兄の判断
アナスタシアはヴィクトリアと同乗してクーパー家の屋敷に帰った。
当然、マティスは別の馬車だ。
ヴィクトリアは自身の家の馬車を一度返し、後でクーパー家に迎えに来るように伝えてアナスタシアと一緒にクーパー家の馬車に乗ってくれた。
馬車の中でもずっと手を握ってくれて最近評判のカフェの話などをしてくれる。
お陰で先程の怖気を催す出来事を思い出すことなくいられた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ようこそいらせられませ、マティス様、ヴィクトリア様」
執事長が出迎えてくれる。
「ただいま。お兄様はいつお帰りになるかわかるかしら?」
「セスラン様は既に御帰宅なさっておられます」
今日は仕事ではなかったようだ。
「あら。お兄様に用事があるのだけど、手は空いているかしら?」
「確認して参りましょう」
「私たちは応接室に行っているわ」
「承知しました」
執事長は一礼して立ち去る。
代わりにすっと寄ってきた侍女が応接室まで案内してくれる。
彼女にお茶を頼むと了承して部屋を出ていった。
アナスタシアとヴィクトリアが並んで座り、マティスはアナスタシアと角を挟んで隣り合った一人がけのソファに座った。
程なくして先程の侍女がお茶を運んできてそれぞれの前に置き、
「廊下で待機しておりますので何かありましたらお声をかけてくださいませ」
と告げて扉を開けたまま部屋を出ていく。
それからあまり間を置かずに足音が近づいてきた。
一応、開けたままの扉をノックしてから入ってくる。
執事長ではなく兄が直接応接室に現れた。
「アナお帰り。マティスと、それにヴィクトリア嬢まで。何かあったのか?」
よほどのことがない限り、マティスが他人と同席することはない。
そんなマティスがヴィクトリアとともにいることで何かあったのだと兄は悟ったようだ。
「ただいま、お兄様。今日はお仕事ではなかったのね」
「ああ、用事があって半休を取っていたんだ。それで何があった?」
「セスラン、とりあえず座ったら?」
兄はまだ腰も下ろしていない。
「あ、ああそうだな。すまない」
兄はアナスタシアの対面に座った。
「それで何があった?」
兄は真っ直ぐにアナスタシアを見ている。
これはアナスタシアに起こったことだ。自分で話さなければならない。
「えっと、」
ただ兄に何と言えばいいのだろう?
万が一見合い話でも来ていたら即刻断ってほしいので話さないという選択肢はない。
だけどどうやって伝えたら兄にしっかりと伝わりつつ悪口にならないだろうか?
あくまでもサンタール伯爵令息の性癖がアナスタシアに合わなかっただけで彼自身に何ら落ち度はないのだ。
一応は常識的範囲内の告白だった、と思う。
「誤解のないようにきっぱりはっきり告げるべきだよ」
マティスの言葉にヴィクトリアまで頷くので覚悟を決めた。
「変態に告白された」
……結局、率直過ぎる言葉になってしまった。
だけど、あれを事細かに説明するのは嫌だ。
「なっ……。どういうことだ?」
こめかみに青筋を立てた兄がマティスを見る。
「具体的に話すのはいいけど、二度もアナの耳に入れたいことじゃかいから、アナはここで少し待っていて」
マティスが説明してくれるようだ。
でもそれでいいのだろうか、という考えが沸き起こるが、自分の口からあれを言うのは嫌だ。
「大丈夫。僕に任せて。さすがに嫌でしょ、あれを言うの」
「え、ええ。ありがとう、マティス。お願いね」
「うん」
マティスに促されて兄が部屋の隅に移動する。
ヴィクトリアまでもがそちらについていった。
マティスが小声で説明するのを二人は真剣な顔で聞いている。
いつもならあの距離ではマティスの色気に当てられるところだが、今日はそれどころではないようだ。
そんなふうに考えながら眺めていると、いつの間にか侍女がお茶を淹れて直してくれていた。
「お嬢様、お三方の話し合いが終わるまでお茶を飲んでゆっくりなさってください。美味しいお菓子もありますよ」
「あ、ありがとう」
にこにこと微笑う侍女に促されて大人しく従うことにする。労りとともに妙な圧力も感じたからだ。
一人で静かにお茶を飲む。
ふわりといい香りのするお茶が心を優しくほぐしてくれる。
お茶請けに出されているクッキーを摘まんでいると、三人が戻ってきた。
元のように兄がアナスタシアの対面に、ヴィクトリアが隣に、マティスは一人がけのソファに腰を下ろした。
素早く確認するが兄もヴィクトリアもマティスの色気には当てられていないようだ。
それにほっとする。
侍女が素早く三人の分のお茶を淹れてそれぞれの前に出した。
先程マティスとヴィクトリアに出されていたお茶は既に下げられている。
兄がアナスタシアを真っ直ぐに見て告げてくる。
「アナ、マティスから話は聞いた。触れられなくて本当によかった。あんな変態に触られたら手が腐る」
兄の物言いに顔がひきつる。
さすがに言いすぎではないだろうか?
だが、誰も兄を窘めない。
「それで、その変態の名は?」
そういえば名乗られた時にはマティスは傍にいなかった。
アナスタシアは素直に告げる。
「アナム・サンタール伯爵令息よ」
兄だけではなく、ヴィクトリアとマティスも頷く。
「アナム・サンタール伯爵令息か、確か婚約の申し込みが来ていたな」
兄が斜め上を見て思い出すように言う。
やっぱり来ていたようだ。
「お兄様……」
「安心しろ。即刻断る」
「ありがとう、お兄様」
「当然だ。そんな変態のところに妹をやれるか」
マティスとヴィクトリアまで頷く。
だが一応家長は父だ。
あくまでもその権限は父にあるはずだ。
「お父様とお母様に相談は……」
「するまでもない。報告はするが、二人とも私と同じだと思うぞ」
マティスも言い添える。
「アナ、セスランに任せるといいよ。セスランならアナのいいようにしてくれる」
「ああ、任せろ」
ようやくアナスタシアはほっと息をついた。
兄がそれを見て真剣な顔でアナスタシアに忠告する。
「アナ、本当にしばらく一人になるのは避けるんだぞ」
「あの一人で終わるとは思えないからね」
アナスタシアは戦きながら強く頷いた。
もうああいう目に遭うのは御免だ。
ヴィクトリアがぎゅっとアナスタシアの手を握ってくれる。
「私もできるだけ一緒にいるから」
「ありがとう、ヴィー。心強いわ」
「もちろん僕もね」
「うん、ありがとう、マティス」
「ちゃんとロンにも言っておくから」
「そうだな。ロンにも共有しておいたほうが安心だな」
「ロン、呆れないかしら?」
「大丈夫だよ。たぶん排除に動くだろうし」
後半の部分はよく聞こえなかった。
アナスタシアは軽く首を傾げた。
「とにかく一人にならないこと。いいね?」
「ええ」
一人で対峙する勇気はアナスタシアにはなかった。
だからみんなの厚意に甘えてしまうが、実際のところ有り難かった。
「ヴィーもマティスもお兄様もありがとう」
「アナが大切だから当然のことだよ」
マティスの言葉に兄とヴィクトリアもはっきりと頷く。
「ありがとう」
アナスタシアは本当に周囲の人間に恵まれた。
それを実感した。
本当はこんな出来事で実感はしたくはなかったけれど。
読んでいただき、ありがとうございました。




