第二章ノ四
ミズル山の麓には小さな小川が流れている。ルーシュはその小川の中にたたずんで、轟々と赤く燃える山を見ていた。揺れる火柱が暗い闇を真昼の如く切り裂いていた。動物の悲鳴のような嘶きや、木々が切り裂かれ倒れる音が響き渡り、さながら地獄絵図のようだ。村人達が川縁にたたずみ、恐怖におののいた顔で神山を見上げ祈りの手を組んでいる。その様を、彼女は呆然と見つめていた。火の粉が蝶の鱗粉のように頭上に降り注いでくるが、熱さも痛みも感じない。足に浸した水の冷たさも、熱を含んだ夜風のぬるさも、なにもかも。
誰かが「神のお怒りだ」と呟く声が聞こえた。ばっと背を振り返り、ぬらぬらとした炎の影に濡れる村人達を見たが、誰もルーシュの存在に気付かない。むしろ、彼らはちらりともこちらを見ようとはしなかった。――――見えていないのだ。それでも、彼女は咎めるように村人達を睥睨し、唇を噛んだ。
「神の怒りだと」
押し殺した声は、微かに震えていた。それはルーシュの怒りと憎しみの深さを如実に物語っている。
「いったい誰がこの神聖なるルーナ女神の社に怒りを下すというのだ!」
握りしめた指の爪先が掌の肉に食い込む。暗い夜空に、炎の影が踊り、さながら女神の狂瀾に見える。しかし、これは神の罰ではない。人の手によって下されたものだ。
と、くらりと視界が揺れた。水面に出来る波紋のように景色が歪み、次ぎに気づいたとき彼女は懐かしい社の姿を目にしていた。いつの間にか山の麓の小川ではなく社脇の泉の中に一人きりでたたずんでいる。清水湧く青い水面も、いまは炎の赤とそれが作り出す黒い影に濁っている。古びた木造の社は、すでに半分が見る影もない。楼門は炎に包み込まれ漆黒と化しつつあった。火は余すところなく舐めるようにしてすべてを焼き尽くそうとしているようだった。
ルーシュは目を凝らし、辺りを窺う。生まれ育った場所が、突如何ものかの凶刃により失われていこうとしている。豊かな緑も美しい花畑も、すべて。獣達はどうしただろう、逃げ切れただろうか。上手くすれば山伝いに隣山へとたどり付けるはずだ。あの木の実を持ってきてくれた子狐は無事だろうか。
(おババは)
老巫女の姿はどんなに捜しても見えなかった。出来ることなら、今過ぐにでも社の中へ駆け込んで探し出したい。しかし、ルーシュの体は泉に縫いつけられ、そこから一歩も踏み出すことはできなかった。
自分の体は、カーシウェルの兄弟達の元にあるからだ。
ルーシュはこれを神託と呼んだ。もっとも、この場合視せているのは神ではなく、水の精霊ではあったが。カーシウェルは水の守護者、カンナ女神の力強き土だ。その眷族である精霊達の力も多分に強い。精霊がルーシュの来駕に慶んで力を使ったのだろう。彼女の魂だけを、遠く離れたミズルの山へと運んでくれた。この凶事をルーシュに知らせるために。
歯を噛み締めると、ぎりりと奥歯がすり潰れた音を立てた。目の前が悲憤で暗くなる。どうすることも出来ずむざむざと燃え朽ちてゆくのを見ているしかできない。そこへ楼門の奥から何かが転がり出てきた。炎の明かりにあぶられたそれは、酷く小さな黒い影だったが、長く伸ばした手足が人間だとわかる。老巫女かとルーシュが身を乗り出せば、それは今まで一度も見たことのない男だった。
男は裾が長い外套を着ていたが、頭の布は背に落としていた。煤で汚れた横顔を、赤い炎が照らしている。男は立ち上がり社を振り返った。男に続いて、次々に別の男達が火に巻かれながら飛び出してきた。彼らもあちこち煤や火傷で汚れていた。
「あったか?」
男の一人が仲間に尋ねる。彼らは皆首を振った。チッと、舌打ちが聞こえた。
「やはり、破軍も聖女もすでに失われたあとか」
忌々しげに男は顔を歪め、燃えさかる社を振り仰いだ。大きな音を立てて楼門の笠木が崩れ落ちた。ひゅっと、ルーシュの喉が鳴る。彼らに自分の姿が見えないとわかっていても、男達を睨み付ける視線に殺気が隠るのを押さえられなかった。
「古い社だ、よく燃えやがる」
「本当にこんなあばら屋に、神々の神宝があったのか?」
「うちの祇姫がそう仰るんだから、仕方ない」
その言葉を聞いてルーシュは瞠目した。祇姫とは神に仕える貴い女のことを指す尊称で、唯一聖女だけをこう呼ぶ。特に自社に対して用いることが多く、聖女の名前を呼ぶのはおそれ多いので、祇姫と。すなわち自分と同じ地位にいる女が、こんな凶行に及んでいるのだ。いや、その女は聖女という立場でありながら、ルーシュの社を燃やし神宝を奪おうとしている。
「さあ、行くぞ!」
男達は闇の中へと消えてしまう。その背を見送りながら、ルーシュは煮えたぎる怒りを覚えた。
どれほどの物を失うことになるのだろう。帰るべき社を、山を、緑を、恵みを、美しさを、命を。失ったのはルーシュだけではない。この山には多くの獣や鳥が暮らしていた。奴らは、ルーシュだけじゃなく彼らからも多くのものを奪ったのだ。
(これもまた破軍の招く禍か……)
胸の奥で、ルーシュは苦々しい痛みを感じた。
老巫女は、どうなっただろう。男達の様子では、老巫女には会っていないようだったが、この激しい炎の中では無事だなどと楽観もできない。逆巻く炎を含んだ風が、ルーシュの長い黒髪を煽った。白い頬を、赤く照らす。
暗く深い絶望が、ルーシュの胸を炎のように焦がした。