従兄弟の悩み
アナスタシアは一人で学園内を歩いている時に従兄弟を見つけて駆け寄った。
「エリアスお兄様!」
エリアス・スタン侯爵令息。
一歳年上の従兄弟である彼もまだ学園に通っている。
父の姉の息子であり、アナスタシアが苦手としている従姉の弟だ。
亜麻色の髪に榛色の瞳を持つ優しい顔立ちの青年で、あの従姉の弟とは思えないほど穏やかだ。
いや、気の強い姉を持つからこそ穏やかなのかもしれない。
「やあ、アナ」
アナスタシアに声をかけたエリアスは辺りを見回した。
それから厳しい顔でアナスタシアを見る。
「アナ、一人で歩き回ったら危ないだろう」
「私に声をかけてくるような人はいないわ」
まったく困った子だと言う顔で見られるがアナスタシアにはさっぱり意味がわからない。
「……学園も品行方正な男ばかりではないということだ。令嬢というだけで危ないんだからあまり一人で歩き回らないこと。いいね?」
「……はい」
ここは殊勝に頷いておいたほうがいいだろう。
「絶対わかっていないだろう」
溜め息混じりにぼやかれる。
それにむぅと口を尖らせる。
「エリアスお兄様にはわからない苦悩があるの」
エリアスは友人が多い。
いつ見ても友人たちと楽しそうにしている。
そんなふうにいつも友人に囲まれているエリアスにはわからない。
「そういえば、エリアスお兄様お一人ね」
いつも誰かしらは一緒にいるのに今は一人だ。
だからアナスタシアが気楽に声をかけられたともいえる。
さすがに令息ばかりの中を声をかける勇気はない。
それに、それはあまりよろしくないこととされている。
「何かあったの?」
心なしかエリアスが落ち込んでいるように思えた。
「うーん、ちょっとね、言われたことが思いの外心に刺さってね」
「どんなこと?」
エリアスは苦笑する。
アナスタシアはこてんと首を傾げる。
「アナは本当にそういうところは容赦ないね」
「聞いてはいけないことだった?」
「ううん、そんなことないよ」
それから近くにあったベンチを示す。
「少し座ろうか」
「ええ」
アナスタシアはエリアスにエスコートされてベンチに向かう。
エリアスがハンカチをベンチに敷いてその上にアナスタシアを座らせた。
この従兄は本当にそういう気遣いがうまい。
人が周りに集まるのもよくわかる。
エリアスが隣に座った。
「それで何を言われたの?」
「僕と姉のことだよ」
アナスタシアはこてんと首を傾げた。
「似てない姉弟だとでも言われたの?」
エリアスは苦笑する。
「それは僕も思っていることだから言われたところで落ち込まないよ」
「じゃあ、何を言われたの?」
エリアスは整えた微笑みを浮かべた。
仮面とも言えるその微笑みをアナスタシアの前で浮かべるのは珍しい。
「姉が婿養子を取って家を継ぎ、僕がどこかの家に婿養子に入ればいいと言う者たちもいる」
「選択肢が増えたわね」
思ったことをそのまま言うと、エリアスは虚を突かれた顔になった。
変なことを言ったかしら?
アナスタシアは首を傾げる。
と、突然エリアスが声を上げて笑った。
アナスタシアはきょとんとする。
「本当だ。僕はお嫁さんをもらってもいいし、跡取り娘に惚れたら、そこに婿入りしてもいいのか」
「ええ、そうよ」
マティスやロンバルトは一人っ子だからどうしても嫁入りしてもらう必要がある。他に跡取りになる直系はいないので婿入りはできないのだ。
どうしても婿入りしたければ遠縁から養子を迎え入れるしかない。
その点、エリアスはどちらも選べるのだ。
この国では爵位を継ぐのは男子優先だが、女性でも継ぐことは出来る。
実際、何人か女性の爵位持ちはいる。
だからエリアスが婿入りしたければ彼の姉が爵位を継げばいいだけの話なのだ。
エリアスの姉ーーイザベルは優秀な女性ではあるので問題は全くない。
「そうか。姉上には感謝しないとね」
姉が爵位を継ぐだけの力量を備えているからエリアスはどちらの選択肢も取れる。
その点を感謝するのは正しいことだろう。
アナスタシアはにっこり微笑んだ。
憑き物が落ちたようなすっきりした顔でエリアスも微笑んだ。
「話を聞いてくれてありがとう、アナ」
「どちらかというと私は聞き出したほうよ」
「ああ、そうだね。でも、アナが聞いてくれたからすっきりしたよ」
「そう? ならよかったわ。」
エリアスの気持ちが軽くなったのならよかった。
「ありがとう。今日はもう帰るのかい?」
「ええ、授業は終わったもの」
「マティスたちは?」
エリアスはマティスやロンバルトとも面識がある。
さすがにマティスの色気を感じないということはないが、彼の色気に耐性のあるほうだ。
「さあ? 最後の授業は別だったから」
だからこそ、アナスタシアは一人で歩いていたのだ。
「そう。じゃあ、僕も帰るところだから馬車留めまで一緒に行こうか」
「ええ」
先に立ち上がったエリアスが差し出してきた手に手を重ねて立ち上がる。
さっとエリアスがハンカチを回収した。
エリアスにエスコートされて歩き出す。
おしゃべりをしながらの道行きはなかなか楽しい。
馬車留めまで並んで歩きながらエリアスは不意に言った。
「姉上は卒業してラウラはまだ入学してこない。今が一番穏やかに過ごせるんじゃないかな」
ラウラは父の妹の娘だ。アナスタシアとエリアスの従妹にあたる。
年齢はアナスタシアの二歳下だが、何故かアナスタシアに姉ぶるのだ。
だからアナスタシアはこの従妹ともできる限り会わないようにしている。
彼女が入学してきたら追いかけ回される未来しか見えない。
「そうね。今のうちに目一杯謳歌しておかなくちゃ」
「そうだね。色んな人と知り合って楽しく過ごすといいよ」
エリアスの言葉が突き刺さる。
善意で言ってくれているのはわかる。
だからアナスタシアは何でもないふりをして頷いた。
「ええ、そうするわね」
「友達を増やして一人でふらふら歩き回らないこと」
どうやら一人で歩いていることへのお説教というか心配だったようだ。
「そうね。気をつけるわ」
アナスタシアに言えるのはこの言葉だけだ。
彼が言うほど友人を作るのは簡単ではない。
友人の多いエリアスには信じられないことだろう。
一人でいる時はエリアスの傍に行かないほうがいいかもしれない。
そんなふうにおしゃべりしながら馬車停めに着くと迎えの馬車は来ていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。エリアス様も御一緒でしょうか?」
「いいえ。ここまで一緒に来ただけよ」
「左様でございますか」
御者はてきぱきと踏み台を用意して馬車の扉を開けてくれる。
エリアスの手を借りて馬車に乗り込む。
「それじゃあ、アナ、気をつけて帰るんだよ。寄り道しないようにね」
「ええ。エリアスお兄様も。ごきげんよう」
手を振れば手を振り返してくれて、それから扉が閉められた。
窓から外をのぞけばエリアスはその場を動かずに手を振ってくれる。
アナスタシアも手を振り返した。
「出ます」
馬車がゆっくりと動き出す。
エリアスが見えなくなったところでアナスタシアはカーテンを引いて深く椅子に座り直した。
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