第1話 大男を叩く
とある国のとある貴族が開いた仮面舞踏会。フレデリクとエリーネはそこで出会った。
ルールは二つ。
社交の場に相応しく装いを凝らし、顔は仮面で隠すこと。
隠されているお互いの身上を詮索しないこと。
だからフレデリクとエリーネは、お互いが誰であるかを知らなかった。
その時エリーネは、熊のような大男に口説かれ、壁際に追い詰められていた。
そこにフレデリクが通りかかった。
これだけなら気に留めないところなのだだが、フレデリクには大男の正体が分かってしまった。大きな顔に小さすぎる仮面は、間違いなく大臣の息子のものだ。
大臣の息子は女にしつこく迫っているようで、女の方は明らかに困っている。
その女がエリーネで、仮面で顔を隠していても、なかなかに美しい女だとフレデリクは思った。
「何だか楽しそうな話をしておいでですね」
いつもの気楽さでフレデリクは壁際の二人に声をかけた。
邪魔者が入って来て、大男は舌打ちした。
「ところがそうじゃない。なかなか彼女は笑ってくれなくて。そうだ、とっておきの俺の面白い話をしよう」
少し酒気を帯びて大男の顔は赤い。彼は得意げに話し始めた。
「最近俺は、なかなか『うん』と言わない女を口説くのに成功したのだが……」
それを聞いてエリーネの頬がぴくりと動いた、ようだ。
フレデリクは気づいたが、大男は全く気づいた風もない。
「……その方法というのが、女心を心得た、実にうまいやり方だったのだ」
「へえ、どんな?」
フレデリクは面白くもない話の先を促した。何せ相手は大臣の息子なのだ。丁重にお相手するに限る。
「……どうでもいい他の女に言い寄って、わざとその姿を見せつけた。すると彼女は慌てて、俺に泣きついて来たってわけさ」
「はあ……」
――それは実に卑劣なやり方だ。
フレデリクは思ったが口に出さなかった。
「嘘で言い寄った女の方は振ってやったが、これが実に心がけのいい女で、『あなたがそれで幸せならば』とかなんとか言いながら気持ちよく別れてくれたよ。少し惜しいことをしたかな……」
なんだか女の様子がおかしいようだ。うつむき、ぶるぶると肩を震わせている。
エリーネはそっと花瓶に近づく。花瓶は背丈ほどもある大きな物で、広がるように草花が入れて活けてある。
彼女はそこから花を、片手でつかめるだけつかんで抜き取る。そしてその束で大臣の息子の顔を勢いよく叩いた。
「何をするんだ!」
大臣の息子は叫んだ。なおも続けて女は大臣の息子を打とうとし、フレデリクは女の手をつかむ。
「何すんのよ!」と、エリーネが叫ぶ。
「ほら、事故ですよ。これは事故なんです。花瓶が急に倒れて来て……片づけを呼ぼう」
言いながら、フレデリクは花瓶を蹴って倒す。避けようとして大臣の息子が後に退く。
「お嬢さん、あなたもケガがないか見てもらった方がいい……」
フレデリクは女の手を引くと一目散に駆け出した。
あとにはみっともなく大声でわめく大男と、散乱した草花が残された。
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速足で歩きながらフレデリクは女に言った。
「あんた、あれはまずいぜ。相手が誰だか分ってるのか」
「知ってるわよ。大臣の息子でしょ。仮面を付けていれば身分の上下はないんじゃなかったの?」
「そうだけど、それは建前であって……知っててやったのか。あいつのことだから、仕返しされるかもしれないぞ」
「仕返し……?」
女はフレデリクの手を振り払い、立ち止まると大声で叫んだ。
「仕返ししたのは私の方よ!」
これを聞いてフレデリクは、しまった、と思った。幸い、周囲に大声を聞きつけた人はない。
それでも用心のため、素早く女の腕を取ると二人で露台の陰に姿を隠す。
エリーネは腕を引っ張らて移動しながら、怒り心頭に達した様子で話し続けた。
「あの男……あの男の言ってた『どうでもいい他の女』ってのが私よ。振られただけならともかく、それを言いふらされて、私、二回も馬鹿にされた。……どう? これでわかった? 私があの男を叩いてやったわけが?!」
「ああ、よく分かったよ。それは何というか、……」
事情が分かって、フレデリクは言葉を濁した。女は拳を握りしめた。
「本当はもう一発くらい、殴ってやりたかったのに!」
「それはやめた方がいいな」
「報復が怖いの?」
「違う。あの石頭を殴ったら、君の手のほうが折れてしまう」
これを聞いてエリーネは怒りから我に返った。




