校は別だがお互いヒップポップ好きと知って友達になった。
鉄平はバスケの名門校から声がかかるほどの強豪選手だが、成績は悪く彼に勉強を教えるかわりに、ヨンファの母から晩ご飯をご馳走になった。
「知ってるよ。うちの母ちゃん、おばちゃんの作るキムチはな、本格的やから美味い言うてたもん。やっぱり在日韓国人の人やなぁって。スーパーに売ってるキムチなんかもう食われへんとか言うてな。店出したらええのにって」
「それはアカン!」
ヨンファが珍しく大きな声を出したので、鉄平はイカチヂミを喉に詰まらせそうになった。
「……塾では絶対に言うなよ。おれが在日韓国人とか……」
鉄平はお茶を飲んで、じっとヨンファの顔を見た。ずっと洋と呼んでいたが、高い鼻の先が三角形の横顔には、ヨンファという名前が似合った。
しかしもう、数学の授業についていけずぽかんと口を開けていた、あのあどけない「洋」はいなくなっていた。
ヨンファは唇を堅く結んでいる。
「言わんよ。言う必要ないからな。それよかおまえ、ヨンファって名前、爽やかでなんかええやん、ボクなんか鉄平やで、古くさくてかなんわ」
ヨンファは鉄平のほうをようやく見て、少し笑った。
「おまえみたいな、おっさんみたいな少年は鉄平って名前がぴったりや」
「なんやて、誰がおっさんやねん」
鉄平は口をとがらせる。
「だって、学校の奴にかなんわ、とかいう奴おらんもん」
「カーッ! 令和の関西弁離れか! 俺かて好きでこうなった訳やないで、じいさんの影響や」
「鉄平のじいちゃん、こてこてやもんな」
「そうや、うちのじいちゃん言うてたで。洋君はバスケ辞めて阪神に入ってくれへんかなーええピッチャーになると思うねんけどなーって」
「野球はアカン。ピッチャーのサインとか覚えられる自信ないわ」
「はー、もう、このアホに受験勉強させられるのは秀才のボクだけやで」
鉄平が笑った。ヨンファは三角座りから長い足を伸ばして、くつろいだ笑顔を見せた。
「ありがとうな。おまえは、受けいれてくれると思って。言ってよかった」
ヨンファが笑い、照れくさそうに坊主頭をなでた。
「なんやそれ。おまえが在日韓国人であろうが、なんであろが、おまえはおまえやん。なぁ、これからは二人の時はヨンファって呼んでもええ? なんかその方がしっくりくんねん」
「え? あ、いいけど」
ドアがノックされた。ヨンファが答える。
「洋、鉄平くん。ごはんできたよ」
ヨンファのお姉さん、優子がドアを開けて言った。優子はとても美人だ。女子校では噂になるほどだが、一緒に食事をしていくうちに、十六歳にしては大人びて見える美貌だが、無邪気な性格だとわかった。それを知るまで鉄平は優子に対して憧れを抱いていたが、よれよれのジャージで鬼のような形相でゲームをしている姿を見てから恋心は散って、気のええ姉ちゃんとして接した。
「なあなあ、鉄平くん。洋がヨンファやったらな、うちのほんまの名前はなんやと思う?」
優子が首を傾げて聞いてきた。
「姉ちゃん、聞いてたん!」
ヨンファが怒っても、優子はにこにこして頷いている。
「うちの名前は、キム・ナヨン。TWICEのナヨンと同じ名前やねんで」
腕を組んで、ふふん、とナヨンが気取る。
「ナヨンとヨンファか。ヨンが同じやねんな」
話しながら階段を降りて居間に行く。ちゃぶ台にはすでにたくさんのおかずが並んでいた。
「あ、おじさん。久しぶりです」
鉄平はヨンファの父を尊敬していた。四角い顔にカッコイイ皺が刻まれている。鋭い目に鷲鼻で、真一文字の口をしているが、心根は優しい。ヨンファと同じく寡黙だが、ソジュ(韓国焼酎)を飲むと目がとろんとして、よく喋った。
ヨンファの父は六角ナットを作る仕事をしている。その手はごつごつしているが指先は繊細に丸い、職人の手だ。鉄平くん、物作りはええ、努力した分、うまくなる。物作りは人間に対して平等や、ええもんを作り続けることがおれの生き甲斐や。ヨンファの父が酔った時の口癖だ。
母親は小学校の給食を作っている。目尻の下がった優しい顔をした、ほっそりとした彼女はお喋りだ。
鉄平は母子家庭で、母親は外科医で帰りが遅い。父親を知らずじいさんと向かい合って飯を食っていた鉄平にとって、この家族の団らんの一員になって食事をすることが幸せだった。
じいさんが半身不随で認知症になり、施設暮らしとなってから一人の家に帰らなくていいので嬉しかった。
「今日もごちそうさんでした! おばちゃん、らっきょキムチ美味いなぁ。ボク、らっきょ食べられへんかったけど、らっきょキムチは食えるわあ」
スニーカーの紐を結びながら喋っていると、急にあったかさに包まれた。
鉄平はヨンファの母親に抱きしめられていた。ぎゅっと体を引き寄せられ鉄平はおそるおそる、丸い背中に腕を回した。体が自然とそう動いた。
耳元ですすり泣きが聞こえる。
「鉄平ちゃん、ありがとうね。私たち家族が、在日でもええっていうてくれてね。鉄平ちゃんのお母さんもようしてくれて、ヨンファと友達になってくれて、ありがとう」
ヨンファの母は泣きながら言った。ナヨンも泣いている。ヨンファはうつむいていた。
「ありがとう、鉄平くん」
ヨンファの父が頭を下げる。
「え、あ、ちょっと。大げさですやん。そんなおじさん、頭下げといて。おばさんも、もう泣かんといて。みんなほんま、大げさやで。だって、ボク、この家族のこと好きやもん。韓国人とか、日本人とかさ、関係ないやん。同じ人間やんか」
鉄平は笑いながら言った。
「そんなことない!」
ヨンファが叫んだ。
「……おまえは日本人やからわかれへんねん。同じやない、おまえは違う、国に帰れっていう奴がおんねん……」
ヨンファが絞り出すような声で言う。ヨンファの母は鉄平から離れて、エプロンで涙を拭いて顔を背けた。それが、その仕草が、鉄平にチクリと刺さった。
ヨンファの父は黙って拳を握っている。その手は赤黒くなっている。
「そ、そんな……帰れ言うても、ここがみんなの家やんか! なんでやんねん……」
鉄平が言うと、ヨンファは唇を震わせた。
「鉄平くん」ヨンファの父が近づいてきて、優しく声をかけてくれた。
「私の名前は、キム・ドユン、家内はジウだ。今の君の気持ちをどうか大切にしてくれ。私たち家族は君のことを大切に思っていることを、忘れないでくれ」
暖かいドユンの手が、肩に置かれた。ドユン。その手にふさわしい名前だ。ジウ。慈悲深いおばさんに相応しい名前だ。
本名を隠して生きなければならない。その過酷さは十五歳の鉄平の全身を重くした。
鉄平は何も言えなくなり、ぺこりと頭を下げてキム一家を出た。自転車を押して帰った。
ドユン、ジウ、ナヨン、ヨンファ。キム一家の名前を口ずさみながら。
ヨンファが塾に来なくなった。ラインも既読無視だ。電話しても出ない。鉄平は塾の帰り、ヨンファの家に行った。庭にはコスモスが咲いて涼しい秋風に吹かれていた。
「鉄平くん……」
出てきたのは、ナヨンだった。いつもの元気はなく、気まずそうな顔をして目を伏せた。
いつも、いらっしゃい!
と引き戸を全開にして迎えてくれるのに、ナヨンは玄関から出てくるとそっと後ろ手で引き戸を閉めた。
「せっかく来てくれて悪いねんけど、その、いろいろあってな。ヨンファは鉄平くんと逢いたくないっていうねん」
「なんやそれ! ボクら友達やのに!」
「うん、そうやねんけど・・・ほんとに、いろいろあってな」
うつむいているナヨンの横を通り好き、鉄平は引き戸を開けた。
「なんやそれ、いろいろって何?」
「それはな、知られたくないって。鉄平くんには知られたくないって」
納得できない。友達じゃないか。
困ったとき、落ち込んだとき、慰めあって叱りあって支えあってきた。どれだけヨンファが赤点をとっても鉄平は怒らなかった、次がんばったらええやん、と笑顔でいった。
鉄平が塾のクラスメイトとケンカした時は、言っていいことと言ってはいけないことがあると、ヨンファは本気で叱ってくれた。
母子家庭で父親がいなくて寂しい幼少期だった話を真剣に聞いてくれた。
「こんばんは、鉄平です! おい、ヨンファ!」
ナヨンの制止を無視して、ドスドスと階段を上がりヨンファの部屋のドアを開けた。
ヨンファは長い足を折り畳んで、三角座りをしていた。自分の身を守るように。いつも三角座りをする、落ち込んだ時のヨンファ。
「おい、何があってん。友達やろ、話してくれ」
鉄平はヨンファの肩をつかんで言った。
ヨンファは唇を噛み、肘をぎゅっとつかんでさらに縮こまった。
「話してあげてよ。せっかく来てくれたし、鉄平くんならわかってくれるでしょ」
ナヨンが言った。
ヨンファは眉間に皺を寄せて、鉄平を見た。その目にはもう、純粋さはなかった。彼の目は冷え切っていた。
「ごめん、鉄平。俺、塾やめてん。もう勉強も教えてもらわんでもええよ。バスケもやめた。俺は工業高校行くわ」
ヨンファの声はカラカラしていた、鉄平が凝視すると彼はふっと笑った。
「俺はアホやから。受験生やのに、部活で問題起こしてもうてん。推薦入学、取り消された」
諦めきったヨンファの顔、弛緩した腕を膝からおろして、長い足を伸ばす。
「俺はな、チームメイトに嫌われてて、いろいろ言われてて」
ヨンファがカラカラの声で、無機質に、その「いろいろ」語り始めた。
「日本代表チームに在日韓国人がおんのんはおかしい、日本人ちゃうやん」
「在日って犯罪者多いらしいな」
「なんで韓国帰らんの、なんで外人のくせに日本人面してるん?」
「韓国ってあれやろ、慰安婦とかなんとか言うて金せびってる国やろ?」
「おまえんとこの国、またミサイル打ってきやがった」
「おまえの姉ちゃんも従軍慰安婦ってやつになって、体売ってんちゃう? 顔と体はええから儲かるやろ」
この言葉がヨンファに火をつけた。自分のことは耐えられても、姉のことを侮辱されて許せず、人種差別をしたチームメイトを殴った。 ヨンファの渾身の拳は人種差別者を吹っ飛ばし、倒れた相手は意識を失った。救急車が呼ばれ、騒動となった。
「やっぱりな、在日は」
人種差別者の親はやはり、人種差別者だった。頭を下げた父ドユンの顔は赤黒く、母ジウは泣いていた。
監督は暴力をふるう奴は試合に出せないと、ヨンファを二軍に落とした。
パスをもらえず試合でシュートを決められなくなっていたヨンファを、監督はやる気がないと判断していた。
「俺、韓国語は挨拶しか知らんのにな、外人って言われねん。どんだけ隠してもどっからか在日ってバレるし、どう生きたらええんやろな」
ヨンファはため息をついた。
隣の部屋からはナヨンの泣き声が聞こえてきた。
鉄平は奥歯をかみしめた。
先日、鉄平の母が泣きながら友達でいてやってくれという意味を知った。
「そんなんやったら、いっそアメリカへ行け。NBA選手になって見返せよ」
鉄平の提案をヨンファは鼻で笑った。
「それでも外国人やん。日本人は純血の日本人しか認めへんよ。それにもう、強いチームで試合に出られへん俺に、今よりもっと強い選手になる道はない」
「そんなん言い訳ろ! このまま逃げるんか、おまえバスケ大好きやのに! 何が外人じゃ、在日や純日本人や! おまえはおまえや、自分の生き方を貫けや!」
鉄平は首を熱くして、叫んだ。
「おまえに何がわかんねん!」
ヨンファが怒鳴った。
「おまえに分かるはずがにないやろろ。海外に行くにはパスポートいるやろ、おまえやったら大阪パスポートセンターに行けばもらえる、でもおれは外国籍やから韓国大使館や。おまえには恥ずかしいから黙ってたけど……告白してきた女の子、おれも好きやってん。少しだけ付き合った、すごいええ子やった。本気やった、隠し事したくなかった、家にきて母ちゃんと姉ちゃんに逢って欲しかったから、在日って打ち明けた」
ヨンファは眉をひそめ、強く息を吸い込み、吐いた。
「そしたら、なんかわからんけど外人ってことなんやろ。引くって言われた。そんで別れて、次の日、クラスメイトの嫌な奴に、チョンって呼ばれるようになった。父ちゃんがさんざん苦しめられてきた言葉や」
ヨンファは悲しい目で鉄平を見た。
「俺、その夜、晩飯の時に泣いてもうて。そんで全部話してん。おまえに俺の本名打ち明けたのは、ごめん、おまえを試した。そしたらおまえは受け止めてくれて、うれしかった……がんばろうとした、でももうアカン。ぼろぼろやねん、俺の心は」
涙を流すヨンファに、鉄平は何も言えなかった。彼を差別した者の気持ちがまったく理解できない。ヨンファが外人だから引く、と言った女が許せない。
鉄平は在日韓国人の生きづらさを、何も知らなかった。ヨンファの母が作る韓国料理を無邪気に食べて、美味い美味いとへらへらしていた自分が恥ずかしくなった。日韓の関係が微妙なことは知っている、だがそれがなぜか知ろうしなかった。
膝においた拳を痛いほど握ったら、涙が出てきた。
「……すまん。もう、家にこんといてくれ。おれはおまえが羨ましいから。おまえが難関志望校に合格したとき、おれ、心から喜ぶ自信がもう、ないねん。おまえとおると、劣等感しかないねん……ごめん、もう、友達じゃない」
顔を背けてヨンファは淡々と言った。言うことをあらかじめ決めていて、心の中で彼はそれを反芻し、やっと声にした言葉に聞こえた。
怒りと悲しみが心でうずまくが、それはすべて喉から逃走し、ただため息となった。
黙って鉄平は、ヨンファの家から去った。
鉄平は受験勉強に専念した。学校の友達も遠ざけた。会わなくなってから、ヨンファにはなんでも話せた相手、親友だったと気づいた。
おまえに何がわかるねん。
数式を解くのに疲れて集中力がなくなった時、ヨンファの言葉を思い出す。
わかりたかった。
しかし鉄平は実際に差別を見た、聞いたことがなく想像力で補うことは難しい、そして知ることも怖かった。
冬になった。試験日が近づいてきて、塾の空気は肌にちくちくと刺さった。模擬試験で合格ラインを余裕でとったが鉄平は気を抜かないようにしていた。
塾の休憩時間に何気なくインスタグラスを開いた。鉄平は猫の写真をアップしているアカウントをフォローしており、猫が見たかった。
一番上に表示された。
「遺書」と書いた封筒。
ヨンファの姉、ナヨンの投稿だ。
「遺書。みんなへ、さようなら。私たち家族はもうアカンです。悔しいから最後に書きます。私をレイプしたのは岸辺文彦、吉田達也、清水陽介の三人です。弟が岸辺を殺したのは私の為です。ごめん。さようなら」
画像の下に書かれた文章を読んで、鉄平は塾から飛び出た。
ヨンファの家までくると、玄関は開けっ放しで、奥から泣き声と怒鳴るような話し声が聞こえてきた。
廊下に若い女が座りこんで、泣きながら電話をしていた。
鉄平は居間を見た。
血だらけのヨンファが倒れていた。ナヨンが彼にかぶさるようにして、口から血を流していた。ジウは仰向けに倒れている、胸に包丁が突き刺さっている。
ドユンはあぐらの姿勢で固まっていた。刺身包丁を握ったドユンの腹からは赤黒い臓物が出ていた。
鉄平は腰を抜かした。
警察に保護され、母が迎えにきても鉄平は何も言えなかった。翌日は学校を休み、ひたすら寝た。
いつもより早く帰ってきた母が、寝ぼけている鉄平にすべてを教えてくれた。
「ヨンファくん一家は心中した。刺し傷や遺書からわかった。インスタグラムの投稿通り、ナヨンちゃんをレイプした岸辺をヨンファくんが殺してしまって、もうこれ以上アカンと思い詰めて心中しはったんや。岸辺は、ヨンファくんを侮辱して殴られた子の兄や。弟への報復やと岸辺は周りに言うてまわってたそうや。何が報復や! 差別的な侮辱をして弟が殴られて、仕返しとはなんや!」
母は涙を流し、鼻をすすった。
「なんであんないい人らが、心中なんかせなアカンねん。よう聞いとき、鉄平。ナヨンちゃんは大学生の男たちに騙されて山に連れていかれてレイプされた。在日の女やから慰安婦にしよう言うてたらしい。医者がこんなん言うたらアカンけど、殺された当然のことしたんや」
母は怒りながら泣いた、ぼたぼたと涙はテーブルに落ちた。
鉄平はこんなことを受け入れるのは嫌だ。全部悪い夢だと首を降り涙が流れるのを止めようとした。
「鉄平、ちょろちょろ泣くな! あんた、こんな悲惨なことはこれからの人生でそうそうない。こういう時は思いっきり悲しまないとアカン!」
母に肩を揺すられた。
ヨンファ、なんで殺す前にボクに言うてくれんかったんや。
ドユン、父ちゃんやのに子供殺すのどんだけ辛かったんや、なんでみんなで抱え込んで死んだんや。
うわあ、と盛大に鉄平は泣いた。
母と鉄平は獰猛に泣いて怒りと悲しみを吐き出せるだけ、吐き出して泣いた。
母と鉄平は葬儀の手伝いをした。
棺に花を入れるとき、鉄平はみんなの肩に手を置いた。
「ナヨンが死んだんは、私のせいや。私がナヨンをあの日、彼氏とその友達に頼まれてカラオケに呼んだから……あいつ、岸辺たちは車で送っていくって嘘つきやがって」
事件当時、鉄平と同じくインスタを見て飛んできた、ナヨンの親友は悔しそうに話した。
「警察のおっさんども、ちゃんと聞いてくれへん。ナヨンが自分から車に乗ったから悪いとか言うてくる。あいつらもナヨンが在日韓国人やからってバカにしてるんや」
ナヨンの親友は、ナヨンの遺体にすがりついて、なかなか離れなかった。
「ごめん、ナヨン。ごめんな」
「あんたのせいちゃうよ」
鉄平が声をかけても、彼女は泣き続けた。
しばらく街はマスコミで騒がしかった。在日韓国人の少年が姉の復讐で大学生を殺して、一家心中をした。そこが異常にクローズアップされ、ナヨンが「慰安婦」と蔑まされてレイプされたことは報道されなかった。ナヨンが大学生グループの誘いに乗ったのだ、と報道された。
ヤリマンの在日韓国人の女を襲ったら、在日韓国人の暴力的な少年が大学生を殺害した。
マスコミはヨンファがチームメイトを殴って退部になったことを関連づけて、そう取れる報道をした。
報道は事実からかけ離れていった。鉄平はマスコミがバカの好む情報を集めて口に入れていく詐欺師なんだと知った。
差別ってこういうことか、ヨンファ。ほんまに酷いな。
鉄平は第一志望の進学校に受かった。高校三年間、鉄平は成績上位ににいた。十七歳の時、一人で韓国へ行った。ドユンがよく美味かったと言っていた、有名な冷麺の店に行った。日韓の関係を学んだ。
関東大人災朝鮮人虐殺について知った。
※
鉄平は慰霊碑に花を置いた。
ジャケットを着てネクタイを結びなおした。
手を会わせ、深々とお辞儀をする。膝をついて、手をついて、額を地面に当てる。
「ドユン、ジウ、ナヨン、ヨンファ」
鉄平はキム一家の名を力強く、呼んだ。
「ドユン、ジウ、ナヨン、ヨンファ」
差別で死んでいった。
大震災の混乱の最中、差別していた朝鮮人がやり返してくるという恐怖が、流言を真実として認識させた。なんと醜いことであっただろう。
罪もないのに殺された。
罪もないのに差別され、居場所を奪う。殺しても尚、在日韓国人だから、凶暴だったと言う。自分たちとは違うルーツを持つ者たちを貶めることは、悪人の行いだ。それがさも常識かのように、冷やかな差別の目を持つ者たちよ。
鉄平は慰霊碑の前で土下座して、唸るように泣いた。
なぜ、ヨンファたちがあのような目に遭わなければならなかったのか。ヨンファが「チョン」と呼ばれチームメイトから罵声されなければ。ナヨンがレイプされていなければ。在日韓国人だから悪いのか。悪い訳がない、在日だからって悪いことは何もない。
追悼せよ。
あれから百年も経過したが日本人は自分たちの過ちを認めない。虐殺は続いている。
小池百合子都知事が、追悼しない追悼式が行われる。
キム・ドユン
キム・ジウ
キム・ナヨン
キム・ヨンファ
以降、ドユンの遺書。
「遺書
ヨンファが人を殺してしまいました。人殺しで在日韓国人だと、皆はまともに生きていけぬと判断した。私たちは弱虫だ。それは差別を受けてきたからだ。差別は人を小さくさせる、卑屈にさせる。
私の祖先は関東大震災で虐殺され、一人だけ命からがら逃げて大阪に居を移した。迫害された一族は本日、滅びる」
鉄平は遺書を読み上げた。
「君、ヨンファの友達の子?」
後ろを振り返ると、花束を抱いた、黒いワンピースの女がいた。大きな瞳に見覚えがある。
「あなたはナヨン姉ちゃんの」
「そう。親友や。あんたも来たんやね。おじさんの遺書を読んでから、毎年来てるんよ」
ナヨンの親友は花束を慰霊碑に置き、膝をついて祈りを捧げた。鉄平もそれにならった。
追悼せよ、九月一日。
お読みいただき、ありがとうございます。
あることをなかったことにはできません。
朝鮮人虐殺、徴用工、従軍慰安婦の歴史を認めて、差別がなくならない限り、この物語は終りません。