31話 最高の奇跡をキミに。
クロノス・グラン・エヴァンズ公爵令息。
この国の国王陛下の遠縁にあたり宰相も務める公爵家、カイロス・グラン・エヴァンズ公爵の御子息であり、その人当たりの良さ、優秀さ、実直さを買われ魔法学院の生徒会長にも任命され、そしてこの私アメリア・フィル・リセットの婚約者、なのだそうだ。
「私はあなたの婚約者なのですか?」
「そ、そうだ」
クロノス様は一瞬だけ言い淀む。
「……婚約者」
私が呟くとズキン、と頭が痛む。
何かたくさんの大切な事を忘れてしまっているのは自分でも理解している。ただそれを思い出すきっかけになる言葉を聞くたびに奇妙な頭痛が私を襲った。
「アメリア、キミがどうしてここで眠っていたのか、自分が何者なのか、その全てをキミが知る術はない」
クロノス様は淡々とそう告げた。
「簡単に説明する。キミはおよそ一年前、北の山で失踪した妹のイリーシャを探す為に、単身山中を駆けずり回っていた。崖から転落しかけているイリーシャを見つけ、なんとかすんでのところで彼女を拾い上げたが、その反動でキミは流れの早い川へ転落した。下流でキミが発見された時はすでに虫の息だったが、かろうじて一命は取り留めた。だが、いつ目覚めるともわからない昏睡状態のまま、キミは長い時を過ごしていたのだ」
私がそんな事を……。
それで記憶を……?
「キミがこの世界の記憶を失くしているのは私の分析の魔法ですでに判明していた。私は……いや、私たちは皆、絶望した。それでもキミが生きていてくれさえすれば良いと、皆キミの介護に懸命であった」
「そうなの……ですね」
「ここまで言われてもキミには何もわからないだろう?」
「はい……何か、心がざわつくのですけれど、でも全てがおぼろげで……申し訳ございませんクロノス様。私はあなたの婚約者だというのに」
「……う、うむ」
クロノス様は少し頬を赤くして視線を逸らした。
「とにかくアメリア。キミがこの世界の記憶を取り戻す術は、現代の医学では存在しない」
「そうなのですね……」
私が憂うように瞳を下に落とすと、
「本来ならば、な」
「え?」
「キミがこの世界の記憶を取り戻す術が無いのは当然だ。何故ならキミは元々この世界の住人ではないのだからな。だが、以前の世界の記憶も無いのは、世の理によって消滅させられてしまったからだ、そうだ」
この方はいったい何を仰っているの?
ただでさえ混乱している私をからかっているのだろうか。
そんな風に訝しげに彼を見る。
「すまない。回りくどくなりすぎた。だ、だが……そ、その……っく」
クロノス様は妙に困り果てたような、照れ隠しのような不可思議な表情を見せた。
「くそ、ヴァレンシュタイン様め……」
「どうかなされたのですか?」
「い、いや。ああー、もう仕方があるまい!」
クロノス様は突然ガバっと立ち上がると、
「ア、アア、アメリアッ! わ、私は、キ、キキ、キミが好きだ! 大好きだ! あ、あ、愛しているッ!」
「は、はあ……?」
私は素っ頓狂な声を出しながらも、彼の想いが伝わり思わず私も赤面してしまった。
「だ、だからこれは! 決して! キミの記憶を取り戻す為だけの作業的行為という訳ではない事を事前に伝えさせておいてくれ!」
「あの、クロノス様。さっきから何を……」
「御免ッ!」
「ッんんん!?」
そう言いながら彼は私の両肩をガシっと掴んだかと思うと、私へとやや強引に口付けを交わした。
驚きと気恥ずかしさが同時に沸き起こる。
キスに慣れていないのはお互い様なのだろう。私は驚きながらも目を見開いて彼を見ているが、彼など目をギュッーっと瞑ってしまっている。
この唐突なファーストキスは、清涼的でほのかな甘い香水の香りと、微かな紅茶葉の香りに包まれていた。
中々離そうとしない柔らかな彼の唇の感触に、次第に私も瞳をうつろにし始めた。
……、……。
ファーストキスがこんなにも長くて、甘いものになるなんて、想像だにしなかった。
エルヴィン殿下に奪われていなくて本当に良かった。
クロノス様が初めてのお相手で本当に。
そう、心から安堵し、そして彼への愛情に包まれていく。
ああ――。
クロノス様、そういう事だったのね。
だからあんな馬鹿みたいな前置きを置いて。
うふふ、そんな事言わなくても、全てを思い出した私がクロノス様をそういう目で見るわけがないじゃない。
なんて思っていると、彼はゆっくりと私から顔を遠ざけ、ようやく長いキスが終わりを告げる、
「……アメリア、どう、だ?」
クロノス様が確かめるように尋ねた。
「……駄目、ですわ」
「う、嘘だアメリア。そんな……そんなはずは……ッ」
クロノス様のお顔が情けないほどに悲痛に歪んだ。
その表情があまりに痛々しそうだったので、私は少しだけ罪悪感を抱きながら優しく微笑んで、
「ファーストキスはあんな前置きなんてせずに、もっと雰囲気を大事にしてくださらないと。だからウィル様にもクロノス様は女心がわかっていない、と言われてしまうのですよ?」
私の言葉を聞いて、今度はクロノス様が目を見開いてその表情を歓喜なものへと一転させた。
「アメリアッ! 記憶が……いや、帰って来れたのだな!」
「はいクロノス様。おかげさまで奇跡が起こってくださったようです」
「そうか、そうか……そうかそうかそうかッ!」
それまで頑なに涙を見せた事などなかったクロノス様が、初めて私の目の前でその瞳を潤ませ、そして抱きしめてくれた。
おそらくこのハグは彼の照れ隠しだろう。その泣き顔を見られたくなかったのだ。
「ありがとうございますわ、クロノス様。そして、ヴァレンシュタイン様」
「私は何もしていない。全てはヴァレンシュタイン様のお導きだ」
私に顔を見られないように、でも震えた声で彼はそう言った。おかげで私も込み上げる涙を彼に見られなくて済んだ。
「改めて。クロノス様、ただいま戻りましたわ」
「ああ。おかえり、我が最愛の令嬢、アメリア」
私たちはしばらくの間、互いのぬくもりを感じあうように抱きしめ合った。
「……ところでクロノス様?」
「なんだいアメリア?」
「私たち、いつの間に婚約されていたのですか?」
「う、そ、それは……だな……」
「もしかしてなし崩し的にそんな感じにしてしまえ、みたいなノリでしたかしら?」
「う……なんというか、その……す、すまない」
「うふふ、冗談ですわ。クロノス様とのご婚約、謹んで承ります」
こうして私は、幾度もの巻き戻しの末に、最良の世界へと辿り着く事ができたのである。
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