第二章ノ二
がらがらとけたたましい音がした。見ると、通りの向こう側から夕日を背にして大きな箱馬車が走ってくる。それはルーシュが一度も目にしたことがないほど豪華な馬車だった。箱は漆塗りで、所々に金箔が張ってあるのか、それが夕日にきらきらと瞬く。馬車には小窓が着いていたが、どれにも窓掛けがかけられ中は見えなかった。御者はお仕着せの立派な服をきており、頭に被った帽子には鳥の羽根が指してある。馬は二頭で、それを器用に操りながら凄い早さで駆けていた。
「どけどけ!」
御者が大声でがなり立てる。通りを行く人々は悲鳴を上げて飛びすさりながら道を明け渡す。ルーシュも出し損ねた足で蹈鞴を踏み、馬車が通り過ぎるのを待った。
視界が茜がかっている。まるで赤い色水を流し込んだ器の中で、自分が魚になって泳いでいるような気持ちになる。見上げると空の高い部分を鴉が飛んでいるのが見えた。先ほどまで自分がいた店の軒下に、ユファの姿は見えない。彼はまだ戻ってきていないようだった。華々は騙されたのだと言った。しかし、ルーシュはそれはないと思っている。騙すにしても、彼はルーシュからなに一つ利益を得ていないというのに、ここで別れてしまう方がおかしい。金を払うばかりだったユファは、むしろ損失しか被っていないはずだ。それに、ルーシュはユファを信用している。華々がなんと言おうと、彼を欠片も疑ってはいなかった。戻って来れないのは、戻って来れないなりの理由があるのだ。
ユファの事について考えを巡らせていたルーシュの耳に、大人達の短い悲鳴が聞こえた。「ああ!」という声と「危ない!」という声。ぼんやりと視線を彷徨わせていたルーシュは驚いた。馬車の進行方向に子どもが飛び出したのだ。両手を広げ、道をふさぐように飛び出した子どもは、馬車を止める気なのだ。はっとルーシュは御者を見る。しかし、男は子ども達を一瞥しただけで、手綱を緩める気配を見せようとはしなかった。
(轢く気なのか!)
ルーシュの血の気が下がった。それは周囲の大人達も同じなのだろうが、何故か彼らはそれを助けるでも非難する出もなく、立ちつくして傍観している。いや、竦んで動けないと言う方が正しいのかもしれない。
「姫さま!」
華々が声を上げた。
「華々、馬車を止めろ」
鋭く言い放って、ルーシュは子どもの方へと駆ける。懐から華々が躍り出た。真っ白な体がすうっと空気に溶けて消える。子どもはまるで棒を飲み込んだかのように、直立不動で道の真ん中に立ちつくしていた。ルーシュが駆け寄るが早いか、華々が馬車を止めるが早いか、それとも馬車が子どもをひき殺すが早いか。それはどれも一瞬の出来事だった。
ルーシュが子どもの体を引き掴んで道の脇に突き飛ばすのと、馬の足元に滑り込んだ華々が馬の手綱を力一杯引っ張ったのと、棹立ちした馬の足が先ほどまで子どもがいた場所を蹄で叩いたのは、ほぼ同時だった。
「うわああっ!」
御者が悲鳴を上げた。危うく転がり落ちそうになったのだ。馬が苛立った嘶きを上げて、止まった。
「な、なんだなんだっ!」
御者は叫びながら、きょろきょろと辺りを見回す。突然、手綱を強く引っ張られ腕を取られた。手の甲をぬめるような感触が撫でた気がした。しかし、御者台の上には自分の姿しかない。道ばたに薄汚い子どもが二人尻もちを付いている以外は、側に何もない。
「どうしました?」
小窓の布が薄く開いて、中から声がかかる。
「なぜ車を止めるのです?」
御者は慌てて、再び手綱を取って馬を走らせる。がらがらと車輪が回る音が、ルーシュの耳に聞こえた。顔を上げて馬車を見れば、目の前を通り過ぎる所だった。小窓に掛かった窓掛けが薄く捲れているのに、ルーシュは気付いた。細い指が、暗い色の布を掴んでいた。女の指だと、直感的に思う。
女だ。
暗い影の向こう側から、女がこちらを眺めている。ルーシュは顎を上げて、その顔を見つめ返した。色の白い肌と、凡庸とした顔立ち。とろりとした覇気のない瞳の奥に、ルーシュは何かを見た気がした。女の姿はすぐに通り過ぎて視界から外れてしまう。首を捻りそれを見送っていると、
「どうして邪魔したんだ!」
真横から怒鳴られた。驚く間もなく、掴みかかられる。
「なに?」
「どうして邪魔したんだよ」
それは先ほど自分が助けた子どもだった。年の頃は十ほどか。薄い灰色の髪の毛と緑色の瞳をしている。泥で汚れた頬が赤く紅潮し、うっすらと涙ぐんでいた。
「邪魔をした? むしろわたしは助けてやったんだ。あのままだと馬車に轢き殺されていたんだぞ」
「俺達はどうしても、あいつに用があったんだ!」
泣きじゃくるような激しさで、子どもは言った。ルーシュは眉を顰める。
「知り合いだったのか?」
「あの馬車に乗ってたヤツに、兄ちゃんの病気を診てもらうはずだったんだ、それをっ、それをおまえが邪魔したんだ! どうしてくれるんだ、兄ちゃんが死んじゃったら!」
わあっと、子どもはルーシュの胸に縋り付いて泣き出してしまった。呆気にとられる。道の脇に座りこんでいるせいで歩行者の邪魔になっているということさえ、失念した。「病気?」と心の中で呟けば、子どもはルーシュにしがみついたまま「兄ちゃん、兄ちゃん」と嗚咽を漏らし始めるではないか。稚い子どもにわんわんと泣き出され、ルーシュは狼狽えて慌てた。
「お、おい、ちょっと! なんなんだ!」
わたわたと、子どもを道の脇に立たせる。が、両手がルーシュの服の襟を掴んではなさない。背丈は、ルーシュの胸元程度でよくよく見れば本当に幼いのだ。彼に泣きつかれ彼女は天を仰いで呻いた。暮れかかった空は、すでに夜が満ち始めている。たなびく雲の色も藍色を帯びていた。いつまでもここでこうしているわけにはゆかないという気がした。ちらりと店の軒下に視線をやれば、ユファの姿はやはりなかった。どうしようと、途方にくれた気持ちがしてルーシュは溜息を吐き出すと、自分の胸元に顔を押しつけて泣いている子どもの頭をそっと撫でてやった。
「わたしに出来ることがあれば力になるから、どうか泣きやんでくれないか?」
子どもの扱いなど知らないし、泣いている子のあや仕方を知るわけもない。山で唯一の子どもは、自分自身だった。
「なぁ? 何があったか知らないが、まず話しをして欲しい。兄を助けるために体を張ったことは素晴らしいと思うが、それでもし怪我をしたり死んでしまっては、おまえが助けたいと思っている人はどれほどつらい想いをするだろう?」
ルーシュは、最大限優しい声で話しかけた。
「生きることがなによりも大事だ。そうでなければ誰も救えない」
子どもはおずおずと顔を上げる。頬が涙で赤く擦れている。ルーシュは微笑んでその涙を指先で拭ってやった。
「だが、おまえは生きている。生きている以上、できない事なんてなに一つないんだ。だから、わたしに何があったか教えてくれないか?」
泣きじゃくりながら子どもは自分の兄が病気なのだと教えてくれた。その兄の病を治すために、先ほどの車を止める必要があったのだと。
「さっきの車にはいったい誰が乗っていたんだ?」
「大社の聖女さま」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら上目使いにルーシュを見上げる。聖女という響きが鼻声のせいで「ちぇいじょ」と聞こえた。
巫女の勤めの中に、病除けの仕事がある。病とは、神々の祟りであったり精霊の悪戯であったり誰かの呪いであったり、また邪霊に取り憑かれたせいであったために起こるものだとして、病の原因を占いで調べ、病除けの祈祷や呪いをかける事を呪医と言った。なので病気になると医師ではなく巫女の元へ赴く人は多い。
「別に聖女を引き留めるだけなら、大社へ行けばよいだろう?」
「ダメなんだ」
子どもの名はナナといった。彼は項垂れて首を振る。
「大社は、貧乏人の面倒を診てくれやしない。母さんも父さんもいなくて兄ちゃんがずっと面倒を見ていてくれてたんだけど、その兄ちゃんも病気で、金なんてないよ」
ぐすりと彼の瞳にまた涙が溜まるのを見て取って、ルーシュは「わ~!」と叫び声を上げた。
「貧乏人は診てくれないって、神々の慈悲は誰の元にも平等に注がれる物だろうが」
報恩の寄進やお布施は善意で施されるもので、無理矢理奪い取る物ではない。どの宮社もそのようになっているはずだ。困っている物に慈悲の手を差し伸べることが、神に仕える者の一番の勤めのはずなのである。
「特に聖女に診て貰えるのは、一部の金持ちだけなんだ。普通の人間は、下級の巫女に診てもらうのでもやっとだし、俺達みたいな貧乏人は、まず診てもらうなんて無理なんだよ」
ルーシュはその言葉に、顔を顰めた。
「社が、崇敬者を選別していると言うことか……」
それは、あってはならいことだ。こくりとナナは頷く。
「だから、無理にでも兄ちゃんを診てもらうしかないんだよ!」
「あ~わかった、わかったから、泣くなよ。わたしは子どものあや仕方を知らないんだ」
ルーシュは両掌を子どもに向かって差し出して、なんとか彼の涙を食い止める。
「いいか、子どもよ、よく聞け。都合の良いことに、実はわたしは巫女なのだ」
ルーシュはえへんと胸を張り、彼らの前に自分が肩から下げている紫色の襷を見せた。しかし、彼はきょとりとした顔で、ルーシュを見つめ返すだけだ。反応がない。もしかして巡礼者の事を知らないのだろうかと考える。
「これでも、すごい力を持っているのだ。おまえらの兄は、わたしが診てしんぜようではないか」
「でも、巡礼するような巫女って事は、ものすごく小さな田舎社の巫女ってことだろ? そんなのに診てもらっても」
「こら、糞ガキ! おそれ多くも聖女になんたる無礼なことを言うんだ!」
「聖女、本当に?」
不安げに、ナナが顔を曇らせる。ルーシュは呆れて溜息を落とした。子どもは不安が拭えないと言いたげだった。巫女にも位があるが、霊力は目に見えるものではない。霊力がなんたるかをを知らぬ者から見れば、巫女の格はどうにも外見で決められてしまうのだ。彼といくばくも歳の変わらぬように見えるルーシュをすぐに信じられぬのも無理ないことだったのかもしれない。
「とりあえず、兄の所に案内しろ」
ルーシュは彼らの手を引っぱって、歩き出した。