2 大丈夫だから
亜久里さんに連れられて僕は踊り場へとやってきた。
ここはよくカップルがいちゃいちゃしているところとして有名で、放課後ということもあって階段の先にも、廊下の先にも人気は全くなかった。
「ど、どうしたの?亜久里さん」
亜久里さんの僕の腕を掴む手は異常に強かった。ここに来るまで全く目も合わせてくれず、早くあの場所から逃れたかったのだろう。
亜久里さんがあの男へ向けていた視線は、いつもの彼女からは考えられないほど冷徹だった。
そしてようやく振り返ったかと思うと、また誤魔化した笑みを浮かべるのだ。
「ごめんね、高橋くん」
掴んでいた腕を離しいつもの亜久里さんが戻ってくる。
「いや謝りたいのは僕の方で……。あの男の人と話してたのに、割り込んじゃってごめん。僕からじゃ全然見えなかったから」
「ううん、とても助かったよ」
「……あの男の人は誰なの?随分とその……イカつい人だったけど」
僕の問いに亜久里さんはわかりやすく苦笑した。思い返したくもないことを思い返すように、また、それを隠すように。
「実はあいつ、私の元カレでさ」
「元カレって……もしかして中学の?」
亜久里さんが言っていたことを思い出す。
たしか中学の頃の彼氏と別れてから、よく遊ぶようになったって。
「うん……。今はもう別れてるんだけど、よりを戻そうってしつこくて……」
「亜久里さんて、ああいう感じの人が好きだったんだ」
「まぁ昔は好きだったかな。顔とかスタイルとか。でも性格は最悪だけどね」
「あー……それはなんとなくわかるかも」
筋肉とか身長とかはめちゃくちゃ羨ましいけど、初対面の僕にあんな横柄な態度を取るのだ。性格が良い、とは言えないだろう。
「で?」
「え?」
僕が素っ頓狂な声を上げると、亜久里さんは少し首を傾げた。
「何か話しがあったんじゃないの?」
「あ、あぁその……」
しまった。突拍子もなく話しかけたもんだから話題を全く考えていなかった。
今日は天気がいいね、とか?最近エロゲーにハマってさ、一緒にしない?とか?
やめだやめだ。
話題がクソすぎる。
こういうとき、世の男子はなにを話すのだろう。サッカー部のキャプテン早瀬くんは、なぜあんなに女子と喋るのが上手なんだろう。
僕には到底真似できるものではなかった。
しばらく考えて、ようやく辿り着いたのは無難な回答だった。
「その……美化委員会のことで。今週は音楽室の掃除だから、それを伝えに……」
「……それだけ?」
「え、う、うん……」
「……そう」
僕が頷くと、亜久里さんは灰心喪気にわかりやすく肩を落とした。
今欲しい言葉はそれじゃない、と言われているような気分だった。
亜久里さんは僕に何かを期待していたのだろうか。何かを求めていたのだろうか。
なんにせよ、僕はここで言うべき言葉を誤ってしまったのだろう。
全くわからなかった。
なぜ亜久里さんが気落ちしているのか。
その理由が、全くわからなかった。
「高橋くんてさ」
「え、は、はい!?」
突然名前を呼ばれ、思わず声が裏返ってしまう。恥ずかしくて死にそうだった。
「結構奥手だよね」
「へ?」
「私と話しててもずっと緊張してるっていうかさ。なんか、距離があるっていうか」
「それは……ごめん」
「別に謝らなくていいてよ。好きって言われて嬉しかったのはたしかだから」
亜久里さんは軽く笑ってくれたけど、僕の気持ちは沈んでいた。
亜久里さんに対して失礼なことをしているという自覚はある。
でもどうしても慣れることができない。
こんな美人で可愛くてスタイルもいい女の子と一緒にいるだけでドキドキしてしまうのに、彼女と話すなんて心臓に悪すぎた。
亜久里さんが僕のことをどう思っているかはわからない。
けど、少なくとも僕は彼女のことが好きだ。
だからこそ余計に意識してしまっているのかもしれない。
もっと仲良くなりたいと思っているはずなのに、どうしてこうも上手くいかないのだろう。
思い返せば、きっかけも最悪だったな。
エッチさせてくれ!て普通に鳥肌もんだ。
その点僕は変にわがままで、それでもって臆病なのだ。
マイナスなことばかりを考えて、ずっと亜久里さんに話しかけることができなかった。
いざ話しかけれるようになったと思えば、僕は亜久里さんと目を見て話すこともままならない。
そんな姿を見てしまえば、こう思ってしまうのも不思議ではないだろう。
「でも」と亜久里さんは神妙な面持ちで口を開けた。
「でも、高橋くんは頼りたいって思えるような男には程遠いかもね」
「それは……」
返す言葉がなかった。
亜久里さんは体を反転させて、小さく手を振った。
「じゃあまたね、高橋くん。ヤりたくなったらいつでも連絡して」
「……はい」
「それと、心配しなくていいから。元カレのことは私の問題だし、大丈夫だから」
念を押すように言われると、僕も「わかりました」としか返事ができなかった。
いや、本当は他に返す言葉があるんだろうけど、どのみち僕に言う資格などなかった。
「はぁ」
亜久里さんがいなくなって深いため息をついた。
「やっぱりダメだな……僕は」
女の子の大丈夫は、大丈夫じゃないって大体相場が決まっている。どのラブコメ漫画を読んでもそうだった。
それでもあんなことを言われてしまえば何もできないのが現実。
「頼りたいと思える男か……」
たしかに、今の僕とは程遠い存在だった。