1 根も葉もない噂
僕には特等席がある。
それは窓側に位置するいちばん後ろの席だ。
僕みたいな性格の人間には実に最高な場所である。人と喋るのが苦手で共通の趣味も少ないし、そんな僕がもしど真ん中の席にいたら。
なにあのインキャ、と周りの人間みんなが僕の方を見ているような気がして生きた心地がしないのだ。
だからこの席で良かったと本当に心の底から思う。先生から当てられる頻度も少ないし。
僕は窓の外を見る。
4月も終わり、外は桜の代わりの新緑が広がっていた。
春の終わりと夏の始まりを感じさせる風景である。
「……」
しかし、そんな新緑の景色を眺めても心が落ち着くことはなかった。
その理由はわかっている。
窓の外を眺めていたのはただの気休めだ。
彼女の方を向いてしまうと、心臓がいくつあっても足りなかったから。
亜久里ゆい、今どき珍しいギャル。
金色の髪は肩までに揃えられ、横顔は凛々しくも可愛らしい。着崩した制服からは谷間が見えてエロいし、短いスカートから伸びた白い肢体はさながら天使のようで、何よりエロい。
「おーす、裕太」
僕の心境などお構いなしに、一人の男が挨拶する。アフロのように膨れた髪が特徴的なメガネの男。只野邦隆だ。
僕の唯一の友達である。
「あ、ああくにたか……おはよ」
「なんでキョドってんの。また亜久里さん見てたのか?」
「……いやいや、そんなわけ」
図星を突かれて視線を逸らしてしまう。
邦隆は僕の前の席に荷物を下ろすと席についた。
「ま、恋をするのは勝手だけど。お前があんなギャルがタイプだなんて思いもしなかったわ」
「あ、亜久里さんはその……優しいし。こんな僕でも話しかけてくれるし」
「それは美化委員が一緒だからだろ?委員会活動なかったら絶対喋ってなかったろ」
「ま、まぁね。最近はサボって来ないけど」
「ほれみろ」
邦隆は呆れたようにため息を吐く。
「ぶっちゃけ亜久里さんはモテるぞ。最近だとサッカー部のキャプテン早瀬が告ったみたいだ」
「あのイケメンコミュ力お化けの早瀬くんが!?」
「振られたみたいだけどな」
「ほんとに!?」
バレンタインは下駄箱にチョコが入りきらないほど入っていた女子人気No. 1の、あの早瀬くんが振られただって?
だったら僕が亜久里さんと付き合うなんて不可能に近いじゃないか。ミジンコがライオンに恋するようなものだ。
月とスッポンとはまさにこのとこを指すのだろう。
そのような話をされると、僕はますます勇気を失ってしまった。最近ではもうこのまま遠くから眺めているだけでも十分幸せなんじゃないかとも思ってきた。
だが、これを痩せ我慢と言わないでなんと言うのか。僕は一歩踏み出せない現状をなんとか正当化したかった。
「でもまぁ、僕は別に付き合うとかはどうでもいいんだ。こうして遠くから眺めているだけでも十分幸せだよ」
ギャルってだけで最初は少し近寄りがたい人だとは思っていたけど、こんな僕とも喋ってくれるし(業務連絡)、優しいし、何より可愛いし。
それだけで、僕は満足なんだ。
亜久里さんは僕からすれば天使のようで、退屈な学校を彩ってくれたんだ。
ただそれだけでいい。決して付き合いたいとか身の丈に合わない話をしたいわけじゃない。
つまり僕はーー
「ま、亜久里さんて頼んだら誰とでもヤるクソビッチみたいだけどな」
「は?」
多分、今日いちばん声量が大きかっただろう。
「だから亜久里さんて頼んだら誰とでもヤるクソビッチーー」
「聞こえてるからやめて?」
聞き捨てならなかった。
密かに恋をしていた亜久里さんが、まさかヤリマンだったなんて。
「え?え?嘘だよね。ねえ嘘と言ってくれ」
「まぁ早瀬が流した噂だし、あんま信憑性ないけどな」
「なんだよ、驚かせるなって」
早瀬も悪いやつだ。
振られた腹いせに根も葉もない噂を流すなんて。顔がイケメンでも心がブサイクだったらダメなんだからな。
その顔を悪用するぐらいなら僕にくれ。
「あ、でもわりとマジかもしれないぜ?その噂」
「なんでだよ」
「実は早瀬以前に、亜久里さんのそういった話は結構あったらしい。ほら、学校の近くにラブホ街があるだろ?そこからおじさんと出てくる亜久里さんを見たとか」
「あ、あくまでも噂だろ?僕は信じないよ」
「信じる信じないは勝手だけど、俺は心配して言ってるんだ。亜久里さんのことは、ほどほどにしとけ」
「……う、うん」
いつにも増して心配してくれる邦隆に、反論する言葉もなく僕は力なく返事をした。
無意識に亜久里さんへと視線を向ける。
彼女はこちらのことなど気にも留めず、楽しそうに友達と話していた。
その笑顔はとても眩しくて、可愛くて、やっぱり天使のようで。
そんな彼女を見ると、噂なんて根も葉もないことだと思うのだ。
*
少し帰りが遅くなってしまった。
僕は美術部に所属しているのだが、その部長が横暴も横暴で。
今日は活動日ではなかったのに、僕を無理やり連れ出して「絵のモデルになれ」と命令してきたのだ。
それだけならば、まだいい。
問題なのは、モデルになっている間ずっと胸やら太腿やらを撫でまわしてくることだ。
しかも僕が嫌がっているにもかかわらず、執拗に……。
「今日は家に帰って有栖さんルートを進めようと思ってたのに!」
先日買ったエロゲー、なかなか面白くて最近は毎晩のようにプレイしている。深い意味で。
時刻は現在夜の8時。
この抜け道を使えば約10分の短縮になる。
そう思い立って僕は早足で歩いているわけだが。
僕は信じられない光景を目にしてしまう。
学校の近くにはラブホ街がある。そんなことは入学した時から知っている。
じゃあそこに恋する女の子がいたとしたら?
話は別になってくるじゃあないか。
「え……?」
「あ……」
ラフな格好に着替えた亜久里さんが、ラブホテルから出てきた。スーツ姿の男と共に。
目と目が合う。
僕はこの時、どんな顔をしていただろうか。
絶望?失望?いや、そんな感情ではない。
心の中がぽっかりと空いてしまったかのような、果てしない無だった。
対する亜久里さんは驚いていた。と同時に同じ学校の制服を着た僕を誰だと思い出していたことだろう。話したことは委員会のときぐらいだから、忘れられていてもおかしくない。
「ん、どうしたんだ?」
隣の男が突然立ち止まり無言になった亜久里さんを見て言う。
「え、ああ……別に、なんでもない」
「そうか?」
男は僕の方を一瞥して、亜久里さんの肩に手を回した。
亜久里さんは僕へと振り返ることもなく、また男と一緒に夜の街へと消えていった。
僕は呆然と立ちすくんでいた。
目からは涙がぽろぽろと溢れていた。
なんだこれ。なんで泣いているんだろう。
でも、こんな気持ちになったのは初めてだ。
今まで感じたことのない、どす黒い感情。
「くそっ!くそぉおおお!!」
僕は走り出した。
最近はギャルがオタクに優しくてなぜが好意を抱いている系の漫画を読み漁っていたせいか、もしかしたら僕にもとかありえないことを思っていたのだ。
二次元と三次元は一緒に考えてはいけない。
身をもって感じた瞬間だったよこんちくしょう!!!
家へと帰宅してベットへと飛び込む。
ずっとずっと、ベットの中で泣いていた。
でも、今日だけでゴミ箱いっぱいになったティッシュは涙を拭いただけのものではなかった。




