2 死んだ魚みたいな目
僕はいつもの席にいた。
窓側のいちばん端の席。そこに今日はまるで死んだ魚のような目をした一人の男子生徒が、椅子に溶けたように座り生気を失っていた。
「……どうしたんだよお前」
登校してきた邦隆は、そんな僕の哀れな姿を見て心配そうに尋ねた。
「あああ………」
言葉にならない声が、掠れて表に出た。
口から魂が抜けていっているような感覚が襲い、川の向こうでは死んだおじいちゃんが手を振っている幻覚が見える。
1日経っても、僕は立ち直れないでいたのだ。
「だよね、そうだよね。根暗陰キャオタクに優しいギャルなんて、現実にはいないよね」
遠くの方を眺め薄らと笑う僕は相当気味が悪かっただろう。
邦隆は大方を察したように。
「あーなるほど。そういうこと」
ボサボサに膨れ上がった髪を掻き分け、頭をかいた。
カクカシカジカ、事情を説明する。
「やっぱり噂は本当だったか。まぁ亜久里さんギャルだし、遊んでそうな雰囲気はあったしな」
「僕は信じたかったよ。亜久里さんは、実は清楚でお淑やかな誰にでも清い心を持っている系ギャルだって」
「お前にとっての亜久里さんて、聖女か天使か何かなの?」
「うう……だって、初めてまともに喋ってくれた女の子だったし……」
「たしかお前が好きになった理由が、美化委員で亜久里さんと一緒に活動するのが楽しかったからだもんな」
「そうだよ。なのに、亜久里さんは噂通りのヤリマンビッチだった」
でも幻滅だ、とかそういった感情はない。
ただ非モテ童貞が勝手に妄想を膨らませ、二次元の世界に落とし込んで好きになってしまっただけの話であって、亜久里さんは全く悪くないのだから。
きっと何か理由があってやっているに違いない。お金が必要とかそういうのだろう。
「ま、これで諦めがついたろ。お前が好きな高嶺の花はヤリマンビッチで、もっと手の届かないところにいっちまったしな」
「……そうだね。うん、僕には釣り合わないって神様から言われてるのかもね」
つまりは失恋だ。
家に泣きながら帰ったあの後、あれは亜久里さんではなかったと何回も自分に言い聞かせた。
よく見たら目元とか違って見えたような、チャームポイントの首元のほくろがなかったんじゃないかとか、現実を受け止めたくなかった。
でもやっぱり学校に行くと、見てしまう亜久里さんは昨日のラブホテルでおやじとイチャコラパンパンしていたあの亜久里さんそのもので。
だったらさ、と逆転の発想をしようと思う。
僕はあの後20回亜久里さんのことを思ってピーした。それは悲しかったからじゃない。亜久里さんと、ヤりたいと思ったからだ。
頼めば誰でもヤらせてくれるんだろ?
なら、僕だって!僕も頼んだら、ヤらせてくれるんじゃないのか!?
僕は勢いよく立ち上がった。
「おい、いきなりどうしたんだよ」
「亜久里さんがヤリマンだったのは……辛いよ」
僕は血涙を滲ませていた。
失恋した心がとてつもなく痛い。なのに、性欲は一段と盛っていた。
「でも、ヤらせてくれるなら……正直ヤりたい」
邦隆はドン引きしていた。
「お前どんだけヤりたいんだよ……」
「そりゃもう、亜久里さんがどんな声で喘ぐのかとか、どんな風に男を抱くのかとか、想像するだけでシコれちゃうくらいにヤりたいよ」
「お前の性欲がバグってるのは友達だからよく知ってるけど、そこまでとは思わなかったわ」
邦隆は額に手を当てて、呆れたようにため息をつく。
「じゃあ、行ってくるよ」
僕の視線の先には亜久里さんが。
頼めばヤらせてくれる。その噂は昨日のあの光景が実証していた。
だったら、僕もヤらせてくれるはずだ。
さぁ夢のジパングへ。
脱童貞への切符を掴むのはこの僕だ!!!
「……て、なんて声かけたらいいの?」
まずそこからだった。
「ヤらせてください、ていうの?無理じゃね?新学期始まってからまともに声もかけられず遠くから視姦してただけの僕に、そんな勇気なくね?」
「あぁ……そうだな」
「僕は、結局何もできない人間なんだろうか……」
「オナニーで我慢しような」
邦隆がそう一言告げると、僕はまた死んだ魚のような目で絶望に打ちひしがれるのだった。
「……泥酔したみたいになってるけど大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょっと吐きすぎて視界が朦朧としてるだけ」
「と、とりあえず気をつけてな」
下校のチャイムが鳴り、邦隆は僕に手を振った。
今日は終始迷惑をかけてしまった。箸を持つ気力がなかったからご飯を食べさせてもらったり、当てられても無反応だから代わりに教科書を読んでくれたり、うんち拭いてくれたり。
ごめん、最後のは嘘。
つまり言いたいことは、それぐらい僕は昨日のことがショックだったわけだ。
「さて、今日は美化委員の仕事があるんだっけな」
でも学校の活動に私情は持ち込まない。
美化委員は週に一回、音楽室や家庭科室などの教室を掃除する役目がある。それぞれのクラスの美化委員会が曜日ごとに決まった教室を掃除することになっているのだが、それが今日は僕のクラスだということだ。
掃除場所は家庭科室だ。
亜久里さんも一緒だけど。ま、どうせこないでしょ。
「あ、高橋くん。久しぶり」
「え、あ、亜久里さん……」
こういう時に限っているの、なんでなん?