1 忘れられない笑顔
次の日、学校に着くと僕は悶々としていた。
昨日の一件以来、亜久里さんへの考え方が変わったからだ。
今までは絶対に手に入れることのできない高嶺の花として、密かに恋をしていた。きっとこれからもずっと僕の恋心は彼女に気づかれることもなく散るんだな、と思っていた。
それがあろうことかヤらせてもらえることになり、ラブホテルで事を済ませてしまったのだ。僕が不甲斐ないせいでキスだけで意識を失ってしまったが、前よりもずっと距離が近くなったような気がした。
でも、また離れてしまったような気がする。
僕は亜久里さんのことを何も知らないのだ。
最後に見せた彼女の苦しい笑顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
『言い寄ってくる男、みんな私の体目当てだから。誰も本気で好きだなんて思ってくれる人なんていない。でもそれも全部、遊んでる私が悪いんだけどね』
これは昨日亜久里さんが言っていた言葉だ。
誤魔化すように乾いた笑みを浮かべ、瞳の中は潤いひとつない、含蓄のある表情だった。
そんな顔を見てしまえば、疑問に思ってしまう。
亜久里さんがその時何を思っていたのか。
何を悩んでいたのか。
亜久里さんはもしかしたら、過去に何かがあったのかもしれない。遊んでいないとやってられない何かがあったのかもしれない。
たしか、中学の頃の元カレが……とか言っていたような気がする。
なんにせよ、僕はもっと亜久里さんのことを知りたいと思った。
「よう裕太。……なんか垢抜けた?」
邦隆が挨拶と同時に、僕の顔を見て不思議そうに言った。
たしかに最近のおかしな言動を見ていた彼からすれば、そのような表現をされてもおかしくないだろう。
それに、現に僕は亜久里さんとキスを交わしたことで一皮剥けたのだ。
「そ、そう?いつも通りだけど」
「いつも通りのわけあるか。最近のお前は酷かったからな。急に吐くは急に唸るは急に泣くはで、大変だったんだぞ」
「それは……ごめん」
「で、何があった」
「何がって?」
「とぼけるなよ。お前の顔見てたら普通にわかる」
さすが僕の唯一の友達。隠し事はできないみたいだ。
でも内容が内容なだけにとても話しづらい。
僕がヤらせてください!て言ったのは絶対にバレないようにしないとーー
「……あ、亜久里さん」
僕は横目に亜久里さんが教室に入ってきたことに気がついた。
急に心拍数が上がって目が泳いでしまう。
昨日の一件を思い出してしまったのだ。気持ちよすぎるキスのせいで昏倒してしまった自分が恥ずかしいと共に、亜久里さんの下着姿が脳裏に浮かぶ。
一瞬、亜久里さんと目が合った。
ただ彼女は僕を一瞥して何もなかったかのように席についた。
「あーなるほどな。だいたいわかったわ」
僕の顔が気持ち悪く綻び視線が亜久里さんに向いていることに気がついた邦隆は、全てを察したように言った。
「なに、ヤらせてもらったの」
「い、いや……ヤってはないけど……」
「けど?」
「その、キスだけ……」
僕は恥ずかしくなり顔を背けて言った。
「お前すげぇな」
邦隆は真顔で感嘆した。
*
放課後、僕と邦隆は帰りが遅くなっていた。
担任の先生に手伝ってほしいと30分ほど拘束されていたのだ。
授業プリントとたくさんの資料が入れられた段ボールを持っていたせいか、僕の筋肉のない痩せた体はプルプルと震えていた。
「こういうのって学級委員がやるもんじゃないの?」
「同感だな。おそらく俺たちなら引き受けてもらえると思ったんだろ」
クラスの最下層に位置する僕と邦隆。
こいつらなら頼み事も断れないと担任に舐められているのだろう。
まぁ実際に断らなかったんだけど。
「あー、疲れた。雑用はもう懲り懲りだよ……」
「あ、亜久里さんだ」
「えっ!」
突然の言葉に僕は驚いた。
「どこどこ!?」
「いや、あそこ。曲がり角の前」
邦隆は指差しながら言う。
金色の髪をした女の子なんて、この学校には亜久里さんしかいない。正真正銘、そこには亜久里さんが背中を向けて立っていのだ。
「裕太、お前話しかけてこいよ」
「え、なんで」
「キスしたんだろ?美化委員会がどうのこうのって適当に理由つけて話してこいよ」
「いや、僕みたいなミジンコが亜久里さんに話しかけるなんてそんなおこがましいこと……」
「じゃ、俺は帰るから」
「ちょっと邦隆!」
僕の意見など耳も傾けずに邦隆は風のように去っていった。
彼の後ろ姿からは頑張れと言いたいのか、ガッツポーズが見えた。
「え……どうしよう」
僕ひとりだけが取り残され、辺りは静寂に包まれている。
遠くからは部活をしている生徒たちの声が聞こえてきた。
何か話すきっかけがほしいのはたしかだ。
しかし、せっかく連絡先をもらったんだし、たわいもない雑談なら別に今ここで焦ってする必要もないと思う。
家に帰ってゆっくり連絡を取り合う方がよっぽど緊張しないしやりやすい。
でもやっぱり。
「あ、あの、亜久里さん!」
僕は好きな人とは顔を合わせて喋りたかった。
昨日の一件から、もう遠くから眺めているだけはやめたのだ。
強くなったよ僕。
3回も土下座したんだから、心が鍛えられたんだろう。もちろん緊張して顔なんて合わせられないけど、僕にとったら十分な成長だった。
「高橋くん……?」
亜久里さんが僕の声に反応して振り向いた。
「あ?誰お前」
同時に、亜久里さん以外の野太い声が聞こえたかと思うと、真っ直ぐに僕を睨む視線を感じて鳥肌が立った。
面を上げると亜久里さんの前に高身長で髪をスポーツ刈りした屈強な男が立っていた。
日焼けした肌と野性味たっぷりのツンとした容姿。
制服をだるく着崩してごつごつの筋肉が制服から浮き出ている。
死角だったのだろう。
こんな男がいるなら僕だって声をかけなかった。
「あ、あああ……」
僕は蛇に睨まれたカエルのように言葉にならない声を出した。
そして本能的に察する。
ーーコイツ、ヤバい。
直感だがわかる。
僕のことを見つめてくる瞳の奥底にある狂気的な殺気のようなものを感じるのだ。
男はまるで僕なんか視界にも入れたくないというように僕を見下ろしていた。
「なんだお前、亜久里の知り合いか?」
「あ……えっとその……」
筋肉質で逞しい肉体。曲がり角でぶつかったら5メートルぐらい吹き飛ばされそうなほどの体格差だ。
僕はあまりの動揺と恐怖に呂律が回らなかった。
だけど対する亜久里さんは少し安心したように言った。
「なに?もしかして美化委員会のこと?」
咄嗟に亜久里さんから目配せされる。
彼女の意図を察した僕は慌てて言葉を綴った。
「え……あ!そ、そう!」
僕がそう言うと、亜久里さんは男に対して冷たい目を向けて。
「ごめん、また今度にして」
すぐに背中を向けて逃げるように僕の手を掴んだ。
「行こ」
「うん……」
半ば強引だったけど、僕は亜久里さんの手を振り解くことはなかった。
「おいちょっと待てよ!亜久里!」
背中に飛びかかる怒声のようなものも、亜久里さんは一切耳を傾けなかった。
「おーい武、一緒に帰ろうぜ」
「帰りどうする?マックでも行く?」
「いいねー、ポテト食いたい」
男のいつもの友達であろう3人が手を振っている。
頭をくしゃくしゃにかいて、武と呼ばれた男は不満そうに遠くなっていく僕たちの背中を眺めていた。
「ちっ……あー今行くわ」