自己紹介がてらの小話 1.アナスタシアとマティス
学園に入学したら、誰かに見初められて告白されたり、誰かを好きになって告白したりして婚約者ができるかもしれない。
「ーーなんて思っている時が私にもあったわ」
しみじみとアナスタシア・クーパー伯爵令嬢は言った。
しかし学園に入学して半年、アナスタシアはその類いの声をかけられたことはない。
そもそも、みんなは家柄、容姿、立ち居振舞い、学業の成績、会話の運び方、センスや財力など、自分の持てるすべてを磨き、総動員してアピールしている。
ここは自分を売り込む戦場なのだ。
そのアピール合戦に参戦もしていないアナスタシアが選ばれるはずがないのだ。
なので、こうして学園内に設置されているベンチに一人で座っていても誰にも声をかけられることもない。
今現在、アナスタシアには婚約者はいない。
アナスタシアの両親はのんびりしているのか、アナスタシアも兄も婚約者を決められることはなかった。
かといって「好きになった人を連れてきなさい」とも言われていないので自由恋愛推奨派ではないと思う。
いくら自由恋愛が流行っているとはいえ、誰も彼もが自由恋愛を望んでいるわけではない。
実際に学園に入る前に婚約者が決まっているということはままある。
政略的なものかお互いに想い合ってかはともかくとして。
一番多いのが、学園にいる間に婚約者が決まる者だ。
自由恋愛だけではなく政略的なものだとしても、本人同士の相性を見るにも学園は十分機能していた。
全く知らない者同士より少しでも相手の人となりがわかっているほうがいい。
同じ空間にある程度一緒にいればどのような人物かということはおのずとわかるもの。
どうしても合わないという者同士というのもいるのだ。
本人たちの相性のよい者同士のほうが手を取り合って両家を発展させていくことができる。
学園に一定期間通う意味には、関係性を作っていくという側面もあるのだ。
だから焦る必要はない。
なんとなく空を流れ行く雲を眺めていると、不意に呼びかけられた。
「アナ」
アナスタシアは空から地上へと視線を戻した。
「マティス!」
そこにいたのは見知った青年だった。
マティス・バレリ伯爵令息。アナスタシアの一歳年上の幼馴染みだ。親同士が友人で、アナスタシアは兄とともによくバレリ領に遊びに行っていた。
素早く周囲を見回すが、見える範囲にはマティスしかいない。
それに密かに安堵する。
マティスの日の光を弾く癖のない銀髪も、少し垂れがちな神秘的な紫色の瞳も、左目尻の下にある泣きぼくろも、万人にとっては色気だだ漏れの危うい魅力を持っている、らしい。
だが、アナスタシアには何も感じられない。
アナスタシアにとってマティスの印象は寂しがり屋の大型犬だ。
みんながみんな、その潤んだような瞳を直視すると昇天してしまいそうな色気があると言うが、アナスタシアには雨の日に必死に捨てないで、傍にいて、拾って、一人にしないでと見つめてくる捨て犬の瞳のようだとしか思えない。
「帰らないの?」
「帰るわよ」
そう答えると当たり前のように手が差し出される。
その手に手を重ねて立ち上がる。
「アナ、あまり一人にならないようにね」
アナスタシアは首を傾げる。
「学園内とはいえ、変な輩はいるからね」
アナスタシアは苦笑する。
「私になんて誰も声をかけてこないわよ」
現にここに座っていた間、誰一人として声をかけてくる者はいなかった。
マティスは溜め息をついた。
「気づいていないのは本人ばかりか」
口の中で呟かれた言葉はアナスタシアには聞こえなかった。
「何か言った?」
「ううん、何にも」
「そう」
「アナ、今日うち来る?」
「そうね。少しだけお邪魔しようかしら」
「ついでに夕飯も食べていく?」
「今日は兄が夕飯は一緒に食べると言っていたから、ごめんね」
気安いそんな会話を交わしながらゆったりと馬車留めまで歩いていった。
読んでいただき、ありがとうございました。