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第二章ノ三

「確かにわたしは巡礼者ではあるが、それはある意味世を忍ぶ仮の姿と言うヤツなのだ。本来、わたしの身分なら巡礼などする必要などないのだよ」

 ルーシュは大仰に言った。右手にナナの手を繋いでいる。彼はわかったようなわかっていないような、曖昧な顔をしながらも頷く。

 巫女にも位があるように宮社や聖女にも位がある。宮社の場合、祭神の格が社格を決めるし、それは聖女の位にも大きく左右される。神宮・大社・中社・小社の順に大きく分けられる。さらに摂社や末社、無格社と下ってゆき、無格社までくると神名帳には記載されずかろうじて地籍にのみ名を残す程度だ。母神樹を祀る社のことを唯一神宮と呼び、最高位に位置する。神宮の聖女は国王陛下と同等の地位を持ち、政にも参加する権限を持つ。もっとも、これは国が勝手に決めた事で、神々が定めたことではない。

 また、巡礼の意義は信仰への帰依だ。神々の軌跡をたどることで生きている間に犯してきた様々な過ちや罪を浄化し、神々からの祝福を受ける。または強い祈願を。その中でも母神樹の参詣は信者にとって最大の悲願だった。巡礼者の最大目的は、王都ユグドラシルにある母神樹を詣でることにある。世界の中心にあり、全世界を支えているとされる母神樹の頂には、神々の国があり国神でもある天空を統べるガール神と、母神エル・シーアが住まっている。一目でも、母神樹を目にすることが叶えば、神々の恩寵を受けられると信じられていた。その為に、多くの巡礼者がユグドラシルを最大の目的として旅を続ける。

 だがルーナ女神は天の頂の住人ではない。エル・シーアは、自らの分身としてルーナ女神を作った。ルーナは地に落ちて生まれた女神であるため、彼女の故郷は人間と同じこの広大な大地なのである。他の神々がエル・シーアの眷族であるのに比べ、ルーナは己自身が唯一無二の絶対者であるために、ルーシュは巡礼を行う必要もないし、母神樹を詣でる必要もない。この地そのものが、ルーナ女神の聖地なのだ。

 が、そんなことを子どもに語ったところで理解できるはずもない。

 彼は、ルーシュを都の北側へと歩かせる。北へ行けば行くほど様子が明らかに様変わってくる。西門を潜ってカーシウェルの中へ入ったのだが、そのときは整然と整えられた屋並みを見ることが出来た。しかし、北へ進めば進むほど秩序が目に見えて崩れてゆく。歪な路地が並び、あちこちにうらぶれた雰囲気が目立つ。石畳の砕けて剥がれた道の隙間には雑草がはびこりは、いっそう歩きにくく荷車は激しく揺れながら通り過ぎていった。そろそろ夜が訪れるというのに、帰る様子を見せず道に寝そべった子どもの姿や、物乞いの老人が手を伸ばして「お慈悲」をと歯のない口でもごもごと呟いた。

 都の中で、激しい貧富の落差があるのだ。美しい化粧顔の裏に、醜い素顔を垣間見た気がした。

「こっちだよ」

 ナナがルーシュの腕を引いた。無規格に建設された建物の間には、ときおりぽっかりと口を開けた空白があり、深い闇が凝っていた。その奥で目をぎらつかせた男がひっそりとこちらを窺っているときもあれば、息を殺した獣のように子ども達が瞳を閉じている。衣服をはだけた女が笑いながら手招きをしていることもあった。まるで蟻の巣穴のように穿たれた闇があちこちで目に付いた。

 病んでいるんだと、ルーシュは心の中で呟く。 貧富の差以上の問題だ。都の表部分が華やかなだけに、その差は顕著に目立つ。栄華の裏にある闇はどうしたって消せるものではない。しかし、この場所に澱んだのは闇と言うよりも、達の悪い病巣のようだと感じた。都を統括するのは、国から叙任された国司であるが、国司の中には大社の神官や巫女が兼任していることもよくある。


――――酷く、嫌な予感を覚えた。それは、神託にも似た、根拠のない予感だった。


 彼らの家は、路地の最奥にあった。石造りの家で窓が少なく、空気が澱んでいる。部屋の中は真っ暗だった。先に入ったナナが蝋燭に火を付ける。じじっと濡れた音をたてて、ぽっとオレンジの明かりが部屋の中を照らした。

「兄ちゃん!」

 たたっと部屋の奥へ駆けてゆく。その背を追いながら、ルーシュは家の中を見回した。簡素な調度品がぽつぽつと並んでいるが、手入れは行き届いていた。部屋の奥には木の寝台が置かれ、そこで男が横になっている。駆け寄った弟を視線だけ動かして見つめ、すぐにルーシュへと向けられる。あまり顔立ちは似ていないが、彼がナナの兄なのだろう。

「こんばんは」

 ルーシュは彼の方へ歩みながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。若者は押し黙ったままルーシュだけを見つめている。酷く乾いた瞳をしていた。

「兄ちゃんは口が利けないんだ」

 ぽそりとナナが呟いた。

「……そうか。わたしの名はルーシュ。巡礼中の巫女だ。おまえの弟に泣きつかれてな、おまえの病を診てやることになった」

 自分を無言で見上げている男は、二十代の青年だった。痩せこけた頬と土気色の肌、眼差しの奥には色濃い疲労と絶望が見えた。ルーシュは寝台の脇に腰掛けて青年と向かい合った。戸惑った眼差しを向ける彼を無視して、胸元に手を伸ばす。「名は?」と問えば彼は音のない唇をうっすらと動かし「マリ」と名乗った。

「ほう、水王の名ではないか」

「知ってるの?」

 脇からナナが顔を出す。ルーシュは微笑んだ。

「創世神話に載っている、三代目の王の名だ」

 神々の祝福を受けて人間は、母神樹の根方に国を作った。一番最初の王は炎王で、彼は太陽と大地の神から多くの祝福を受けて農耕技術とあらゆる作物の種を授かった。またその頃人間はエル・シーアとガールの手でしか生まれることができなかったが、炎王が母神に頼み人間は自らの身で命を創り出す権利を得た。このとき、人間は始めて男女に分かれた。それまで、人間は男でも女でもない、のっぺりとした人形のような姿をしていたのだそうだ。また鳥や獣や魚を作ったのも炎王である。その次の王は光王で、彼は人間の世界に昼と夜を作った。それまで、人間の国は母神樹の葉が落とす影と木漏れ日のせいで夜と昼がまだらにある世界だった。光王はガールに頼み込み、空を作るよう願った。また暦や時間、文字、言語を伝えたのも光王という。その次の水王は、慈悲深き王であったとされ、この王の時代に人間は信仰を得た。水王の名は、マリ・シュレジエという。

「慈悲深き水王は、命を尊ぶことや、慈しみや愛を教えた。良い名を授かったな」

 ルーシュの言葉に誇らしげに笑ったのは弟の方だった。自慢の兄なのだろう。本人の方は、曖昧に瞳を揺らせただけだった。この突然の訪問者である少女を、受け入れかねているのだろう。ルーシュは構わず彼の胸元をくつろげる。皮膚の薄い骨張った身体だった。きつく浮き上がった鎖骨や肋。引き連れた皮膚の様子に、眉を潜めたくなる。貧しさ故に、満足に食事もありつけずに仕事に勤しんでいたのだろう。彼の体からはやつれて萎びた気配しか感じなかった。胸の上をなぞるように手をかざし、深呼吸をするよう言う。口を開けて喉の奥を診る。傍らではナナが、少しでも目を放せば兄がどうにかなってしまうとでもいいたげな顔で見つめている。

「もう服を着てもいいぞ」

 ルーシュがそう告げると、マリは息を吐き出した。

「ねえ、兄ちゃんは大丈夫?」

「そうだな。まあ、命に別状はないと言っておこうか」

 ルーシュがそう告げると、彼らは始めてホッとしたように笑った。「良かった」と涙ぐむナナに、ルーシュは苦笑を浮かべる。が、改めてマリに向き直ると、彼の瞳をひたと見つめた。

 確かに命に別状はないが、決して良いともいえなかった。病みとは別の、もっと悪質でたちの悪い闇が彼の体を包み込んでいるのが、ルーシュには視えるのだ。それは蛇のように彼の体に絡んでいた。

 背負っていた袋を外套の下から出す。がさごそと中を漁り、いくつかの小瓶と干した草の束を取りだした。瓶の中には砂の結晶のような物が入っている。

「――――華々」

 「はい」と声がして懐からが出てくる。それを見て子どもが固まった。華々は黒い翼を蠢かし中に漂う。

「水を持ってきてくれ」

「わかりました。えっと……」

「ナナ。綺麗な水を組んできてくれないか、こいつと一緒に」

 ルーシュが華々を顎で指せば、ナナの体がぶるりと震えた。怯えた目でルーシュと華々を交互に見る。

「安心しろ、別におまえを取って食いやしないから。ちと薄気味悪く見えるかもしれんが、それでもれっきとした神の使いだ。崇めば、御利益が貰えるかもしれんぞ」

「薄気味悪いって、どーゆう意味ですか!」

 華々が立腹して尻尾を振ったが、ルーシュはさらりと無視をする。ぶつぶつと文句を言う白蛇と、びくびくと怯えた子どもが連れ立って家の外へ出ていくのを横目に見届け、ルーシュはマリを見た。

「これらはすべて薬草だ。わたしが今からおまえの病状にあった薬を調合してやろう。さすればすぐによくなる。わたしは巫女だが意味のない加持祈祷はしない。病気とは、大半が体自身の異常から起こるもので、そこに霊的な力は介在しない。おまえの体の不調は過労と栄養失調からくるもので、その原因は働き過ぎだと言うことと、きちんとした栄養を摂取していないからだ。もちろんこの世に霊的な病気がまったくないかといえば嘘になるが、神々も邪霊も意味なく人を呪ったり祟ったりするほど暇じゃない。まずそうゆう現象が起こることは少ないし、巫女に病は治せない」

 ルーシュは、擂り鉢を出して、そこに目分量で計った小瓶の中の砂や薬草を放り込み、ぐちぐちと潰して行く。華々とナナが水を組んで戻ってくれば、擂り鉢に数滴その水をたらし込む。出来たのは、黄緑色をした液体だった。マリに差し出し、飲むように促した。

「苦いが、よく効く。わたしが住んでいた山で取れた薬草類だ」

 しばらくの間、彼は逡巡するように器の中の液体を見下ろしていたが、意を決したように飲み干した。苦痛に顔を歪めるのに笑って、水を差しだしてやる。

「良薬口に苦しというんだ」

「治るの?」

 ルーシュはナナの頭を優しく撫でた。

「薬を三日分調合しておいてやろう。朝晩忘れずに飲むように。その後は、きちんとした医者に診せるのだな。病気の時はまず先に医者に診せる。それでダメなら巫女に診せる。その順番が一番正しい」

「あの、お代は?」

 ナナが両腕に華々を抱え込んで、ルーシュを見上げた。いつの間に、仲良くなってしまったのか。似たような緑の瞳でルーシュを見ている。

「そうだな……。では、一晩この家に厄介になると言うのでどうだろう?」

「は?」

「実は連れとはぐれてしまってな。わたしはこのカーシウェルへ来るのは始めてで、路銀も少ない。一晩泊めて貰えたら助かる。別に寝るところは床でも良いから」

 呆気にとられている兄弟にルーシュはにこりと微笑んだ。




 結局彼らに部屋を一つ借りることになった。さすがに女の子を石床に寝かせるわけにはゆかないと弟の部屋を、ルーシュ達に空けてくれたのである。薬を飲んだマリは、その後すぐに寝かしつけた。病気の治療に一番良いのは十分な休息。それには睡眠が最適だ。ルーシュは台所を借りて、残りの薬の調合に取りかかっていた。傍らではナナが興味津々に手元を覗き込んでいる。

「ねぇ、ルーシュは偉い巫女さまなんだよね?」

 兄の病を診てやったことで、彼の間にルーシュに対する信頼が生まれ始めたのだろう。懐こく話しかけてくる。その指がときおり思い出したように華々の鱗の背を撫でている。

「そうだな。偉いと言えば偉い気もするが……」

「偉い巫女なのに貧乏なんておかしいよね。宿に泊まる金もないなんてさ」

「カーシウェルでは巫女は金持ちなんだな」

 「うん」と頷く。社が豊なのは、そこへ多くの寄進や布施が集まるからで、必然的に民が豊でなければならない。だが、カーシウェルではその秩序が狂っている。

「どうして、ルーシュは巫女になったの?」

「それが、宿めだからかな」

「宿め?」

「神によって、あらかじめ決められた事象ということだ」

 「ふうん」とわかったようなわからないような顔をする。

「ねぇ、神さまは本当にいると思う?」

「いると信じている人間にとっては神は存在しているだろうし、そうではない人間には存在していないだろう」

「見たことある?」

「そうだな……。あるといえばあるような、ないといえばないような……。ほれ、おまえらの目の前にいる華々も、一応は神の末席に身を連ねるものだ」

 二人が華々を見れば、彼は得意気に胸を張って見せた。

「神がいなくても幸せになれると思うなら、信仰などする必要などないとわたしは思う。そもそも神などなくても人は幸せになれるものだ。それだけの祝福をかつて神々から与えられているのだから。一人で生きて幸福になれる術はとうに手の中にある。この国は信仰心厚い国だが、天を信じる気持ちは強制されるべきものではない。神の祝福は見返りと共にもたらされるものではないからだ。欲しいと願う人には誰にでも平等に与えられるものなのだよ。神々は人間なんかよりもずうっと慈悲深い。ただ、受けとる側がそう気付いているかいないか、それだけのことだ」

 素っ気ないほど淡々とルーシュは言い切ってみせる。

「神は無欲だ。それほどに慈悲深い。しかし人間は欲深く、それゆえに誤った信仰をしてしまう。ただ純粋に祈れ。さすれば、幸いはその手に与えられるだろう」

 ナナは不思議そうにルーシュを見ただけだった。難しい話しをしたつもりはなかったが、きちんと伝えるには神の存在は複雑すぎる。ルーシュもそこで話しをうち切ると再び薬を作る手を動かし始めた。かちかちと陶器の器が擦れあう音がした。すりつぶした薬草から緑色の汁が滲み出て、それは清々しい薫りを生みだした。薬の扱いをルーシュに教えてくれたのは、老巫女だった。他人との交わりの少ない山の中では、ちょっとした怪我や病気が命取りになることも少なくない。その為に叩き込まれた。

 ふっと、老巫女の顔が頭の中を過ぎった。山を下りて、もう八日を数える。こんなに長い間山を離れたのも、育ての親と別れたのも初めてだった。立て付けの悪い戸口の隙間から覗く夜の闇を見て考える。彼女は今一人きりでどうしているだろう。暗い闇の落ちた山奥の古びた社で、一人きり祈りを捧げているのだろうか。三人で暮らしていたときは思わなかったが、旅の道中華々と二人きりで過ごした夜は、どこか心許ない淋しさを覚えてなかなか寝付くことができなかった。どんなに側に誰かがいてくれても見知らぬ場所で過ごす夜は淋しい。あのふてぶてしく口喧しい老巫女も自分の中ではかけがえのない温もりだったのだと実感する。そう思うと、きゅぅっと胸が痛んだ。

 考え事に囚われながら手を動かしていたら、ふと水桶に指がぶつかった。外の共同井戸水で組んできたらしい水は、つんとした冷たさと澄んだ青さを称えていた。ちゃぷりと音を立てて、水が指に跳ねる。

 その瞬間、ルーシュの頭の奥を何かが貫いた。細く鋭い針が、まるで瞼の奥を貫通するような、衝撃。傷みに呻き、驚きに体が跳ねた。

「姫さま?」

 ルーシュの異変に真っ先に気付いたのは華々だった。主は、薬草を採ろうと手を伸ばしたままの姿で、唐突に固まってしまう。まるで、彼女の中でだけ時間が静止してしまったかのように見えた。瞳を見開き、その奥に見える黒い瞳孔が、乾いて張り付いている。何か音を紡ごうとして小さく開けられたままの唇。

 と、がたんと音がして、びくりと子どもが体を震わせた。強い風が、戸口を揺らしたのだ。がたがたと、響く。蝋燭が隙間風に大きくしなり揺れる。部屋の中に歪んだ影が生き物のように蠢いた。

「な、なに?」

 ナナが不安そうな声を出して、華々に身を寄せた。顔が怯えている。華々は、食い入るように主の顔を見た。

「あ……」

 掠れた声が、小さな唇から漏れる。ぎゅっと苦痛に呻くように、眦が引き絞られた。その瞳が虚空を見つめたまま、細められてゆく。


 ――――神託だ。


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